13 発疹チフス・元連隊倉庫の使役
発疹チフス
帰ってみても状況は依然同じである。
出稼ぎをしていた人たちが帰っていて部屋は満員になっていた。
一晩部屋で寝て吉岡とまた出ていくことにした。
何日も皆といてシラミを貰ってしまったら住み込みができなくなる。
今ならまだシラミを飼っていないので住み込めるが、
仕事があるかどうかが問題で、いちかばちかであった。
「もしどこにも仕事がなかったら最初のおやじさんのところに行こう」
意を決してまた吉岡と出かけた。今度は思い切って山の方で仕事を探そうと、
カルサワ打ちをした農家より更に一時間ほど奥に行ったところの
2、30戸の集落まで行ってみた。
ブドウ畑や梨畑があったが、取り入れはすっかり終わっていた。
無駄足を踏んだとがっかりしたが、まだ神はこの努力を見捨てなかった。
ある一軒の家の前でここに入ろうかどうしようかと迷っていると、
ちょうどこの家の主人が向こうからチゲという日本で言うオイコの
ような物を背負って帰ってきた。チゲには薪が積んであった。
いつものように仕事はないですかと話しかける。
すると、これからもう一回山に薪を取りに行くから、
今夜の泊まり賃として付いて来なさいと流暢な日本語で言う。
これで今夜の宿と食事は確保できた、ああよかったと安堵した。
2人共、お願いします、とチゲを持って主人のあとに続いた。
集落を過ぎればすぐ獣道ほどの険しい小道で、
這うように山を登ること30分、薪を集める現場はアカシヤやその他、
色々の雑木が広い範囲で切り倒されて、薪の束も沢山作ってあった。
主人はチゲに六束乗せた。私たちは4束積んだ。
それを見て、「無理はするな。」と労わってくれた。
ここも山犬がいるらしく帰りを急いだ。
結局私たちは3束ずつ積んで山を下りた。
この家は主人夫婦と老父母の四人暮らしで、2人の子どもは
咸興の町で働いているそうだ。この珍客に老婆はあわてていた。
日本の料理など作ったことがない。
「そうだなあ、何を食べるんだろう」
主人も困っていた。珍種の生物ではないんだが、と思いながら、
「もう4年も朝鮮にいるし、難民になってから農家で住み込むのは
3回目だから何でも食べられます」
と言った途端、腹の虫が鳴った。
老婆は日本語はよくわからないようだったが、腹の音に通訳はいらない。
笑いながら準備に取り掛かった。
皆で食事をしながら、仕事ができるなら明日から何日でも良い、
面倒を見ると言ってくれた。
前の二軒の話をし、今回も同じ条件で働くことになった。
朝方シャワーシャワーと音がする。
天ぷらでも揚げているのかと楽しみにしていたが、
朝食に天ぷらは出てこなかった。
次の朝も同じ音がしたが、やはり天ぷらは出てこない。
皆で同じものを食べているので、あの音は勘違いかと思い始めたある朝、
井戸で老婆が色鮮やかな大きな壺を洗っているのを見た。
朝鮮の家では便所は家の外にある。
年寄りは寒いので夜中は部屋の壺に用を足すということで、
その音が天ぷらを揚げる音に似ていただけだった。
これで天ぷらの謎が解けた。咸興での農家への出稼ぎはこれで最後になった。
仲間のところへ帰ってみたものの依然帰国の情報はない。
11月半ばを過ぎていた。この頃は発疹チフスが流行していて
死亡者が続出していた。
にわか葬儀屋さんの仕事が大忙しでまたそれに従事した。
助役夫婦もこのとき亡くなった。
発疹チフスは全身に発疹ができ、高熱を出して死に至る怖い病気である。
シラミが媒介すると聞き、シラミ退治に懸命になった。
ソ連軍も消毒車を出して予防に努めていた。
私たちはシラミのことをマンドリンと呼ぶことにした。
マンドリンには悪いが、姿が似ているからである。
シラミ、シラミというとなんだか汚いので、
「お、お前ここにマンドリンがいるぞ」というように使うのである。
この頃は出稼ぎがないので部屋はいつも満員で
四畳半に24人が寝るから大変だ。
人の股に人、その人の股にまた人、と重なり合って寝るしかないのだが、
それぞれがマンドリンを飼っていて、それに噛まれれば無意識にかく。
そのために周りの人を起こす。
それの繰り返しで、夜もろくろく眠れず閉口したがそのうち慣れてしまった。
シラミを退治するには熱湯消毒が一番早くて簡単だが、
誰も着替えがないし風呂も湯をわかすものさえない。
雪の中に衣類を入れて凍え死にさせてみようということになったが、
シラミは生命力が強いらしく3日入れておいても死なない。
結局焚き火をして火の上で衣類をパンパン叩き、
にっくきシラミをはたき落して火葬した。
それでもへばりついて落ちないシラミは一匹ずつ取って空き缶に入れるのだが、
すぐに缶はいっぱいになった。
服の縫い目には卵がいっぱいあって、どんどん孵化する。
シラミ取りは毎日の大事な仕事であった。
元連隊倉庫の使役
ある日吉岡と2人で元日本軍の連隊の場所へ行った。
捕虜になっている日本兵が、「食い物があるから入って来い」と呼んでくれた。
ロスケの歩哨の目をかいくぐって中に入って、残り物を食べさせて貰い、
近々連隊の倉庫の整理の仕事があるという情報を聞いた。
ソ連軍が難民に仕事を作ってくれるのだった。とはいえ人数には制限がある。
多くても男性70人くらいで早い者順に従事した。
倉庫の仕事は朝食は10時、昼食は午後2時、5時終了。
日当は米二升の現物支給だったので魅力があった。
倉庫の中にはたばこ、缶詰など世間に出回ってないものもあり、
米、麦、大豆、小麦粉なども山ほどあった。
明太、海産物、日用品までどっさりある。
敗戦まで世間では何もかも配給で不自由していたが、
こんなところにこんなにたくさん貯め込んでいたって、
負けて戦利品としてロスケに持っていかれてはなんにもならない。
倉庫は八棟もあった。
初日は警備の様子がわからないので、悪いことをせずおとなしく帰ったが、
この品物は元々日本のものではないか貰えるものなら少し貰おうと作戦を練った。
そのとき千代田が大きな麻の袋を皆の前に出した。
「これ今日、米倉庫の隅で見つけたので持って来たんです。
まだたくさんあったから、これももらいましょう」
これはドンゴロスと呼ばれている米の運搬用の麻袋である。
物を入れて運んだり、寝袋として使えそうだ。
「でかした千代田、いいものを見つけたな」
と皆に褒められていた。実際このドンゴロスは、この先なくてはならない
必須アイテムになった。
翌日から毎日必ず7人ずつ就労するようにした。
7人全員が同じ倉庫に入るとは限らないので、
残りの者はどの倉庫に何人入ったか確認して、裏道に回り獲物を待つ。
ロスケは正門に2人、各倉庫に1人、巡回が2人と割合手薄だった。
その日運良く7人とも米倉庫に回された。
指揮を執るロスケは指示をしたあと倉庫から出て行った。
今がチャンス!と手筈通りに各カマスから一升を目安に抜き取り
裏道で待っている仲間にうまく渡すことができた。
ドンゴロスもしっかり頂いた。
ロスケは30分くらいで戻ってきたが気がつかなかった。
この倉庫には陸軍の軍服もあった。
ロスケに見せて「ダワイ」と言ったら「ダワイダワイ」と言ったので、
その場で着替えたらロスケは笑っていた。
ダワイとは実はなんという意味か知らぬ。
だが今までダワイと言うとだいたいいい目に遭っていたので、
幸運の呪文くらいに思っていた。このときは、
「ソ連兵さん、これに着替えてみたら?」
「いや俺たちはいい、お前たちが着てみろ」
そんな会話に偶然なっていたのかも知れない。
考えてみるとロスケにしてみれば日本の軍服など用がない。
みんな着替えて喜んだ。(注・ダワイとは〜しろという命令形らしい)
その日の収穫は日当と合わせて約5斗だった。
翌日は海産物や缶詰などの倉庫整理で、この朝もロスケは指示したあと出て行った。
ここにもカマスが積んであったので米かと思い持ってみると軽い。
米ではないと判ったがぐずぐずしてはおれない、
中身も確認できず素早く外に放り投げた。
缶詰類は米より監視が厳しいのであきらめた。
部屋に帰ってカマスの中を見ると、明太を精製したもので
すぐ料理に使えるようになっていた。意外にいいものでよかった。
メリケン粉もあったが、手は出せなかった。
メリケン粉はロスケの主食だから管理が厳しい。
それに白い粉が服に付いて目星がついてしまい、捕まった人もいた。
ここの食事は大きな釜二つに種油を混ぜて白米をいっぱい炊いてくれる。
食べきれないくらいたくさんのご飯だが持って帰るのはダメだった。
余ったら正門前に列を作っている女子どもにも配給していたようだ。
おかずは肉か魚の缶詰だった。
こんないい仕事が長く続くはずもなく、たった二週間で終わった。
24人のチームワークで5俵の米を蓄えられたのだから良しとしなければならない。
私たちが5俵の米を貯め込んだと聞きつけて、先輩や病人を抱えている
人たちが助けを乞いにきた。困ったときはお互い様なので
なるべく援助したいものだが、私たちも24人の大所帯なのだ。
でもまあ少し…と分けているうちに一俵ほどは援助でなくなってしまった。
池辺さんも援助してくれないかと言ってきた一人だった。
永野に頼ってきて、永野が皆に相談してきたのだが、このときは私は反対した。
池辺さんは終戦間際に結婚したばかりで、
奥さんが妊娠していて困っていたのだが、前に私が朝鮮マラリアを患って
休んでいたとき、寮で将棋をしていたのを見て、ずる休みをしていると思ったのか、
訳も聞かずいきなり往復ビンタを食らったことがある。
マラリアは発熱の時間が一定していて、それ以外は平常でいられる。
マラリアを患った者でなければわからない。
そんなことがあったので少なからず反感を持っていた。
それに永野にも少し腹が立っていた。
倉庫の仕事にもほとんどかかわらず、部屋で留守番が多かったので
ずるいなと思っていたのである。
「今は事情が違う。俺も今度はアテがあってしっかり働くから少し出してくれ、頼む」
永野に説得され渋々承知した。




