水の華
「今日も我々が踏みしめる大地は潤いを求めている。
暑い夜と昼を繰り返しながら月と太陽は交互に踊り続けるのだ。自然な緑は少なく、どこからともなく吹いてくる風は土を巻き込んで小麦色に。紫外線と水分、それから自然、どれも人間には生き辛い環境を作っていた」
神官はそう言った
でも私は、それ以前にこの世界が怖かった。見知らぬ世界に、人、食べ物、アニメや漫画みたいに受け止めきれる自信がなかった。
連続して流れ出す機械音を耳で感じ取った女は、黙って目を開きました。
頭のてっぺんから首元までを枕にめり込ませた状態で機械音の音源、目覚まし時計の先端部を押すとそれはピタリと止みました。そのまま寝姿勢の癖で左に重心の偏った体を起こすと、必然的に上半身をくるむ布団は落ち、朝の冷えた空気が女を刺激します。
12月22日 6:30、デジタル時計にはそう記されていました。
今年は昨年と比べるとまだ少し暖かく、窓の外で北風が暴れ、秋を彩っていた葉が生命を終える事はあっても、冬を象徴する初雪は未だ地上に舞い降りず、クリスマスの飾り用に作られた雪だるまや雪の結晶がひどく目立っていました。
女はそんな冬景色をさほど気にも留めず寝具付近に置いた赤色のトランペットケースと制服、防寒具、リュックサックを持ってリビングに向かいました。
終業式から2日たった今日、高校2年生の女、紀村冬花は所属している吹奏楽部の練習に参加するため冬季休業にもかかわらず、朝の早い時間に起きたのです。トランペットを担当しており、高音域はそこまで得意ではありませんでしたが、タンギングの早さと正確さは3年生をも凌ぐものでした。
そんな彼女は夏のコンクールで地区大会を勝ち抜いたものの県大会で銀賞という結果に終わり、冬のアンサンブルコンテストに参加する予定もないため、どこか気怠い様子が見えました。吹奏楽部だからといって将来プロの演奏家になる気などないという思いも原因の1つでしょうが、自分は何のために部活に行くのか、朝のよく回らない頭の中でそんな疑問が流れました。
リビングは彼女の母親がエアコンを自動でつけてくれているため心地の良いものでした。ですがその母親も娘の弁当を作る必要が無くなった今、いつものように早起きはせず暖かい布団の中で寝息をたてています。
彼女は部屋に入るとソファに荷物を置き、冷蔵庫から牛乳、棚からシリアル食品の箱を用意すると簡単な朝食を取りました。本当ならもう少し食べるべきですが、朝の時間帯ではどうしても食欲がわかず、申し訳程度にバナナを1つ齧りました。ほろほろしているようで水分のある甘い果実も、特別美味しいとは感じられず大きなため息が1つ零れました。
洗面台に移動するとエアコンに慣れてしまったせいか、空気がいつも以上に寒く感じ、蛇口から出る水は手が凍るようで、冬の力を思い出させましたが、それに耐えながらも水を掬います。
水が顔に触れると油分は流れ、頬や鼻、さらには感情までもが引き締まる。
彼女は水の感覚が好きでした。
水は触ると自分を抵抗もなく包み、特別な浮遊感を生み出す。
実態こそありませんが水はさまざまに変化します。熱を加えれば気体となり空へ上り、冷却させれば固体として形を持ちます。水にとってどちらが幸せなのか、それは誰にもわかりません。彼女もそれ程深く考えた事はありませんでした。
洗面台からリビングへ戻ると時刻は7時を過ぎていました。電車の時間も踏まえてそろそろ本格的に準備をしなければならないと、制服に着替えリュックサックの中身を確認し始めます。
彼女の制服は偏差値が高いせいかシンプルなブレザータイプのもので、胸元には学年カラーである青色のネクタイが綺麗に二等辺三角形を作り出していました。リュックサックを背負い、トランペットケースを肩に掛けるとおそらくこの年齢まででしか使えないであろうピンク色のマフラーと茶色の手袋をはめてリビングのドアを開けました。
「2日後はクリスマスだな・・・」
正式にはイヴだけども、と自分に突っ込みながら玄関の横開きのドアに手をかけました。
「・・・うわっ」
しかしこの時期特有の静電気が彼女の右手薬指を襲います。痛みは一瞬だけですが、地味に残るこれに気休め程度に指をさすりました。
彼女は自分が落ち着いたのを確認すると、もう一度ドアに手をかけました。今度は何も起こりません。開いたと同時に強く乾いた風が吹き、冬の力強さを身体中に感じます。いつもより一段と乾燥した空気に、白い息が立ち上りました。
彼女は先程の風のせいか手前に鉢植えの花が倒れてしまったことに気がつきました。少しだけなら問題ないと彼女はそれに近づこうと玄関から外に出ました。勿論鉢を直すためです。
しかし彼女が庭の土を踏みしめた途端に異変が起こりました。
辺りが暗い青、藍色と言うには濃すぎるような色に包まれ、玄関や近所の家々は勿論、寒い冬精一杯生きる雑草らが金色の粒子となって消えていくのです。
そして辺りが全て暗い青色に染まりきると、彼女を上下から挟むように、消えていった家々と同じ金の色をした丸い大きな円が現れました。
「魔法陣・・・?」
彼女は中学生時代の部活仲間にそういったゲームが好きな人から聞いたファンタジーで妖精や竜が出現するような、自分も調べて惹かれていたあの頃を思い出しました。
一時期小中学生の間で人気を誇った「トリップ」もしくは「異世界転送」
(私は・・・私は・・・?いや、その前にどうしてこんなことになっていた?経緯を思い出そう・・・昨日踏んだ蟻の祟り・・・)
考えれば考える程頭が変になりそうでした
彼女の頭の中ではこういった筋の中でも王道の「異世界に行ったらチートでハーレム」というような図が浮かび上がりましたが、現実的に考えて自分には人を惚れさせるような名言もそれを言う口も、異世界に渡ればチート級の能力が貰えると言うような保証はどこにもありません。
しかしこのように建物を粒子にして、空間を暗い青色に染め上げてなんて余程高度な化学実験でもしない限り出来るはずがなく、そんな実験をするという話を聞いたこともありませんでした。
高校生にもなると考えるのは、夢物語やファンタジーなどではなく安全と保証。非現実的なことなんて考える余裕もなく世間からは冷たく見られるだけであり、彼女自身も今は進学や将来の職について考えていました。
(・・・昔はDSやアニメを見ていた自分はいつからしなくなったのか、あの頃は夢中だったのに・・・!)
段々と自分が過呼吸になってきていること気づいていません。
「嫌!・・・嫌!」
恐怖、自分が理解出来ない状況にただただ恐怖が湧きます。
必死に言葉を紡ぎながら、何かが手首を濡らし、ぎょっとして手首を見るとそれは自分の目から流れる涙でした。
誰もいないこの場だからこそ、取り乱して涙を流したのでしょう。