少女の決意、少年の覚醒
アルスが、小さく開いた口から細い声を零した。
「駄目………こんなの怖がっちゃ。逃げたりなんか……あの人を守らないと――お姉ちゃんみたいになれない……」
「――!!」
ニーズヘッグの進路を塞ぐ少女は、昨日のグリフォンを斬った彼女とはまるで別人だった。
剣を握る右手を小刻みに震わせ、殺意を滾らせた巨体に怯える。年相応の少女の姿がそこにはあった。
遥か頭上から睨み付ける二つの赤い瞳が、圧倒的に不利な状況からくる絶望を後押しするように、彼女の心を射抜いたのだろう。普段なら、強力な魔法で瞬時に仕留められる相手だった。しかしそれは、彼女があの獰猛な双眸と睨み合いをした経験が少ないということを意味する。アオイに見せた沈着な態度も、あれは彼女に相当の無理を強いていたということだ。
アルスの決意を馬鹿にするわけではない。
だが彼女は、騎士の名に懸けてと言った。名に懸けて、アオイを守ると。
人間というものは普通、自分が可愛い。
本当に命の危機が迫っているとき、心の底からの思いを掲げて突っ込むことができる人間は少ない。愛や誇りのために命を捨てられると豪語する者も、その多くは嘘を吐いているのだ。彼はそのことをよく知っていた。
アルス=イーズデイルという少女にも同じことが言えた。逃げてはいけないという決断を確固なものにするため、抗うことのできない上位組織に基づいた理由を作り出し、逃げたい自分を縫い止めている。
彼女は剣を握る手を震わせていた。「恐がっちゃいけない」と言った。
本当の意思は怖気付き、表面だけを取り繕って戦う。そんな状況で掲げる名や誇りに価値は無いというのに。そんな誇りを理由にして守られても、嬉しいわけがない――
アルスの体が、横に薙がれた尾で弾き飛ばされる。地面に転がった彼女の気勢は、明らかに萎えていた。
彼女は起き上がろうとし、支柱代わりに剣を突き立てるが、その腕もひどく震える。
巨獣は、その少女を容赦なく蹴飛ばした。高温の爪で焼かれた彼女の体から血が溢れる。
「くそ………!!」アオイは足を止めた。
今から彼がとる行動は、アルスの意思を裏切る行為になる。しかし、怪物に弄ばれる少女を置いて逃げることなどできない。すでにアオイの足は道を引き返していた。アルスを振り返りながら走っていたため、そこまで距離が開いていないのが幸いだった。以前の体よりもかなり筋力が上がっているらしい両脚が、およそ百メートルを十秒余りで駆け抜ける。ニーズヘッグの黒い影はもう目の前だった。
「あ………アオイ、さ……?」
「助けに来た……――っわぁ!!」
再び戦場に飛び入ったアオイを、長い尾が容赦なく襲う。
「ぐぁ……っ!?」
尾の直撃は避けたが、尾の先に付く棘が左腕を叩いた。衝撃がアオイの体を小枝のように吹き飛ばす。
棘は爪と同じ超高温だった。接触した左肘の皮膚は炭化し、体の芯を焼かれるような熱が全身に広がる。
腱を焼き切られて動かなくなった左腕を、鋭く不快極まりない激痛が蝕んでいく。左目には涙が滲み、恐怖で腰が浮いた。
ぼやけた視界にニーズヘッグの目を捉える。昨日のグリフォンと同じ、獲物を狙う狩人の目だ。
ニーズヘッグの巨体が日光を遮っているはずなのに、奴の体の影はとてつもなく熱い。たった数秒で頭がぐらぐらしてきた。
そして何より怖い。一心不乱に逃げていたさっきまでとは違い、今はニーズヘッグの姿がよく見える。一本ずつがスノーボードほどはある、灼熱の爪がすぐそこにある。今まで見たどの生物のものよりも巨大な顎、そこに並ぶ数十本の牙がアオイを狙っている。もう、嫌でも感じていた。自分に重く圧し掛かってくる、圧倒的な存在感を。
向けられた凶悪な殺気に、アオイの顔は引き攣るのを通り越して強張った笑いすら浮かべていた。
「は、はっ……こんなの相手にしてたんだ。しかも一人で……アルスさんって強いんだね。俺には無理だよ」
「何を………言っているんですかっ!?早く逃げてッ!!」
「断る!助けられるかもしれない命を放っておくことなんてできないね!」
――ああ、もちろんそんなことはできない。けど………分からない。どうすりゃいいんだ!?
飛び込んでみたはいいが、実際のところ策は無い。武器は持っていない。もちろん、殴れば勝てる相手ではない。一度でも触れれば全身が炭だ。
アルスから剣を借りたとする。使い慣れていない得物を、自分の最大の筋力も知らずに振り回すことになる。
「………俺って、状況的に転生モノの主人公だろ?……何か無いの?こう、世界のバランスをぶっ壊すぐらいチートな能力とか………」
さすがに無いだろう。可憐な容姿と肉声を手に入れ、最初の出会いが世話焼きの美少女。ここまででかなりの強運を使った少年に、こんな怪物を撃退できるほどの力が与えられるなど――
――仕方ねえ、手伝ってやるよ――
重い音を響かせて、ニーズヘッグの右脚の爪が全て砕けた。
赤く光る半透明の鋭い棘が、ニーズヘッグの手の周りを旋回している。
「………!!」
恐らくこれがアオイに与えられた"チート能力"だろう。能力と呼べるものなのだとすれば。
それは、彼がこの世界に来てから、一番のハズレ籤だと思っていたもの。
力の出所など、真紅に輝く右腕の線を見れば瞭然としている。
右腕から、赤い光が広がった。そればかりか、右肩から先が空虚な浮遊感に包まれている。
その光が、直径二十メートルを超える円状の範囲に拡散した。
そよ風が強烈な上昇気流に変わり、ニーズヘッグの顎を突き上げる。骨が折れるような鈍い音が耳をつんざいた。
砕けた鱗がぱらぱらと落ちてくる。大きく反り返った巨獣の首を唖然と見上げていたアオイは、右腕の感覚が元に戻ったことにやっと気付いた。
「………うぉあ!? 何だコレっ!?」
叫んだのと同時に、紅い装甲に覆われた右手が開いた。手を開くのはアオイが驚いた時の反射行動で、つまり制御は自分側にあるようだ。
しかし、これが自分のものであるとは信じられない。
右の指先から肩までを覆う頑丈そうな装甲は、関節部やその他に節が付いていて、節足動物の外骨格にも見える。五指からは、先の尖った半透明の爪のようなものが三十センチほど伸びている。
「俺、やっぱりっ……百足に呪われてたあぁぁっ!?」
大声で叫ぶと、それだけで体感気温が数度上がった。今、ニーズヘッグの陰になっている部分の気温は五十度近くあるように感じる。
「グォァアアアアアアア!!」
ニーズヘッグが野太く咆哮する。上方向だった風向きが変わり、凝縮された空気が人間の二人を襲った。
「わああああああああっ!!――うるさい!」
鼓膜が痛すぎて耐えられなかった。ただ黙らせたいという一心で、右腕を真上に振り抜いた。
右手の爪が白く輝いて、一条の閃光がニーズヘッグの右下顎を砕き、切り裂く。
雄叫びが止まり、竜の巨大な下顎が地面に落下した。頭上の傷口から鮮血の雨が降り注ぎ、アオイの上着を赤く染め上げた。だが――今度は、アオイが咆哮する番だった。
「え……ぐぅっ……ぁぁぁあああああああああ!!」
右腕を狂ったように地面に叩き付ける。有り得ないほどに熱い。冷ます前のカレーライスを腕にぶちまけた時の百倍は熱い。そんな高温が右腕に棲みついている。
思い出した。昨日の夢と同じだ。彼はこの熱にうなされていたのだ。
「っ………離れろ!このっ……!!」
右腕と一体化した百足の殻は、いっこうに剥がれようとしない。両膝が折れ、地面に前のめりで倒れる。
「ちくしょ……ダメだこりゃ」
両腕は激しく痛み、まるで使えない。
「アオイさん!!」
「近寄らないほうがいいと思う。すげー熱いから」
大怪我を負いながらも駆け寄るアルスを制する。
その声に被せるように、竜が咆哮した。
「あいつまだ生きてるのか……!?」
ニーズヘッグは喉に大きな孔を開けられていて、それでもなお眼中の獲物を威嚇する。
頭の角が、背中の翼が、全身の鱗が、爪が、尾が、さらには下顎からはみ出して不細工に垂れ下がった大きな舌までもが、眩い炎の色に輝く。
「………暴走状態………」
ニーズヘッグを見上げたアルスが、掠れた声で呟いた。
自分は力を使い果たして倒れ、倒し損ねたモンスターは暴走する。アオイが最も嫌う詰みパターンが、もうここまで来てしまった。
残された選択肢は二つ。
素直に死ぬか。
必死で足掻くか。
もはや前者しかないと覚悟して目を瞑ったアオイは、そのとき新たな人の気配を感じた。
「怒りに燃えて蹲る者よ――その名に恥じぬよう、せめて真面に蹲って頭を垂れなさい」
凛とした声が巨竜の背後から響き渡った。
――たまに、三つ目の選択肢があるのかもしれない。
二人に覆い被さっていた巨獣の胸が、大きめのマンホールほどの穴を開けて貫かれた。