瑞穂香穂の場合(3)
「変わりたいと思ってなかったんだよね」
香穂は少し考えて、気長に待ってくれる刀哉に言う。
「それは?」
「むずかしいと自分が思うことをしたくなかった──自分を認めたり、人から褒めてもらえるようなことに取り組むのが面倒だった。勉強とかよりゲームしてる方が楽だったし、今でもそういうところがある」
お手本のように努力を続けて来た刀哉に聞いてもらうのが恥ずかしい。
でも、言いたいことが形になるまで待ってくれたから。
「刀哉たちに責められなかったのが不思議だったの。いつでも近くに居てくれて、好きだって言ってくれるのも……嬉しいけど」
「責めるってどう責めるんだ、"私らは努力してるのに"とかって?」
「そんな感じ。だって皆すごいもん、学生しながら働いてるわけじゃん。今まで怠けてたわたしなんかが今さら努力したって追いつけるわけない。そう思って、わたし、何もしなかった」
「努力をしなかった、できたのにしなかった。だから何をしても褒められるべきじゃない。褒められるのに慣れるなんてありえない」
無言でうなずく。
刀哉が息を浅く吸った。
「あのな、香穂。努力するかどうかなんてその人の勝手なんだと私は思うよ」
「え」
「少なくとも私は、いま自分がしてる事を努力だと思ったことが一度もない──それは身体を鍛えるのも刀を扱うのも楽しくてしょうがないから。まあ、だから壊れかけてたんだけど」
「うん」
「自分が努力しているからと言って、できているからと言って。家族や他人にそれを強制することなんて、本当は誰にもできないんだ。その点、君は誰に対しても"もっと頑張れ"なんて一っ言も言ったことがないだろう。だから一緒に居て楽なんだ」
「それは……そう、だけど」
「香穂がいろんなものを乗り越えたことを、努力していることを私たちは知ってる。崩れそうなときに助けられた、支えてもらった。寄り添ってもらえて、それがうれしかった。誰も責めないし嫌いにならない。なるはずない。……納得できないかい?」
「ぐうの音も出ません」
「よろしい」
微笑んだ刀哉が羊羹を口に運ぶ。
白Tシャツにデニムというラフな格好だ。よく似合っているが、着物や浴衣を着て歩く姿も見てみたい気がする。
「和服とか、一緒に着てみたいな」
「それならついでに所作も習ってみないか? 母に頼めば喜んで引き受けてくれるよ。私から話を通しておこう」
「いいのっ!?」
「もちろん。母も隠れオタクだから香穂のオタク喫茶に来たがるだろうけど──好きな時でいい、また私ン家にも遊びに来てくれ。新しい世界を知るのもきっと楽しい」
「うん! っていうかちょっと待って、お母さんもって言った?」
「私は刀オタクだけど。言ってなかったっけか」
「ううん、多分わたしが忘れてるだけ。ごめん」
「いや、まあ……いいんだ」
こちらから歩み寄って、もっと刀哉のことを知っていたら。
そしたら、もっと支えになる事ができたかもしれない。
そう思ったら、つい、親友を見つめてしまっていたようだ。
「選ばなかった選択肢を考えていたのか」
「……うん。なんで分かるの?」
「私も同じだから。歩んで来た分岐がもし少しでも違っていたら、誰よりも君の傍に居たがったのは、私かもしれない」
「後悔してくれてる?」
わざと訊いた。
刀哉なら、期待した通りの答えを持ってきてくれると確信して。
他の分岐はどうだか分からないけど、この場では彼女の答えは決まっているはずで──そうでないと、香穂もちょっと困ってしまうわけで。
「香穂には悪いが、それはない。君が陽さんを選んだように、私はあいつを選んだから。女優デビューとかってのをする前にユージとの婚約も発表しちまうつもりだ。誰かから余計な詮索とかされても面倒なだけだもん」
「刀哉のそういうとこ、好きだよ。ファンの人とかもそうなんじゃないかな」
「ま、ユージには覚悟を強いることになるかも知れないけど」
「将来のお嫁さんのためだもん、ユージ君だって頑張ってくれるよきっと」
「ははは……遅くまでありがとう、香穂。祝やシルヴィアにも気の毒なことしちゃったな」
「今メールきたよ。明日で大丈夫だって」
「ありがたい」
「どこで寝る?」
「2階の部屋を借りたい」
希望通りの部屋の鍵を渡し、立ち上がって踵を返す刀哉を見送る。
オタク喫茶での勤務シフトを話し合うのを忘れたことに気付いたが、急がなくてもいいかと開き直って、香穂も倖を伴って寝室へ向かった。
2021/8/6更新。