火事場の馬鹿力
「火事場の馬鹿力、って知ってる?」
感情が絶頂まで昂った時、限界まで追い詰められた時、あるいは意思を貫きたいと強く思った時に、人は自分でも信じられない程の力を出せる。巷ではそれを「火事場の馬鹿力」と呼ぶようだ。
昔、洞窟の中で焚き火の明かりを眺めながら、そのときアルスの姉が口にした言葉だった。
そのあと彼女は、欠けたティーカップを揺らしながらぽつりと呟いていた。
「こんなこと言った後で悪いけど――」
『アルスは絶対に馬鹿力出しちゃいけないからね。ほんとに危ないから』
アルスの心臓が大きく脈打った。それを境に、糸が切れたように身体が動かせなくなり、彼女は剣を構えたまま地面に崩れ落ちた。
「そういうことだったんだ……」
アルスは荒い息を繰り返し、腑に落ちた気分で自分の手を見つめた。皮膚のあちこちには亀裂が走って血が流れ、莫大な魔力に身体が耐えられなかったことを示している。
当時六歳のアルスには、どうして馬鹿力を出してはいけないのか理解できなかった。しかし、実際にやってしまった今なら分かる。
姉が拒んだ理由はただ一つ。世界中の何よりも大切なアルスの身体が壊れてしまうから。
だからといってここで、今ここで限界が来るのはあまりにも酷い。酷すぎる。
体は動かないが、魔力の循環はまだ鮮明に見えた。敵の魔力に滞りは少なく、じきに起き上がだろう。アルスは歯噛みした。あと一瞬、一撃ぶんだけでも猶予があったなら――
しかし、次に聞こえた音は竜の咆哮などではなく。
「私達が来るまで持ち堪えたこと。褒めてあげるわ、貧乳」
遥か上空からアルスに呼び掛ける声だった。見上げると、胡麻粒のような大きさの人影が月光に照らされている。
アルスだけに対しては高飛車な態度で接し、発育を嘲るような呼び名を用いる女性――妖林都國で別れたはずのフィリアが、翼幅一メートルを超える鴉の脚にぶら下がって飛んでいた。
「飛躍嵐よ 叩き潰せ!!」
彼女は大剣を掲げ、その先端から風属性の魔力が放たれた。風の槌は低く唸って急降下の直線軌道を駆け、地竜の首を押し潰す。「――――!!」声にならない悲鳴が迸った。
アルスは息を呑んだ。彼女が白髪赫眼の真価に辿り着く前、あれほど水属性魔法を打ち込んでも浅くしか穿てなかった鱗から、今は大量の血肉が溢れている。
飛躍嵐は風属性の中級魔法だが、それでも傷を負った土属性の地竜には致命打たり得た。恐ろしいことに、これが属性の相性を最大限に利用した結果である。
フィリアが撃った直後に、アルスはもうひとつの気配の動きを感じていた。鋭い刃のごとく森林の暗闇を切り裂きながら、彼女がこちらに向かって走っている。
「ウチの弟子たちに手を出したこと――命で償え」
アルスがリネア=エルヴィスの姿を視認したときには、すでに一閃が放たれていた。刀が描く黄緑の半円に自分が捉えられたことすら自覚しないまま、首を撥ねられた竜は、断末魔を上げる暇もなく地面に崩れ落ちた。
頭頂から特徴的な大羽根を一本生やした鴉が、フィリアを地面まで運んで一声啼いた。
鴉は知っている気配を持っていたが、事が収まった安心と傷の痛みで翻弄されていたアオイにとっては、もはや気にかけられるほどのことですらなかった。
「ごくろうさま。ありがとうね!」
フィリアに頭を撫でられた鴉は、ご満悦の様子で再び夜空へ飛び去っていった。
「あーもう!無茶はダメって言ったっすよ二人とも!!」
とくにアオイくんは技がまだ不完全なんだから、とエルフの女性剣士はため息をつく。どうやら落胆の意味ではなく、二人共生還したことに対する安心が大きいようだった。
「……すみません。肝に銘じておきます」
アルスは、がっくりと肩を落とすアオイの傷口に全癒の津液の治療を施しながら、リネアに頭を下げる。
竜を傷付けるには至らなかったものの、アオイの居合は堅い鱗を吹き飛ばすほどの威力だ。あれで未完成となると――彼女には、少年の完全な剣技を見る日が待ち遠しくもあり、少し恐ろしくもあった。
「……えーと、それで」リネアが再び口を開く。「ソウくんはどうしたんすか? だってここの管轄はあの子のっすよ、そもそもどうして、お二人が代わりに夜回りを?」
「ええと、それは」
アルスは、白髪の青年とのやりとりを思い出しながら説明した。
「へぇー……任務、任務ねぇ。討伐任務ならぜんぶウチがやるって言ってるのに……それに自分の役を放り出すなんて、頑張り屋なのはいいけどちょっと空回りしてるっす。夜回りだって大切な仕事なのに」
「いえ、私がソウマさんに提案したんです。何かお役に立てることは無いかと……」
全責任がソウマにあることを否定したアルスは、治療属性に寄せた魔力の混ざった唾液を塗布した、アオイの腕に視線を落とす。即効の治療魔法を使える魔導師は非常に少なく、アルスもその例に漏れない。肌にまだ生々しく残る傷跡が、アルスの胸を締め付けた。
「………アオイさん。巻き込んでしまって、本当にごめんなさい」
「ん? ……いいよいいよ、そんな真剣に謝らなくて。実戦経験が積めたし、まだまだ力不足ってことも分かったからね。
俺、なんかやばい奴らに狙われてるみたいだし、そうじゃなくても毎日にちょっとした危険があるのは当たり前だ。アルスが気にすることじゃないって」
アオイは普段通りの笑顔で返す。
アルスは彼の赦しに身を委ねてしまいたかった。そうできればどんなに楽だろう。しかし、心にはまだ"騎士としての責務"と、それを果たせなかった後悔がつかえている。
「でも、私は…………」
「ええ、そうよね」
今まで話していなかった四人目の声が静寂を破り、アルスははっとして振り向いた。
そこには、腕を組み、碧色の冷え切った瞳で見下してくるフィリア=エルヴィスの姿があった。柔そうな唇に厭らしい笑みを浮かべ、アルスが今一番聞きたくなかった言葉を、座り込む彼女に向けて辛辣に吐きかけた。
「あなたはもっと深く、強く、自責の念を持つべきよね。アルス=イーズデイル」