滝行と特異体質
まだ朝日は上りきらず、広大な針葉樹林にはほの暗く霧がかかっている。
何もかもが寝静まっているかのようにひっそりした森の中で、ただそこだけから音が響いていた。水飛沫が葉を盛んに擦れさせる音、大量の水が崖から滝壺に注ぐ音だ。
滝の真下に佇む人影が、神秘的な風情をいっそう引き立たせていた――白い行衣を身に纏った、一見すれば見目麗しい少女の立ち姿。瞼を閉じ、胸の前で細い両指を合わせている。せり立つ岩場に細く裂かれた光が、艶やかな黒髪を明るく照らし出した。
「すぅぅぅぅっ――」小ぶりの唇が細められ、そこへ冷えた空気が流れ込む。集中を高めるため――だったのだろうが、ずび、と濁った音も一緒に口に吸い込まれていった。
「ぶひょっ!!」
そこで奇声を上げて吹き出さなければ、誰もが彼を凛然とした少女と信じて疑わなかっただろう。
一瞬で拮抗状態を失ったアオイ・タカナシは、激流に押されるまま顔から滝壺に突っ込んだ。脱力した彼の背中を水流が容赦なく叩き続ける。
「おーい水も滴るいい男。おねんねの時間早すぎんじゃねーかー!」
「うっさいわアルタイルぁ!」アオイは周囲の水を巻き上げ、長髪を振り乱して起き上がった。近くに腰掛けていた桃色の髪の少女は、突然の出来事に少し腰を浮かせる。
「おまっ、おま浸かってみるか!?死ぬよ?マジ死ぬよ!?理科室の水道より水圧高いもん!肺に入った水がァァ!!」
「何言ってんのか知らねーけど断る。水は嫌いだ」
「げほっげっほっ……あぁクソ!このロリムカデ沈めてやりたいぃぃぃ」
しばらく指をわきわきさせていたアオイだったが、急にぴたりと動きを止めた。
「落ち着け、馬鹿」アオイは両手で頬を張り、冷え切った水を掬って顔にかけた。彼なりの精一杯の克己だ。
「う……邪魔して悪かった。早く修行に戻らなきゃな」
アルタイルも彼の雰囲気を察してか、岩陰におとなしく座り込む。
拳を握りしめて立ち上がったアオイの唇は真一文字に結ばれ、琥珀色の瞳には覚悟のような光があった。
「すみません……朝っぱらから鼻血なんて」
リネア=エルヴィスが、自分の甚平とアオイの鼻筋に付いた赤シミを拭う。蝋燭の放つ橙色の炎がリネアの金髪を目映く照らしていた。外はまだ陽が昇らず、暗い。
「やぁ~こちらこそ。アオイ君が女のひと苦手だったなんて知らなかったっす」
リネアは紅潮した頬に悪戯っ子のような笑みを浮かべ、汚れた手拭いを振った。途端、布に染み込んだ血の色が薄くなる。
――多分、そういう意味の鼻血ではないのだ。最初は仕方ない体質なのだろうと思っていたが、最近は何者かの力が働いているような気がしてならない。
とにかく、早朝四時頃に布団に潜り込んでくる熟女エルフは目に悪い。
「あの。お酒飲みました?」
「えへへ、臭いっすか?
アルスちゃんと一杯ね。あの子はりんごジュースっすけど。年頃の男の子の布団に潜り込むなんてぇ酔っ払いはエグいっすね~」
「そう思うんならやらないでくださいよ」
アオイは、彼女と十傑レン=ファウラーとの通信の内容を思い出した。リネアは酒豪、だったか。
「冗談はさておき、その鼻血……」「これですか?」
「ええ。非常に興味深いっす。その鼻血、大量の魔力が混じってる。アルタイルさんがやったんでしょうね……君の身体を、強大な魔力で蝕まないように」
やはりそうだ――唐突に噴き出す大量の鼻血、これはアルタイルの仕業だったのだ。鼻血を出すタイミングも、決まって彼女の力を使った後だった。だとしたらあの悪魔、絶対にシチュエーションを狙っている。
「あいつ俺のイメージダウンに貢献しやがって……!ユノさんに絶対キモがられたもう二度と顔合わせらんねえよぉぉぉ」
「んーどうしたんすかぁーひっく」
「……ひっく……?」
「それでそれで、そんなケースもごく稀なんすよ」リネアは何事も無かったかのように話を続けた。
「普通、精霊の力を融合できるのは、その魔力に打ち克った人間だけっす。
その人は恒久的に魔力を屈服させ続けられる……そのはずなのに君はそれができない。"神"にまで格上げされた六大神柱の魔力を受け入れることができたのに、保持はできない。
………多分、身体が極端に弱いんでしょうね。精霊と魔力を融合させた魔導師なんて大抵はムキムキですし」
アオイはふんっ、と腕に力を入れてみるが「力こぶも出ないっすねぇ」と呆れられてしまった。
「やっぱナヨすぎるかな……」
「それもそうだしアオイ君、もともとの体内魔素も驚くほど少ないっすね。黒髪だからそんな感じかなーとは薄々思ってたんすけど、もはや屈服させたんでなく高度の適性があって共存しちゃった感じかなー……そんなこと、転生者でもない限り滅多にないんすけどね。イグルスでは取り締まりが厳しいから、アオイ君がそんなわけはないんだろうけど」
黒髪だから魔素が少ない?それに『転生者でも』――アオイは息を詰める。取り締まりとはどういうことだろうか。転生者など居るはずがないという言い草は――。
「ど、どういうことですか」
「黒髪、っすか。黒髪のひと滅多に見たことないでしょ?あれ特異体質の一種で、髪が黒い人は魔力として放出できるほどの体内魔素すら持ってないことが多いんすよ。ヴィオやレンちゃんは例外すけど、魔導師として大成した事例は少ないっすね」
質問はそのことではない――が、転生者のことは聞かないほうが無難だと勘が告げている。転生者ではなく田舎育ちという無理な設定が、知らず知らずのうちにアオイの命を繋いでくれていたようだ。
「ともあれ、毎回鼻血を出してると命の危険があるし、かといって能力を使わずに守られっぱなしってのも………」
その言葉を聞いた時、アルスの悔い悩む顔がアオイの脳裏に浮かんだ。
「……辛いって、わかってるっすよ。君はそこまで神経が太くない」
「……どうすればいいでしょうか。
俺、これ以上アルスに迷惑かけたくないんです。あんなに辛そうな顔、見てるこっちまで……」
眉をひそめるアオイの背中に、リネアはぽんと手を置いた。
「………大丈夫。アルスちゃんに心配かけないくらい、ウチが強くしてあげるっす」
「……滝行なんかに負けてられるか……お前にもだ、アルタイル」
「ほぉーお、精霊様に宣戦布告か。ふっ、住みよい依代体質になるんなら俺としても願ったりだ」
アオイは精霊と不敵な笑みを交わし、再び洗礼の流れに身を投じた。