無くした片翼と、得た片翼と
「んん…」
窓から差し込む日光に心地よい眠りから引き揚げさせられてうっすらと目を開く。今日は休日でこの後も予定は何もない。寝起きでぼんやりとした頭でそこまで考えてから寝返りを打って横を向き、隣で安らかに寝息を立てている妻を片腕でそっと抱き寄せる。
「ん…レーヴェ?」
「…起こしたかな、アニタ」
「ん…いいの、さっきから意識はあったから」
抱き寄せられるとすりすりと胸板に顔を擦り付けるようにして甘え寄ってくる彼女に小さく笑いながら少し前…戦時中に比べると随分と長くなった茶髪を手櫛で梳くように撫でてやる。まるで猫のようにそのしなやかな体と顔を擦りつけて全身で甘え続けてくる彼女を微笑みながらあやしつつ優しく抱きしめ直す。戦時下のエースであった隊長と副官はあの戦争を生き延びることができた。
…もっとも、戦争が彼らから奪い去っていった代償は大きくレオンハルトは左腕と敬愛していた兄を、アニタは両足を失ってしまったのだが。それでも、彼らの愛はそんなことで崩れはしなかった。戦後少ししてから身内だけを招いた簡素な式を挙げ、貴族の名家であるアニタの実家から田舎の別荘を譲り受け、そこに移り住んで日々愛を確かめるような甘い生活を送っていた。
「愛してるよ…」
「私もよ、レーヴェ?」
過去幾度となく繰り返して、それでも飽きることなく繰り返す問答。小さく笑いながらどちらからともなく顔を寄せてそっと口づけを交わして微笑む。額を重ねあわせるようにして浅い口づけを繰り返していくもののふと思い出したようにアニタは抱擁を解いてからベッドから出ようとしていく。
「…アニタ?」
「ご飯、作らないと…」
「私は空腹ではないけど?」
「そうね、貴方は必要ないかもしれないわね…でも」
そういって苦笑とも微笑ともとれる複雑な笑みを浮かべながら少しだけ膨らんだお腹をそっと撫でる。その動作でようやく彼女が何を伝えかったのか遅まきながら気づいたレオンハルトは頬を掻きながら苦笑する。彼女の御腹に宿された新しい命の事を勧請し忘れた自分のうかつさを思わずのろいながら。
「少しだけ待ってくれないか…?」
「ん…」
彼女のお腹に過負荷を掛けないよう気を配りながらそっと頬を寄せて子供の鼓動を聞きとろうとしようとする。
「まだ聞こえないと思うわよ…?」
「それでもさ。…それに朝食は私が作るよ。君に負担を掛けたくない。何がいい?」
「貴方に任せるわレーヴェ。…それにしてもこうなるまであなたが料理できるとは思ってなかったわ?」
「…簡単な物だけどね。こういうのはそんなに嫌いじゃないし」
顔を寄せて聞き耳を立てるレオンハルトの姿に思わず軽やかな笑い声をあげて首を傾げつつもどことなく無邪気なような、恐らく今となっては彼女の前でしか見せないだろう、彼の様子につい頭を優しくなでてやる。心地よさ気にレオンハルトは彼女の手を受け入れつつもそれを堪能するのは少しだけの間で起き上がってベッドから出てキッチンへ向かおうとする。彼の温もりが離れていくのを残念そうにしながらも自分一人ではどうすることもなく、少しだけしゅんとなりながら彼の背中を見送る。
レオンハルトはキッチンに立つと片腕というハンデを特に気にすら留めない様子で材料を取り出して調理を始める。彼の中でのメニューはハムエッグにクロワッサン、それに簡単なサラダに決まっていたし、実際にそのつもりで調理していく。が、しかし途中で来客を告げるベルが鳴る。少しだけ不満げな顔を浮かべながらも火を一度止めて玄関へと向かう。
「来客みたいだ、少し応対してくるよ」
「…あ、教官。すいません朝早くに」
「…なんだ、カールか。どうした、こんな時間から」
玄関先で彼を出迎えたのはカールという少年と青年のちょうど中間といったような顔立ちをした男で、彼は戦後の空軍パイロットの第一号として怪我により教官職へと転向したレオンハルトのもとで研鑽をつんでいる最中の新米だ。際立って優秀というわけではないが、特徴としてはその生真面目さが挙げられるだろう。
「失礼だとは思いますが教官はこの時間お宅にいらっしゃるとお伺いしたので少し相談したいことがあったのですが…お邪魔でしたか?」
「……いや、構わん。上がっていけ」
「はっ、失礼します」
すこしだけ逡巡してから彼は結局この若い訓練生を家へあげることに決める。どことなく自分と重なって見えるこの訓練生を彼は好ましく思っており、何かと目を掛けているからだ。無論、贔屓などは出来ないのだが、こうして訪ねてきたものを無碍にすることもあるまいし勤務時間外ならば別だろうと考えたレオンハルトはカールを新居へと招待してやる。
「アニタ、済まない、客人だ」
「あら、どなた?」
「カール、カール・キッペンベルグだよ」
「嗚呼、彼ね…私もお出迎えしないと…」
「良いから、君へ寝ててくれ」
リビングへとカールを招きながらも寝室のアニタへと声尾を掛ける。何回かレオンハルトのところへ顔を出したことのあるアニタはその持前の記憶力で名を告げられたものの事を思い出し起き上がって車いすに乗ろうとすらする。そのことに気づいて慌てて寝室へ駆け出して彼女を押しとどめる。
「あ…すいません、ファーレンハイト夫人、お邪魔しちゃって…」
「いいのよ、気にしないで。ごめんなさいね、こんな格好で」
「あ、いえ…そんな、お気遣いなく」
「カール、分かってると思うがアニタに手を出そうとしてみろ。20mmで蜂の巣にしてやるからな」
ベッドの上から若く、そして珍しい来客に向けて柔らかく微笑みかけるアニタの笑みを直視してしまったカールは思わず赤面して顔を背けながらもごもごと口の中だけで返答をする。が、レオンハルトがその姿を見咎めて小さな声で半ば本気めいた声で釘をさすと赤かった顔は途端に青ざめてこくこくと壊れた機械の様に必死に頷く。カールの様子でレオンハルトが何を言ったか察したのだろう、アニタは呆れたような、照れくさそうな…それでいてどこか嬉しそうな顔で二人を見つめる。
「…あー、カール。朝食はまだだろう。ついでに食べていくといい」
「い、いえそんな…お尋ねした上になんて…」
「構わん、何せ私はこれだからな。手伝ってもらおうと思ってな。その代りだ」
その様子に気づいたレオンハルトはアニタから目をそらしながら気まり悪げにカールへと朝食の誘いをする。当然、生真面目な彼の事、慌てて断ろうとする。
その彼に小さく笑いながら自分の何もない袖口をヒラヒラと振って見せてからキッチンへと顎をしゃくって指示して先導するように歩く。少しだけ逡巡するもののアニタへと一度だけ会釈をしてから自分の敬愛する教官の背中を追ってキッチンへと消える。残されたアニタではあったが、さして時間はたたずにキッチンの方から美味しそうな香りとともにレオンハルトとカールが食器をテーブルに並べだす。
「さ、アニタ…」
「ん…いつもありがとうレーヴェ」
配膳が終わった所でベッドのアニタの方へとレオンハルトが歩み寄って非常に軽くなってしまったその体を抱き上げるようにして車いすに乗せてやる。最初の頃は申し訳なさそうだったアニタも今では穏やかな笑みで礼を述べるだけだ。謝るたびにレオンハルトが気にしないでいいといつも本心からの言葉で諭してくれたのだから。
「さて…では食べながらにでも用件を聞こうか」
「…あ、はい。教官はパイロットに必要な資質はなんだと思いますか?」
「…なんだそれは。また随分と抽象的な話だな。」
「…レーヴェ。ごめんなさい、夫が。…それをわざわざ聞きに来るなんて何かあったのかしら?」
半熟に綺麗に焼いたハムエッグにナイフを通しながらカールの口からためらいがちに放たれた問いにレオンハルトはつい答えを返すよりも少しだけ顔をしかめてしまって思わず呟く。その様子を見て少しだけ申し訳なさそうな表情を浮かべるカールを見て少しだけ叱責の意志を込めて夫の名を呼びつつ取り成すようにカールの真意を聞き出そうとする。
「…え、と。自分がパイロットに向いているかどうかがわからなくなってきてるんです。
努力は人並み…いえ、それ以上にやっている自負はあるのですが、それでも…同期の皆についていけてないのではという不安が、どうしても…」
「成程、な。しかし詳細は話せんが君の評価は悪いものではないぞ?それでも、か
?」
「は…」
言いながらだんだんと嫌になってきたのか次第に俯き加減になっていく彼を見て夫婦はそれぞれの顔を見合わせて苦笑する。レオンハルトはアドバイスをする前に喉を湿らせることを考えたのだろう。一言断ってミルクとそれを注ぐためのグラスを取りに行くために一度席から離れる。その背を見送りながら、ゆっくりと言葉を選ぶようにアニタが口を開く。
「貴方は十分に戦闘機のりの資質を備えていると思うわ。頭脳的な、また精神的なバランス感覚に優れていて、教官のいうことを素直に受け入れられる。訓練中のあなたの様子は私にはそう見えたわよ?」
「は…少し気が楽になりました。しかしなぜレオンハルト教官ではなくファーレンハイト夫人がそのことを…?」
「どうかしたか?」
「いいえ。なんでもないわ、レーヴェ」
訝しげに彼女を見るカールの視線に気が付いて、かつての夫とカールの姿が重なって見えたせいか、思わず口を挟んでしまったアニタはわずかに視線をそらして焦ってしまいながらもすぐに持ち直して夫には内緒よ、といった感じでカールに向けてウィンクする。
その動作にそれ以上深いことは聞けなくなり、かつ美しい顔にやはり見惚れてしまったカールとアニタを戻ってきたレオンハルトが不思議そうに見つめる。アニタがその彼の不思議そうな顔に小さく笑みをこぼしながらも誤魔化すとレオンハルトはなおさら不思議そうにしつつも席に着く。それから食事をしながらではあるが彼なりの持論をカールに対して熱弁する。
「有難うございました。…少し、やれる気が出てきました」
「何、この程度。また来るといい、歓迎するぞ」
「ええ、私もよ。是非またいらっしゃってね」
一時間強ほども話しただろうか、ようやく満足したレオンハルトはアニタの微かな呆れ顔と若干の疲労を覚えた様子のカールに気づいてまた気まずげな様子を見せつつ多少強引に話を締め、一先ず片づけを後回しにしてカールを送り出そうとしてアニタの車いすを押しながら玄関へと向かった。
当然、カールは手伝おうとしたのだが、客にそんなことはさせられないの一点張りで押し切って半ば強引に送り出そうとする。恐縮してしまいながら何度も繰り返すカールを見送ったレオンハルトはしかし彼の背が見えなくなると何かを堪えるように血がにじむほど強く拳を握りしめて俯き加減で立ち尽くしていた。
「レーヴェ?」
「私は…いや僕は、アイツが羨ましいよ…。いくら悩んだとて奴には翼が残されている。でも、僕は…っ」
「ごめんなさい、レーヴェ…私が…私が居なかったせいで…」
カールのその姿勢にレオンハルトもまた、かつての自分と彼を重ねあわせてしまったのだろう。これまでずっと抑圧してきた想いを文字通り血すら吐きそうなほど低く、絶望と怨嗟、嫉妬や憎悪にまみれたかすれ声で吐き捨てる。
勿論、そういったマイナス方面の感情の矛先が向くのはほとんどレオンハルト自身にであったが、その独白に込められた感情にアニタは射すくめられたように動けなくなってしまう。普段見せない…いや、これまで全く見たことのなかったと言ってもいい夫の姿にアニタは彼の背にすがりつくようにして静かな、それでいて微かに震えた声音で謝罪を繰り返す。
「………いいんだ、君のせいじゃない。僕の力不足だよ。だから君を…守れなかった」
「…それこそ貴方のせいじゃないわ、レーヴェ。それに…私は今とても幸せよ?」
「そう、か…有難うアニタ。…君にはいつも助けられる。」
たっぷり二十秒ほども無言のままで彼は立ち尽くしていただろうか。ゆっくりと,一言一言をかみしめて吟味するかのように言葉を紡ぐ。その響きに未だ自嘲の色は濃いものの先ほどに比べると険がかなり取れている。彼の声音からそのことを察したアニタはそれでも強く抱きしめたままいいの、と短くかつ小さく応じて顔を彼の背中へ擦り付ける。レオンハルトは抱擁する彼女の腕の中で器用に体の向きを入れ替えるとしゃがみこんで彼女を優しく抱きしめ返して小さく呟く。
「私も、幸せじゃないわけじゃないよ。さあ、もう中へ入ろうか。お腹の子に障る」
「…ええ」
囁くような声で彼女に声を掛けながら、半ば泣き笑いのような表情を浮かべる彼女の唇をそっと奪ってすぐに離してやってから抱擁を解いて車いすを押して家の中へと消えていく。
(失うことなんて考えられなかった翼を失って、失うことを考えられない伴侶を得る、か。…等価交換かな、これは?)
未だドロドロとしたものが拭い去りきらぬ内心でさして面白くもないことを考えつつも車いすに納まって目をぬぐっているアニタを…妻を見下ろしながら、ならば彼女は、彼女だけは二度と失わないと今更のように考えた。