間話 昴さんの内心
時折別人視点を挟もうかなと。
最近、征那様の様子がおかしいと気付く。その切っ掛けとなったのは確かある日の午後、いつも通りミルクティーを淹れた時でした。当時は何事も無かったのですが、突如、頭を抑えた征那様が小さく呻き声をあげたかと思えば、そのまま倒れた瞬間、私は頭の中が一瞬真っ白になりました。思わず毒かと思い紅茶を舐めてみるものの、それらしい物も感じず、そもそもこのティーセットは私自身が用意し管理しているモノ。他人が使うには私が常に懐に隠し持っている鍵を使わなければならず、そして他人が触れようものならどれだけ深い眠りに入っていても気付きます。
故に、倒れた原因は不明。その時ばかりは私は自分の失態を恥じました、ああいう時こそ冷静に対処するべき筈だったのに、慌てふためき冷静さを欠いた行動は使用人として失格です。征那様の姉であるアリサ様の使用人をしている、私の姉でもある翠姉さんにも、未熟者と叱責され、二度とあの様な失態を犯すなと厳重注意を受けたのです。
病院に運ばれたものの、高熱に魘される征那様をただ見る事しか出来ない自分が歯がゆくて、濡れたタオルで汗を拭く事しか出来ない自分がとても悔しい。倒れた理由も不明で、病状としての症状にも心当たりがないというのも絶望的でした。新種の病ともなれば対応は遅れてしまいます、そうなると患者が犠牲になる確率も多い。そして失態がまた一つ、その不安のあまり、征那様の御手を摘んでしまうという有様。自分の頬を平手で打ち、すぐに気を引き締めて、倒れてから五日後。目を覚ましたという連絡が入り、しかし私は自宅待機を命じられました。仕方ありません、もし今の私が征那様のお姿を確認すれば、思わず泣いてしまうという醜態を晒してしまいますから。姉さんの配慮に感謝します。
御部屋に戻って来た征那様はいつも通り凛々しいお姿でしたが、しかし何処か雰囲気が違いました。普段の様な、何処か刺々しく近寄りがたい物とは違い、穏やかで余裕を感じられるモノ。いつも通りに紅茶を淹れ、次の一言にティーポットを落とさなかった自分を思わず褒めたくなりました。
『美味しい。昴さんはやっぱり凄いや』
あの征那様が人に対して誉め言葉を使う、それは御家族だけに向ける言葉であり、使用人に対しての発言とは思えませんでした。普段はむしろ、早く用意しろ、言われる前に欲しがっているのが分からないのかと強い叱責の言葉を頂き、屋敷で働く者にも同様で、とても厳しい方でした。だからこそ、その一言には驚きを隠せず、故にただ深々と頭を下げ、恐縮だと言う他にありません。漸く一歩、認められたようでとても嬉しかったのです。
病み上がりであるとはいえ、軽く体を動かす為にも屋敷の中を歩くという征那様のお言葉に心配になった私は、叱責覚悟で無茶をなさらない様にと進言しましたが、しかし普段の様に、余計な事を言うなという発言は無く、お願いだからと言われては私にはどうしようもありませんでした。
屋敷を歩き回る征那様は時折、慣れている筈の中を確かめる様に動きます。恐らくはまだ頭がぼんやりとしていて、記憶が混濁しているのでその確認の為もあったのでしょう。すると、音楽室に近づいた時にピアノの音色が聞こえます、恐らくはアリサ様でしょう。征那様はアリサ様の事が大好きですから、やはり音楽室に向かいます。
「また無茶な事をするかもしれないから、暫くは征那の事をよろしくね?」
「勿論でございます、アリサお嬢様」
驚いた様子のアリサ様ですが仕方ありません、アリサ様も征那様の事をとても心配されてました。故に急いで駆け寄り、支える様にという言葉に強く頷き頭を下げます。アリサ様との軽いやりとりの中の発言を聞きましたが、やはり征那様は変わられたようです。
屋敷内にて征那様の態度を気に入らないという失礼な使用人も多かったものですが、どうやら征那様の中で何か変わるきっかけがあったご様子。通りすがりの者に声を掛けたり、労ったりする様はまさに次期当主の如き振る舞い。継承権はアリサ様にある為それは叶わない事ですが、しかし征那様であれば新しい事業を始めても確実に成功すると感じさせられる、それほどまでに素晴らしく自覚を持った人物へと成長していたのです。その素晴らしさが分かったのか、使用人達も徐々に失礼な態度を失くし、今ではしっかりと敬う様になりました。まぁそもそも最初から征那様を敬う事は当然なのですが。
ある日、入学パーティを間近に控えた頃、修吾様から呼び出された征那様に着いて行けば、最近の変化に関しての質問でした。確かに私としても気になっていた事、そしてその答えを聞いて、なんとご立派なのだろうと感服するばかりです。どうやら征那様は、病院で寝たきりの状態を看護され、一人で生きて行くことの難しさ、誰かに支えられているという事を知ったとの事でした。故に、自分を支えてくれる者を尊重する、とても素晴らしい。
「昴、征那はこれからも苦労する事だろう。お前が傍に居てしっかりとサポートするのだぞ」
「かしこまりました、ご当主様。全身全霊を以て、征那様を御守りし、いつの日も支えるとお約束します」
修吾様の言葉に強い決意を抱く。どうやら修吾様は既にプライベートの状態となっていたので、お二人の団欒を邪魔しない様に少しばかり部屋から離れる事にしました。征那様は私程度の作る茶菓子でも美味しいと褒めてくださるので、思わず増長してしまいそうです。しかし、きっちりとそこは戒めなければなりません。
ある日、征那様がふとポテトチップスを食べたいと言葉にしたとき、私は自分の思い上がりを強く恥じると同時に、深い悲しみを覚えて思わずトレイを落としてしまいました。私は、優しくなられた征那様に甘えて、今の自分に満足し、その一方で征那様を満足させていなかったのです。まともに仕える事の出来ない使用人の末路など言うまでもない、解雇だ。それだけは嫌だ。想像した瞬間に冷や汗が吹き出し、足が僅かに震えてしまう。テーブルで偶然にも隠れてはいるが、いつ膝から力が抜けるか分からないほどに怖かった。
どうやら征那様は単純に興味があっただけと仰ったが、しかし私への確実な戒めだったのだろう。征那様は成長してらっしゃるのだ、使用人としての私もそれに着いてこられる様になれ、と。だからこそ私は奮起し、これからもしっかりと成長と学びを続けようと決意したのだ。
そして、ダンスパーティの当日、またしても事件が起きた。通常よりも早い時間に迎えが欲しいとの連絡を受け、いざ学園に向かい、入り口付近で待機していると聞いていた征那様の姿を見た瞬間、私は白目をむいて悲鳴を上げながら倒れそうになった。汚れの無いパリっと張ったシャツは赤くくたびれ、黒いスーツも台無し。間違いなく、なにかをぶちまけられたその姿を見て、思わず犯人を始末してやろうかと考えそうになったほどだ。話を聞けば、園崎家のお嬢様を庇った事で、スープを運んでいた方とぶつかりミネストローネを被ってしまったとの事だ。
今すぐ怪我が無いか集中治療室に向かって欲しい所だが、何事も無いからと強く言われては引き下がるしかありません。夕飯は、征那様からの指名で私がオマール海老を使ったトマトクリームパスタを作らせて頂く栄誉を頂いた事がとても嬉しく、美味しかったというその一言だけでまた明日も頑張れる活力になりました。
そんな征那様もとうとう本日から宮塚学園へ入学されます。接する時間が減る事の寂しさもありますが、より大きく、強く、たくましく成長される事を祈りながら、私は学園へと車を走らせます。どれだけ友人が出来るか楽しみだと仰る征那様ですが、間違いなく学園全ての方が友人になりたいと申し出るのは当然の事です。しかしそれでは征那様に悪影響を与える方が出てきてしまいかねません。やんわりと、交友関係には注意してください、と進言すれば素直に受け入れてくれた。
白いブレザーを上半身で包み、シックな黒のズボンが征那様の大人びた雰囲気をより強く強調し引き出す。私はそのお姿を、学園の中へと姿が消えるまでしっかりと眼に刻みながら見送りました。これから立派に成長していくそのお姿を、こうしてずっと見届けたいと思います。