23 療養・国鉄松山機関区・エピローグ
療養
20メートル先の役場には電話があるので、それを借りて先生に話せば早いのに、
母は3キロを走るように内子の病院に駆け込んだ。
「昨日朝鮮鉄道から帰った息子が危篤です。すぐ診て下さい!」
「同じ釜の飯を食った仲間だ。できるだけのことはしてあげる、
今すぐ行きましょう」
佐野先生はそう言って下さったと言う。
仲間といっても歳も官職も親子ほども違う偉いお方で、もったいない言葉である。
病気はマラリアではなかった。肺浸潤という病気だった。
当時なかなか手に入らない高価な薬を使ってくれて、
「お母さん、これが効かなかったら諦めて下さい」
と、言われたそうだ。翌日もその翌日も午後4時の往診は続いた。
4日目の朝、目が覚めた。
便所に行ってまた床に入ろうとしたら母が「龍ちゃんか」と気がついた。
うん、と返事をした。3日間眠ったままだったと初めて聞いた。
佐野先生にかかっていたことも知らなかった。
内子に通勤している姉に私が持ち直したことを伝えてもらった。
食事は先生が来るまで待った方が良いだろうと、
布団の中で鉄道唱歌を歌っていたところへ先生がみえた。
いつもは4時だったという往診だが、先生も嬉しかったのだと思う、
昼前に来られた。母は先生の顔を見るなりがばっと正座し、
「先生、見てください。息子が目を覚ましました。ありがとうございます。
先生のお陰です」
頭を床につけんばかりにしてお礼を言った。
「良かった良かった、薬が効いた。お母さんの心が天に通じたんですよ」
先生は御自分より母を褒めていた。それから続けて、
「もう大丈夫。まだ若いのだから2か月もすれば栄養失調も治るだろう。
肺浸潤も自然に治る。安心、安心」
と言ってくださった。また助かった。
帰って来ても、この先生がいなかったら助からなかっただろう。
私は生命力の強い星の下に生まれ合わせているとつくづく思った。
「龍ちゃん、今日もいっぱい蛙捕ったよ」
5歳の克也と9歳のテル子がたんぼから帰って来た。
母が雨蛙を生きたまま呑むと精がつくと言うので、
克也とテル子に雨蛙を取ってきてもらい、毎日4、5匹呑んでいだ。
そのころはたんぼのレンゲの中に蛙はたくさんいた。
「ありがとうな。よく捕まえられたな」
「ねえ、それおいしいの?」
と無邪気に聞く。
「味はないんだよ。元気の素だ。蛙はぴょんぴょん元気に跳ねるだろう。
あの元気をもらうんだよ」
佐野先生に話したら、蛙だから悪くはないだろう、まあほどほどにねと
言っておられた。だがそのお陰か体力の回復は著しかった。
人間、切羽詰まれば何でもできるものである。
療養も終わりかけた6月、また子どもの占いが当たったか、
一番上の兄もラバウルから元気で復員した。
兵隊の復員と難民の帰還の差は歴然だ。
兄はすぐ麦刈りと田植えを先頭に立ってやった。
尊大で自分にも他人にも厳しいところのあるこの兄には、
なんぞお前は、この忙しいときに寝てばかりおって、くらいは
言われるだろうと思ったが、「体を治す方が先だ。休んでおれ」
と言われただけだった。
下の兄弟たちも頼もしいことを言ってくれた。
「俺たちももう何でもできるんだよ、任せてくれよ」
とはいえ猫の手も借りたい農繁期に何の手伝いもできず、
療養と通院で日々を過ごすことしかできない我が身が情けなかった。
こうして床上げをしたのは6月の終りで、
そのとき体重を計ったら28キロしかなかった。
帰り着いた朝はもっと少なかったはずだ。いったい何キロだったのだろう。
弟たちが見間違えたのも当たり前かもしれない。
父の墓参りにもやっと行くことができた。
8月には荒川精油所で働くことになった。
国鉄松山機関区
昭和23年、引揚者を対象に機関助手の募集があり、
鮮鉄、満鉄、華北鉄道から4百人余りが応募、
ものすごい倍率を突破して機関助手としてまた乗務できることになった。
勤務は松山機関区である。「また機関車に乗れる」と家族皆で喜んだのもつかの間、
当時は職場闘争の真っただ中で、実はこの募集の本当の目的はスト破りだったらしい。
引揚者は闘争に参加しないだろう、と踏んだのだ。
乗務員会は塩よこせ、労働加配米をよこせ、給与ベース520円を
650円に上げろ、上げないとストするぞ、の要求だった。
私は確かに引揚者だが、その要求は当然だと思い乗務員会賛成に加わった。
しかし当局の切り崩しが始まり、引揚者を代表した後藤が第二乗務員会を
準備し出し、当局の思惑通りにスト破りを始めた。
「拾ってくれたというのに、ストに参加するなんて裏切りじゃないか」
などと言われ、だんだんと引揚者は後藤の元に移り自分一人になった。
後藤は執拗に私にも第二組合に入るよう迫った。
だがまだ従来の組合員の結束が強く、それによるゼネストに参加、突入してしまった。
旅客列車も貨物列車も三日間止まった。前代未聞のことだった。
私はその当日、これならとめることはできないだろうと言われた、
ある意味聖域であった米軍の貨物列車に乗務予定だったので、
すでにこれに乗り込んでいたが、乗務員会の決定と引きずり降ろされた。
この日だけは正真正銘、全列車が止まった。
結果、芦田政令第201号により解雇されてしまった。
この後切り崩しが更に強まり、機関士も助手も第二組合に移る人が増え、
残ったのは良心的な少数組合員だけとなった。
その後16人が検挙、私を含む八人が解雇されて敗北に終わった。
残った数人は仕方なく「もうストはしません」という誓約書を書かされ
第二組合に移り闘争は終わった。
後藤が実は国鉄中国四国鉄道局のお偉いさんの婿養子だと
知ったのはこのときだった。義父から引揚者をまとめよ、
と命が下っていたのだろう。さも苦労を共にした仲間のような物言いを
していたが、なんのことはない、ストが破れて機関助手が二人から一人に
減って仕事がきつくなっても、処遇待遇が悪くなっても、
後藤だけは痛くも痒くもないのだ。絵に描いたような裏切り者であった。
永野や越野を思い出した。
帰ってきても、いつになっても戦いはあるのかもしれない。
だが私は何度でも起き上がるだろう。あの難民生活を糧にして。
なんといっても私はまだ21歳なのだ。
青春の第二部がこれから始まるのである。
エピローグ
昭和もとっくの昔に終わり、平成の世になって久しい。
真崎くんと娘はその後結婚した。
この男は信用金庫勤務で年寄りとの付き合いがうまい。
実の息子や娘以上に私の話を聞いてくれるのが大変ありがたい。
このような文章を書こうと思ったのも、
「お義父さん、すごい経験したんですね!」と熱心に言ってくれたお陰である。
辛抱強い男でもあるのだろう。娘にはくれぐれもこの男を大事にするように
改めて言っておこう。
この娘夫婦は男の子を2人儲けたので孫は4人になった。
うちの母ちゃんは14人も産んで育ててこの上なく偉大だったというのに、
まあこれも時代の違いということか。
家事は電化製品任せで遊んでばかりいる(ように見える)が、
今節は皆そうなのだろうし、それもいい。
私だってこの便利な世を楽しんでいるのだ。パソコンだって使える。
もっとも不具合になるとすぐ、息子や娘に電話するので先方は閉口しているかもしれない。
先日娘の家でインターネットのグーグルというサイトの航空写真を見せてもらった。
実家の住所で検索すると、今は弟が継いでいる実家が、
役場の隣にあるのを見ることができた。家は建て替えてあるし、
道路も当時より整備されているとはいえ、昔の面影はある。
画像処理してあるため人っこ一人写真には載っていないが、
私にはあの家から父が、母が、たくさんの兄弟たちが、飛び出してくるのが
見えるようだった。
一番上の兄はガンで10年前亡くなった。
東京のはずれの同じ町にそれぞれ家を建てた。
たまにどちらからともなく家を訪ねて、将棋や囲碁をやったものだ。
金にある程度余裕ができてからは競艇場で会ったりもした。
いなくなるとやはり寂しい。福ちゃんもずっと前に亡くなっている。
だがまだ8人も残っていて有難いことだ。
母に言い残された大川村の淡島神社へのお願ほどきは
10年前に済ませてある。1回に千本は大変なので、何回かに分けて
幟を持って行った。幅広に丸く作った藁の束に百本、2百本と小さな幟を
差して神社に持って行き、天井から吊るしてもらったり、
花壇に刺したりして納めるのである。
帰って来られたのは「龍」の呼び名と、この神社のお陰も大きいのかもしれない。
帰還のその後、隊長さんが言っていたように朝鮮戦争が起こり、
半島は二つの国に完全に分断されてしまった。
あの38度線は更に強固な国境になってしまったのだ。
咸興のおやじさんやオモニや娘さんや帰還した息子さんはどうなっただろうか。
38度線近くの村の仏のようなおばあちゃんも隊長さんも
あれから60年たった今、もうこの世の人ではないだろう。
遠くからご冥福をお祈りする。
吉岡は先発隊で永野と一緒だったが、途中で倒れたため置いて
行かれたという。ほうらやっぱり、という気がした。だが幸いなことに
京城でまた追いつき、無事帰還し、今は農業の傍ら遺跡堀りをしている。
永野は帰還1年後くらいに、私が無事帰ってきたか様子を見に平岡の
我が家までやってきた。ついでに商売の話も持ってきた。
というかどっちが「ついで」かわからない。
うちで最も気難しい一番上の兄と話が合い意気投合していたから、
守備範囲が広いというか、とんだ「人たらし」だと感じ入った。
数年後、なんだかうちの兄が騙されたような形で商売のつきあいは終わった。
今は息子さんとラーメン屋をやっていると言う。
一回食いに行って「まずい」と言ってやりたい。
越野は旧国鉄を定年退職し、今は悠々自適であるという。
魑魅魍魎渦巻く国鉄を生き抜いたのだ、さすがだなと思った。
千代田は私と同郷で、家は多分20キロくらいしか離れていなかったが、
とうとうその後の消息はわからずじまいだった。
もしかしたらもたなかったのかもしれない。
千代田の同期の5人もわからないままだ。
…私は後輩たちの面倒を見たようなことばかり書いたが、そんなことはなかった。
私一人ではどうなっていたかわからない。
助け合ってきたから帰れたのだ。皆ありがとう。家に帰れたか?
先発隊のもう一人、岡本は広島の永野の家まで帰ってきたところで寝込み、
そのまま亡くなったそうだ。奴はあの川をポーンと渡ってしまったのだろう。
自分の家がある岡山県までもう少しだったのに、気の毒なことだった。
あの咸興の養成所で集結した24人のうち、結局はっきりと確認できた
帰還者は4人だけだった。
市山くんは別グループだったが、無事帰還している。
年賀状で挨拶するだけだが、もう長い縁である。
朝鮮時代の仲間のことは忘れていたわけではないが、
帰国できたからとてそれでめでたし、めでたしというわけには行かず、
その後も戦後の日本で必死に生きてきた。
家族を持ち、父が私たちにしてくれたように私も懸命に働いた。
折しも日本は戦後の復興期から高度成長期を迎え、
仕事はいくらでもあり、やればやるだけ収入になった。
馬車馬のように働くというたとえがあるが、うちの馬車馬だった秋風号や
春風号だって褒めてくれそうなくらい働いた。
多分他の皆もそうだっただろう。
そして少しは気持に余裕ができたころ、城津吉州会という朝鮮鉄道の
生存者の会を風の噂で知ったのだった。
会を重ね、もう30余回になるという集まりに、私は12回目から参加している。
「米のことはもう時効だから出て来いよ」と声をかけたら、越野も出席するようになった。
去年、京城―新義州間が国境を越えて再び開通したという
ニュースをTVで見た。少しはいい方向に情勢が動いているのだろうか。
京城―新義州は朝鮮半島の西側のラインだ。
私が勤務していたラインではない。東側も北と南が手をつなげば
あるいは…釈光寺に墓参りに行ける日が来るかもしれない。
妻が今、大変気に入っている歌によると、亡くなった人は実は
お墓の中にはいず、風になって好きなところで吹いているという。
北朝鮮に今も眠る丸山や真崎や親しき人たちも風になって
日本に帰ってきているだろうか。私も今でも朝鮮鉄道に思いを馳せる。
北朝鮮のしんと冷えた空気と青空、巨大な鋼鉄の塊を動かす人間たちの
一糸乱れぬチームワーク、すすで汚れた顔と真っ白い歯の仲間の笑顔…
外地、いや朝鮮半島から来る思いと日本から行く思いが
今日も玄界灘の船を揺らすのだろう。北朝鮮との国交は未だない。




