21 鬼に感謝・帰還士優待
鬼に感謝
院長に城津から咸興、釈光寺、京城までの足取りや、
釈光寺にあとどれくらい日本人がいるのかなど聞かれて、いろいろと話をした。
「釈光寺では仲間に米を持ち逃げされて、えらい目に遭いました」
とグチを言ってしまった。
「えっ、もしかしたら君は武市くんかね?」
もしかしたら越野がいるのではないかと直感した。
「越野がいるのでしょう?会わせて下さい」
院長は越野から事情を聞いていたらしい。
「悪いけれども会わせることはできない」
「もう済んだことです。私たちもこうして帰って来られたのだから」
なんとかそう言うことができた。
千代田を預ける手前、ここで仇を取ったり声を荒げたりできない。
だが、あながち無理して絞り出した言葉でもなかった。
本当に殺してやりたいくらい当時は腹が立っていたが、
今はいろいろな人の善意に触れここまで来て、
内地に帰れる目処がついて心に余裕もできていた。
院長はそれなら会っても大丈夫だろうと安心したらしく、看護婦に案内させてくれた。
誰かが知らせたのか、越野は布団を頭からかぶり、
すみませんすみませんと泣いていた。
なんとも哀れに思えた。私は「越野か」と確かめるように言った。
声が震えるのが自分でもわかる。
「これだけは覚えておいて欲しい。お前のためにどれだけ苦労したか。
追いつくことができなくても、内地に帰ってからでも見つけ出し、
制裁するつもりだった。その執念だけで後を追う決心がついて
お前の10日後にここまで追いかけて来たんだ」
言ったことで大分、気が済んだ。
それと同時に越野に対して、感謝に近い感情が生まれてきた。
仲間が次々と倒れていった釈光寺で私たちは気落ちしていた。
次は我が身かとびくびくしていたとき、真っ先に鬼になり、
ついで私たちをも鬼にしてくれたのは、この越野ではないのか。
鬼にならなければ、ここまで来られなかったと思う。
善良で心優しい人たちが穴に入っていったのだから、そういうことなのだろう。
「まあでも、こうして俺たちも帰って来られた。
もう済んだことだ。早く体を治して帰って来い」
最後は見舞いを言って別れた。
越野は最後まで顔を出さなかった。
院長室に行って、千代田をよろしくお願いしますと言ったら、
「君も行き倒れ寸前だ。10日くらい養生して帰りなさい。
このままだと釜山まで持たないかもしれないよ」
と院長に言われた。だが私は大丈夫ですと言って病院をあとにした。
世話会に戻って、鉄道の残務処理をしているところを教えてもらい、
前年の7、8月の未払いになっている給料を貰おうと交渉したが、
鉄道総局はすでに韓国政府の管理下になっており、1銭も出ないとのことだった。
昭和20年、つまり去年の暮までに帰った人は千円、
今年1月には帰ってくる人も増えて一人5百円に減額され、今や1銭もなくなった。
北朝鮮から帰ってきた人は皆無一文で可哀想だと世話会の人が同情した。
もし仕事がしたいなら、ないこともない。
関釜連絡船が動いていたせいか、京城には引き揚げを遅らせていた一般市民がいて、
その人たちの荷物を運ぶ仕事ならある。
ここから博多までトランク一個運んで千円だよ。と世話会の人が言う。
他の5人はもはや疲れきっていて、重いものを持つことなど
できなかったので、私だけが引き受けることになった。
「できたら前払いでお願いできないでしょうか。
米は少し持っているけど、金がないんです」
と私は言ったが、世話会の人が言うには、
「いやあ考えてもみなさいよ、見ず知らずの人に荷物に千円つけて渡せないでしょう」
それもそうだな、と納得し、2日後荷主から荷物を預かった。
大型トランクだった。弁当代をどうしようかと思い、
駄目元で荷主に弁当代をいくらかでも、とお願いしたら
気前良く5百円を私に手渡してくれた。
「荷物の運搬代とは別に弁当代としてあげよう。かならず博多で待っていてくれよ」
この5百円で握り飯やソーセージを買って少しずつ皆で食べた。
以前乗ったアジア・アカツキ号なら京城―釜山間を五時間で走るのだが、
今回は違う。帰国列車は臨時列車なので速度も遅いし、
定時列車の邪魔にならないように列車の通過待ちをしたりして、
釜山に着いたときには真っ暗だった。
特急列車の何倍もの時間が掛かっていた。釜山では船に乗り換える。
桟橋まで一直線だが長い。トランクは何が入っているのかとても重いが、
帯で背負えるようになっていたので助かった。
長い桟橋を歩きながら、これが朝鮮半島でつける最後の足跡だと、
トランクの重みと共に踏みしめた。
連絡船は待っていた。
連絡船はこの金剛丸と慶昌丸が就航しているが、
私が乗るのはいつも金剛丸だった。初めて朝鮮に来たとき、
父が亡くなったときの往復と今までに4回乗っている。
午後8時乗船。海は凪いでいて静かで灯火管制もない。
甲板に上がって奇麗な夜景を見ようかと思ったが、
預かった荷物が心配なのでやめておいた。
越野に米を持ち逃げされたことが頭をよぎり、
苦労を共にした後輩といえども信用できないのだ。
帰還士優待
昭和21年4月9日、船は何事もなかったかのように静かに博多港に入った。
終戦から僅か8か月であるが、色々なことがあり過ぎた私にとっては死線を超えた、
3年にも5年にも思える8か月であった。死神と厄病神と鬼と仏に会った。
身ぐるみ剥がれ、銃を突き付けられ、凍った川に足を切られ、
仲間の死を看取り、弔い、自らもどの瞬間に倒れても何の不思議もない、
そんな時間をずっと過ごしてきた。
下船し帰国手続きの受付に向かうと、そこにはいくつもの長い列ができていた。
5千トン級の大型客船に隙間なく乗ってきた群衆で港のあちこちがごった返していた。
後輩たちは少しでも短い列に並ぼうと、てんでに散った。
私は少し空いてから並ぶことにしようと思い外に出た。それにやることがある。
岸壁に立ち、朝鮮の方に向かって、咸興のおやじさん、仏のようなおばあちゃん、
隊長さんを思い浮かべ、お陰さまで只今上陸できました、ありがとうございました
と万歳を繰り返した。
帰国手続きの列はまだまだうんざりするほど長いままだった。
後輩たちの姿は群衆にまぎれてすっかり見えなくなっていた。
今度は私も辛抱強く順番を待ち、帰国証明書を手にした。
これがあれば汽車賃は無料になる。
向こうに接待所というところがあり、そこで握り飯を配っているというので、
きっとそこで落ち合えるだろうと行ってみた。
握り飯は米がわずかに入った麦飯で1人2個までだった。
ここも人でいっぱいだ。後輩たちも荷主も見つからない。
また手続き事務所に引き返し、そこで待つがやはり会えない。
係員に聞いてもよくわからない。
困ったなと思いながら、この場所で待つことにした。
「これほど待っても来ないなら来ない方が悪い。その荷物を貰えよ。
千円より値打ちがあるから千円もくれるんだ。
ここまで誠意を尽くしたんだからいいじゃないか」
そばでずっと様子を見ていた人がそう言って立ち去った。
いや私は永野や越野とは違うんだ。
生きるため泥棒や乞食もやったが、人の命と荷物を安全に運ぶという
鉄道員の任務や誇りを忘れたわけではない。
しかも私を信用して5百円の弁当代までくれたのだから、
あと30分だけ待とう、いやついでにあと30分と荷主を待った。
後輩たちはもう先に行ってしまっただろう。
そういえば皆の名前も故郷も聞いてはいない。
今まで呼ぶ時は「おいお前」だけで済んでしまっていたので
聞く必要がなかったのだ。そして歩くときも食事をするときも、
生きるか死ぬかでまったく余裕がなく、いわゆる世間話などもしたことがなかった。
もうこのまま会うことはないだろうと思うと、なんとも残念ではある。
だがここまで来ればもう心配することはないだろう。
その後やっと荷主がやってきた。
荷主も懸命に探したのだそうだ。もう諦めかけていたが、
無事荷物を受け取ることができてよかったと荷主は言った。
千円を受け取り駅に行った。
汽車は出て行ったばかりで次の汽車まであと二時間以上あった。
便所に行きふと鏡を見ると、頭まで鬼のようになっていた。
思えば終戦の前から伸び放題である。
手には千円ある、散髪をして帰ろうと床屋に行った。
一軒目二軒目は門前払いだった。
「引揚者は汚いからやらないよ。看板にもそう書いてあるだろう」
ふん、引揚者お断り、か。引揚者と気軽に言うな、俺は機関車のように
後輩を引っ張って帰って来たんだ、「帰還士」と言ってくれと心で毒づいた。
「帰還士様ご優待!」という看板くらい出してくれてもいいくらいだ。
もうだめかと思いながら三軒目を探した。
それは裏通りにあった。また断られるかと思い戸を開けられないでいると、
中から店主がどうぞ、と手招きしている。
中に入り、今の船で引き揚げて来たばかりです。と言うと、
やってあげるよ、北朝鮮か満州かと聞かれ、北朝鮮ですと言うと、
北朝鮮はまだいいよ、満州からの人は大変だったそうだよ。と店主。
私は反論するつもりはなかったが、同じ時期に同じ船で帰ったのは
同じ苦労があったものと思う。
前の客が終わり、椅子に座った。
8か月以上も手入れをしていないため櫛がなかなか通らなかった。
店主が櫛を見ている。そうだシラミがいるかもしれない。
どうしようと息を殺していると、シラミはいないね、引揚者はほとんどシラミを
連れてくるのであとが大変だと言っていた。
お代を払おうとポケットに手を入れたら、店主は手をぶんぶん振り
惚れ惚れするような笑顔で言った。
「散髪代はいらない、奉仕させてもらった」
さきほど腹立ちまぎれに考えた、帰還士優待が叶ってしまった。




