休息(1)
「理性と知性が、衝動と攻撃性に負けた……その瞬間だけ人間じゃなくなっていた?」
「そう思う」
胡桃がためらわずに頷いた。
佐船が発した言葉を肯定することは、彼女にとって、自分の心の中にどうしようもない化け物を飼っていたと認めることになる。
そいつに自分のすべてを委ねてしまったと認めることに他ならない。
やっぱり胡桃ちゃんは強い人だ、と香穂は改めて思った。
一度『内なる獣』を発現させた人が"再発"させることなく過ごしている理由など、3人で考えたいことがまだある。
だけど、決して強くない身体が、休眠を最優先にしようとしている。
香穂は素直に目を閉じた。
──。
目を覚ますと、寝室のベッドに寝かされているのが分かった。
酸素マスクはもうつけていない。
壁掛け時計を見て口の中で「うげっ」と呟く。
午前3時を少し回ったところだ。
実験を終えたのが前日の午前10時くらいだったはずだから……18時間も眠っていたことになる。
よくわからない器材のおかげなのか、身体に問題は残っていないようだ。
半身を起こして、枕元に"お大事に"と書かれた手書きのメモを見つけた。
佐船の字だ。目が覚めたら動いてもいいというようなことが書き添えられている。
もうひと眠りするか、それとも起きてしまうか。
それが問題だ。
「……ナヴィ・ノワール?」
『はいよ』
姿を現した補助者を抱き上げ、包み込んだ。
『暑いだろ、もう5月だよ?』
「いいの。年中この毛なの?」
『ぬいぐるみと同じさ。僕らはちゃんと生きてるけど、普通の生き物じゃないんだ。……そんなことより、カホちゃんが無事でよかったよ』
「意外。叱られると思ったのに」
『どうして? 稲生見部長じゃあるまいし、僕は君が好きなように行動するのを阻むつもりなんかないよ』
「部長さん、嫌い?」
ちょっと苦笑して、尋ねる。
『ああ、嫌いだね。君はもう許せてるの?』
「わかんない。今は上司でもあるし、いちいち突っかかってたら面倒だなーとは思う」
『……そう』
「ねえ、ナヴィ・ノワール。補助者と魔導師の恋愛って、うまく行くのかな」
『クルミちゃんとナヴィ・フルールのことだね。一般論が聞きたいわけじゃないだろ』
「うん。なんとなく、気になる」
『フルールはクルミちゃんが直感してる通りのヤツだからな。あいつだけが知ってる方法で、何とでもしちまうんじゃないか? "お願いポイント"に頼らなくてもいいと踏んでるのさ……本当はそれだけの力があるヤツなんだよ』
「何で、すぐ決着をつけてしまわないんだろう」
『たとえば1日目で告白されるギャルゲーが面白いかい?』
「アリだとは思うけど」
この場合はゲームとしてアリかどうか、ではない。「ナヴィ・フルールが求めてるのはそういうのじゃないってことよね」
『そゆこと。あいつの事情を詳しく知ってるわけじゃないからこれ以上は言えないけど、少なくとも日常や恋愛を楽しみたがってるのは確かだと思うよ』
"あいつ"と言う時の声の調子がとても優しい事に、香穂は気づいた。
ぶっきらぼうに見えているだけなのだと思う。
「……もうひと眠り、しとこうかな」
『そうした方がいい。何か飲んだり食べたりしてからでもいいと思うけど……』
「自分で作るのめんどくさい」
『ですよねー』
ナヴィ・ノワールが香穂の膝から素早く降りて、居間の方へ向かう。
小さなバスケットを背中に載せて戻って来た。つくづく器用な奴である。
『出前だよ』
「……おばか」
『ははは』
"ごめん、ありがとう"という丸文字のメモがついた、バスケットを開けた。
魔法で保温された、ふた付きのマグカップ。それと、小粒のチョコレートが少数。
適温のココアを飲み、チョコレートをひとつだけ食べた。
ココアは甘すぎず、チョコレートがそのぶん甘い。
よく知られてしまっていると思う。
よく知ってくれていると思う。
『……気持ちに応えられなくて、残念?』
「少し、ね。大事に思ってくれてるのがうれしい分だけ……って感じ」
たとえば"選ばなかった選択肢の世界"ならば。
あの時の続きは──。
"ラヴィ・アン・ローズ"で命脈を断たれても、自分は闇の魔法ですぐに蘇生して、何度でも彼女の暴走を阻むのではないか。
もしかすると、そうしているうちに、胡桃の方に夢中になってしまうかもしれない。
ただの空想だ。
我慢できずにもう一つ食べたチョコレートと同じ。
頭の中で甘く溶けてゆくだけの、選ばなかった選択肢。
極上の甘みの余韻を味わいながら、香穂はもう一度ベッドに入った。
2021/5/1更新。




