8 父の死・夢の機関士へ
父の死
鮮鉄に入って1年たった。
父から4月に来た便りには、1年間仕送りありがとう、
だがお前は貯金しているのか、生命保険に入っているのか、
お前の居場所はここにはもうないのだから、これからは自分の将来のために
貯金せよと書かれていた。
少し寂しい気もしたが、父の言いつけ通りに、それ以降は天引きで貯金と
生命保険を始めた。それは父の遺言だったのかもしれない。その2ヶ月後、
「チチ キトク スグカエレ」
の電報が母から来たのだった。機関区長に事情を話し、帰郷の許可をもらった。
「お前は1年間皆勤だったから、ひと月丸々休みをやろう。ゆっくりしてこい」
すぐ荷造りし、列車に飛び乗った。金山出石寺で、父は帰って来るなと言った。
私も確かに了解した。だが、それは父との別れがこんなに早く来るとは
思っていなかったからだ。父はまだ45歳ではないか。早い、早すぎる。
行きとは逆の順番で、城津、咸興、元山、鉄原、京城、リンゴ畑の大邱を
列車で走り、釜山、下関、高浜と連絡船で渡り、四国の中をまた列車に乗り、
三日後ようやく家に帰り着いた。父は待ってくれていた。
「龍は約束を破ったな…」
父は苦しそうな息をつきながらも気丈に私を叱った。
「ごめんよ父ちゃん。でも俺帰って来ちゃったよ」
「お前には仕事があるだろう?
父ちゃんはお前の仕事の邪魔をしたくなかったんだ…」
「すぐ帰ってまたしっかりやるよ。そうだ俺、機関助手になったんだよ」
そう報告すると父は「そうか」と言って、最後の力を使って笑顔を作ってくれた。
私は思わず家を飛び出して、すぐ裏にあるお地蔵さんに
父を治して下さいとお願いに行ったが、その僅か5分の間に
父は息を引き取っていた。
私には約束を破って死に目に駆け付けたことが
親孝行だったのか親不孝だったのか、今もよくわからない。
ただ、私が帰り着く朝には父は一度息を引き取ったところ、
母が「幸四郎がそこまで来ているよ。見えるだろう」
と言ったとたんに息を吹き返したという。
父は最期の最後まで正気でいた。
大勢の子どもをもうけ、祖父の負債を返すために身を粉にして働いた。
家族に不自由をさせなかった。平岡に家を買ってくれたときは
家族みんなで喜んだものだ。
一人っ子だった父にとって子沢山は何よりの宝だったのだろうか。
まだ幼い子どもも多いから、45歳の短い人生をさぞ悔やんで逝ったことだろう。
母は40歳で未亡人になった。
この先どうやって暮らすのか心配したが、母は気丈だった。
「お父さんは郵便貯金をたくさん残してくれたんだよ。
お前も1年間も仕送りしてくれたし、何も心配することはない。
大事な仕事の途中だろう?もういいから早く朝鮮に戻りなさい」
ひと月休んでいいと言われたが、半月くらいで鮮鉄に戻った。
区長や助役や検査役の堀田さんが感心していた。
実は鮮鉄の仕事が思ったよりきついというので、内地にいる家族に
「○○キトク」の偽電報を打ってもらって帰省し、そのまま外地に帰って来ない者も
多かったのだ。そういう者でもそのまま国鉄で働けたらしい。
田村さんも徴兵検査で実家の静岡に帰った。
体が小さいため兵隊になれなかったそうだが、やはりもう朝鮮に帰っては来ず、
国鉄で機関士として働くことにしたようだ。
私にはそんな気は起らなかった。朝鮮の土になる気で来たのだ。
まだ機関士にもなっていない夢の途中でもある。
父を失った悲しみを紛らわすかのように私は必死で働いた。
夢の機関士へ
機関助手である私は発車時間の2時間前に出勤し、釜の準備に取り掛かる。
機関士もそのうちやってきて「釜はどうだ?」と挨拶代わりに訊く。
「今日も石炭があまり良くないですが、がんばってやってみます」
「おう、頼むぞ」
この鋼鉄の生き物は食事にうるさい。去年あたりまではこの食通の口に合う
混じりっ気のない石炭が備蓄されていたのだが、戦争の激化とともに
「まずい」ものが回ってくるようになった。そうなるといつも上機嫌で
走ってくれるとは限らなくなってしまう。
発車時間が近づいてきた。
あちこち点検を終えた機関士が戻ってきて位置に着く。
機関車に客車を連結する。釜はなんとか景気よく焚けている。
前方に立つ駅長がさっと右手を揚げ、発車の合図だ。
「発車オーライ!」私が大きな声で言う。緊張の一瞬だ。
「発車オーライ!」機関士が復唱し、汽笛を鳴らし、レギュレーターという
レバーを引いて蒸気弁を開ける。そしてリバーを前進方向に倒すと
車輪がゆっくりと回転を始める。
よく知られたシュッシュポッポ、シュッシュポッポだ。
子供が汽車ごっこするときに、両手を一緒に前、後ろ、前、後ろと回転させるが、
あれは実は間違いだ。実際の機関車の車輪は一緒ではなく、
丁度半周ずれて回転しているのだ。
走り出したら、列車の走行が安定するまでせっせと石炭をくべなくてはならない。
ここがちょっと大変だ。2キロを過ぎたあたりで安定してきた。
一息ついて見る窓の外は新緑がまぶしかった。
運転のあまり上手くない機関士は走行が安定してもレギュレーターを
全開にしっぱなしにする。すると助手はいつまでも石炭をせっせと
くべ続けなくてはならず大変なのである。
石炭も節約できないしどうしたものかと思うが、助手の方からそろそろ
半開くらいでいいのでは、と言う訳にもいかないので、せっせとくべるしかない。
こういう機関士と組んだ日にはついてないやと思う。
おっ今日はついている!と思うのは森本さんのような親切な機関士だ。
「寮の食事じゃ足りないだろう。家から米を持って来たから機関車の中で
炊いて食べよう。あとホラ、キムチもな」
森本さんは地元朝鮮の人なので家から通って来る。
火力の落ちた石炭を5、6個シャベルに取り、その上に米と水を入れた飯盒を
乗せておくといい具合においしく炊けるのだ。
機関車で食べる炊き立てのご飯とキムチは格別だった。
森本さんはかなり年上の人で、若い私たちをよくかわいがってくれた。
こういう人は機関車の運転も上手い。
要は運転も想像力と思いやりなのではないかと思う。
すぐ食べ物に話がそれるが、この頃はなんといっても戦時下で、
日曜日や休日はない月月火水木金金だった。
行き先で2時間ほどの休養時間があったが、往復の時間を合わせると
拘束時間は14時間で、帰着して10時間後またダイヤが組まれて乗務、
そんな毎日がずっと続いていた。
幼なじみの和泉くんが1年遅れで朝鮮鉄道にやってきたのはその頃だった。
一旦近場で就職したものの、やはり内地はあまり景気が良くないらしい。
「龍ちゃんの実家でいろいろ聞いて俺もここにやってきたよ」
「そうかそうか、仕事はきついけど、給料はすごくいいぞ。お互いがんばろうな」
「ここでは武市先輩だな。よろしくお願いします、です」
やはり昔から知っている友達は格別だ。
勤務が忙しいのでたまにしか話はできなかったが、
あいつがいると思うとなんだか嬉しかった。
しかし和泉くんは1年働いたところで肺を患い、帰郷してしまった。
その後亡くなったという。そういえば体があまり強くなかった。
それに昔のことで医療があまり発達していなかった。
仕方ないとはいえ残念なことであった。
朝鮮にくるとき、行きからすぐ仲間になった市山くんと高崎くんのうち、
高崎くんも実はもうすでに故人だった。やはり1年くらいたった頃病気で帰郷し、
そのまま実家で亡くなったそうだ。市山くんは元気で勤務しているのでなによりだ。
そして昭和20年になり、選ばれて咸興地方鉄道局養成所機関士科に入所し、
5月31日、3ヵ月の過程を終了した。これで機関士見習いだ。
そして8月4日、朝鮮総督府交通局技手補に任ぜられ、
とうとう城津機関区機関士となった。
機関士になることを夢見て故郷を出てから3年4か月、18歳の夏だった。
なるべく助手に余計な苦労をかけない機関士になろう。
人の命と荷物を安全に運ぶ鉄道員の使命を全うしよう。
それから冬に給水塔のそばに行くときには機関士になっても地下足袋を履こう。
有馬機関士が身を持って教えて下さったではないか。
線路は続くよどこまでも…ここで機関士としてずっと
人生の線路も走って行こうと思った。
だがそれからたった11日後にあの日がやってくるとは、
このとき全く想像だにしなかった。




