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6 教育と訓練

 教育と訓練


4月13日初出勤、その日から城津機関区庫内手としての

学科、実技、投炭練習、機関車掃除など6か月の研修を受ける。

学科の方は「鮮満機関車」という700ページの分厚い本を渡され、

機関車の構造と名称を3ヶ月間みっちりと叩き込まれた。

教育と指導は助役の森田さんだった。


 鮮満機関車の本を見たとき、その内容が全部消化できるか不安だった。 

機関車の構造や各部の名称を覚える勉強には身が入り一生懸命だったが、

規程の時間になると眠くなる。

規程とは汽車、つまり列車を走らせるための鉄道内部の法律である。

法律の勉強は難しくて堅苦しい用語がいっぱい出てくる。

居眠りをして拳骨(げんこつ)をよくもらった。

 

教育が始まって一週間後、投炭練習も一日一時間加わった。

この時間の担当者は斉藤さんという人で、小柄な私を見て

「シャベルと背比べをしてみよ」と言った。

釜に石炭を放り込むシャベルは大きくて自分の胸ほどもある。

斉藤さんはニヤニヤ見ている。私は少し頭に来たのでシャベルを持つところに

手を入れて、頭の上でグルグルと回して見せたらびっくりしていた。

「わかったわかった、力持ちなんだな」


投炭練習は模型釜の焚き口にショベルを入れる練習である。

二か月を過ぎた頃から午前が学科で、午後は投炭練習となった。

投炭練習は一歩進んで、小型機関車のおおきさの模型釜に実際に石炭を投入する。

ショベル200杯の石炭を既定の要領で投入すれば

七平方メートルの釜床に厚さ20センチの層になる。

これには15分の制限がある。教育期間は6か月で終了する。


4月25日は初めての給料日だった。

食費を含めた寮費と厚生年金、国民年金保険料などを引かれて

手元に16円ほど残った。家を出るときに襟に縫いつけられた30円も

遣ってなかったので、そこから5円足して家に送金した。

6月にはボーナスが給料の1か月分出た。

先輩に聞くと朝鮮鉄道は年4回もボーナスが出るのだそうだ。

定期ボーナスが6月と12月、臨時ボーナスが9月と3月。

定期ボーナスは給料の2ヵ月分、臨時ボーナスはだいたいそれ以上出るとのこと。

6月からは毎月20〜30円の送金ができた。

家族の役に立てたのが嬉しかった。

 

 寮の丘の下には物質部の売店があるのだが、

その店では給料天引きで物が買えて便利だった。

ある非番の日、ぶらりと入ったら、葡萄酒というのが置いてあった。

いつもあるわけではない、珍しいものなんだよ、と店の人が言う。

色もきれいだ。米や芋から造る酒が旨いのだから、

葡萄で造ったらもっと旨かろうと思い買ってみた。

いそいそと寮の部屋に帰ったら、やはり非番の田村先輩がいたので二人で飲んだ。


「お前は未成年のくせにこんな物を買ってきて、駄目じゃないか。しかし美味いな」

「叱るか褒めるかどっちかにして下さいよ」

では叱るぞーっと言ってポカポカ叩いて来たので、げらげら笑いながら避けた。

二人とも相当酔った。


教育期間が終われば試験を受け、庫内手としての仕事に就く。

機関車掃除、区内に待機している機関車の火の番、油さし等である。

そして時間を作って投炭練習を欠かさない。

庫内手には昼勤・夜勤があり、ともに十二時間勤務だった。

この過程を経て17年10月機関助手見習いの辞令を受けた。

が小柄な私はすぐに乗務はさせて貰えなかった。

そのことを知ってか知らずか、ある夜勤の日、検査係の堀田さんが、

「おいお前、詰め所に来て、お茶を入れてくれ」と言う。

とっさに自分はやりかけた仕事がありますと言ったが、

今からお前は検査係の詰め所に居ればよい、明日助役に話をつけるから心配するな

ということで、検査室の給仕にさせられた。


検査係というのは区長、助役に続く上役であり、

特にこの堀田さんは機関車の受け取り時の検査が厳しいので

機関士たちに恐れられていた。

機関車は機関区に帰ってくると、検査係に引き渡される。

そして乗務員立ち会いのもと、あちこちチェックを受ける。

堀田さんは「機関車は油回りから壊れる」と言うのが口癖で、

少しでも油のさし具合が悪いと、手に持つ点検ハンマーで、

乗務員の頭をボカンと叩くのである。もちろん柄の方だが結構痛い。

特に朝鮮人に厳しいところがあった。

親の歳のような朝鮮人を怒鳴っていることもよくあった。

もっとも日本人からも「うるさい人だ」と嫌われていた。


その堀田さんが、

「ここにいればいい、時期が来たらいい機関士につけて、

乗務できるようにするから」

と言ってくれたのにはびっくりした。寒くなり始めた11月、

ぬくぬくと詰め所勤めで同僚に羨ましがられた。

「いつ乗務してもいいように投炭練習はしておけよ。夜間は模型釜が空いているから」

と練習もさせてもらった。


12月にはいった頃から、同期で乗務する者が多くなった。

同期といっても同じ15歳から徴兵検査に近い者までいる。

その中で体格の良い人が優先された。

堀田さんも気になったらしく、練習の成果を見てやると言って

夜勤明けの早朝に見てくれた。

15分間でショベル200杯の投炭、出来上がりは上々だった。

嚴しい堀田さんに一発で褒めて貰い、

「いつもで乗務できる」とお墨付きを貰い嬉しかった。

えこひいきされているのかなと思ったが、出来は確かによかったのだ。


そんな様子を私は手紙に書いて実家に送っていた。

文を書くのは苦手だが、書きたいことが山ほどあるので一生懸命書いた。

父からも筆字で書かれた便りが毎月来た。

夜の点呼のときに副寮長から渡されるのだが、達筆なので、

お前の親父は何をしているのかと二度も訊かれ、

馬車を引いていますと答えると、そんなことはあるまいと本気にされなかった。


父も実は四国の小さな村を飛び出したかったのではないだろうか。

私を励ますというよりは羨むかのような文面も見受けられた。


昭和18年になった。

朝鮮で初めての正月未明の3時半頃、同室の有馬機関士が機関車に轢かれたと

不寝番が知らせに来た。機関士がなぜ機関車に轢かれるのかと我が耳を疑った。

正月気分など吹きとんでしまった。

機関区に着いたときには病院に搬送されていた。

機関車は入区すると、ピットのある給水塔につけることになっているのだが、

給水塔の周りは広範囲に水が散って凍っている。

助手は地下足袋を履いていて滑ることはないが、

機関士は裏がつるつるの皮靴を履いているために隣の線まで滑ったらしい。

丁度、出庫するバッグ運転の機関車に轢かれ両手両足を切断され、

三日後に亡くなった。

この機関車は有馬さんが引いて帰った急行列車の機関車で、

普通なら側線で待機しているはずなのに、準備が遅れて思いがけない

ときに動き出したらしい。不運が重なっての事故であった。


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