小鳥遊蒼生のリスタート
反応や話の進め方を模索している間に、女性は立ち上がった。その挙動は、さっきまでの表情が嘘のように軽やかだ。
「あの、………そっか。私は、アルス=イーズデイルという者です。十六歳です」
アルスと名乗った女性はぺこりと会釈した。
「貴方のお名前は?」
――名乗らせるならお前が先に名乗れ、という定型句を言わせないための自己紹介だろう。俺はそんなことを言わない主義だが、この世界の命名形式が分かったという点で有り難い。その気遣いといい、外見とあまりにも掛け離れていない、堅苦しさを取り除いた自然な丁寧語といい、相当濃くて礼節に満たされた十六年間を送ってきたのだと感心する。
彼女にならって立ち上がった俺も、口を開く。
「俺は……えーっと」
そこで、普段は軽やかに動く俺の口が止まった。
根拠としては不十分もいいところだが、アルスの発言から察するに、この世界では海外様式の名前が一般的らしい。カタカナの名前がいいのだろう。
俺には"小鳥遊蒼生"という名前がある。俺が、数多ある自分の所有物の中で唯一といっていいほど、かなり気に入っている響きである。しかし、この世界であまり浮かないためにも、ここは海外風にしておきたい。「長いものには巻かれよ」、これが俺の座右の銘だからだ。
SNSのユーザーネーム?――不自然だ。まず間違いなく、余計に浮く。却下。
知っている単語?――神やら天使やらの名前しか出てこないのは何故か。俺は神の名前を勝手に借りるのか?却下。
小鳥遊を英語に――鷹が居ない?小鳥が遊ぶ?名前で遊んでいる。却下。
「もしかして、忘れてしまったのですか!?やっぱり頭を………」
黙りこくった俺に向けられたアルスの心配は迫真で、いたたまれなくなった俺は勢いに任せて言い放つ。
「俺は、アオイ・タカナシ………十六歳です。以後、お見知りおきをっ」
緊張から、変態じみたイントネーションになってしまった。だが、口にしてみればタカナシもそこまで不自然ではない。
「ええ。よろしくお願いします、タカナシさん。同い年とは何という偶然でしょうね!」
アルス=イーズデイルはふわりと微笑み、差し出してもいない俺の手を、両手で優しく包むように握ってくれた。
正直、もう死んでも構わない。
「………それにしても驚きました。男性の方だったのですね」
「はい?……俺、女に見えます?」「はい……ここまでの美形はそういません」
――あんたがそうだけどな、"そこまでの美形"。
「いや、俺フツーの男の顔、ですよね?」
「自分の姿を見たことはないのですか?……気になるなら、どうぞ」
アルスが黒い外套の懐から取り出したのは、七センチ四方程度の長方形の手鏡だった。陽の光をその身一杯に輝かすその物質は、俺が長年忌避していた代物だ。「モブB」のようなあだ名が付けられてしまいそうな自分の顔が映るという理由で。
しかし、訊きだしたくせに気遣いを無下にするのも人として情けない。俺は礼を言って鏡を受け取った。自分でも意味の分からない何かを祈念して目を閉じ、鏡を構えて、恐る恐る目を開けてみる。
目を擦りたくなる衝動が、俺の腕を動かした。もう一度、今度は目玉が潰れるほどに、これでもかと擦る。さらにまばたきを三回。
しかし、鏡に映る容姿が変わることはなかった。
「かわいい!!誰!?」「あなたの顔ですよね………?」
鼻の下が伸びそうになるのを必死に抑える。鏡に映っていたのは、背中まで伸びた漆黒の髪と、そこだけは元の俺と同じ琥珀色の瞳を長い睫毛で彩る、相当なクオリティの美少女顔だった。一応胸は硬い板で、下が付いている感覚もあるので、美少年か。
なんだかもう奇跡を超えている気がしてならない。かつての酷い日々が、一斉に報われた思いだ。
だから俺は決めた。
「やっぱり人生は楽しむしかないよなぁ!!あっはっはっはっは!!」
笑い声が澄んだ青空のもとに響き渡った。
ひとしきり笑い飛ばしたところで前屈みになって呼吸を整えると、俺の視界の端には、どこか気まずそうなアルス=イーズデイルの顔が映った。
「あれ、どうしたんですか」
「え、ええ……楽しむことは大事ですよね。でもすみません。百足を飼っている人とは馴れ合えないです」