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2 支那事変

2. 支那事変


昭和12年7月、私が小学校四年生のとき、支那事変が始まった。

その日母は学校から帰ってくるのを今か今かと待っていた。

「今日から戦争が始まった。お前たちもこうしちゃいられないよ。

今日からは馬の草はお前に任せるのだから、草刈りを教えてやる、今から行こう」


そのときには一番上の兄も荷馬車を始めていたので、我が家には三頭の馬がいた。

それからは毎日学校から帰っても遊ぶ暇もなく、雨が降ろうが雪が降ろうが、

草刈りとかいば作りは私の日課となった。馬も生き物、食わさないわけにはいかない。

父も仕事の帰りに道端に草があれば刈ってくる。

母も同じで、野良に行く時は鎌を離したことがないくらい、

いつでも持っている習慣がついた。

世話をすればするほど、馬がかわいく思えてくるから一生懸命に世話をしていた。

たまに鞍をつけて乗せてもらうのも楽しみだった。

 

 その年の暮れには支那事変も激しさを増してきていたが、

そのころは勝ち戦である。北京を占領した、上海が落ちたと

旗行列やら提灯行列をするほどだった。

一方ではたった二銭の葉書一枚で、若い青年はおろか、少々の年配の人でも、

子供のいる一家の大黒柱でも戦場に送られるようになっていった。


 私の一番上の兄も兵隊に行ける歳になっていたが、遠い満州鉄道に就職すれば

徴兵が逃れられるかもしれないと考え、首尾よく満鉄に入社したのは良いが、

やはり召集令状は追って来た。

しばらくして福ちゃんも徴兵検査の年齢になったので福ちゃんにも来た。

二人とも戦争に行ってしまった。 

 

招集は人間だけでなく古鉄や食器や馬にも来た。

うちの大事な馬にも来てしまった。

兄二人の馬はもう売ってしまって、うちには父の馬しかいなかった。

真鍮や高価な馬が召集されるときの代金は、たいがい当時の金額で二十円

くらいだったと思うが、うちの馬は誰が見てもいい馬だったのだろう、

百五十円だったと父が言っていた。

愛媛県の挽馬共進会の品評会で一等になって、酒樽と賞金百円を獲得した

こともある秋風号という馬だ。若い者が取られるのだから、馬を取られるのは

仕方ない、ご奉仕してくれればいいと父は簡単に諦めていたようだ。

徴収されたあとは軍の連隊長の乗る馬になったというこの馬は、

自分が一生懸命世話をしたかわいい馬であった。

無事を祈って毎日陰膳を作って飾ってあげていた。


 何といっても大家族、仕事を休むわけにはいかない。

父は早速大分の牧場に馬を買いに出かけた。父は他人が使った馬を使うことを嫌い、

最初から自分で馴らして使う。今度も素晴らしい馬を連れて帰ってきた。

「今度の馬も前にも増していい馬だから、世話のし甲斐があるよ」

父は私を励ますように言った。

「今度の馬は大分の牧場から直接買ってきたので仲買が入っていないが、

軍に取られた馬の百五十円では足りなかった」

とも言った。名前は春風号とした。

父に用事があって休む日などは、

「ハルも今日はゆっくりしろ。体を洗ってやろう」

と散歩させたり、大川まで足を延ばして水浴びさせたりした。

馬は水が好きで川の中で気持ちよさそうにしていた。

陽を浴びて、たてがみがキラキラ光っていた。




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