キャッチボール
元気に校舎へ走って行く夢を見送り、振り返ると亮が車から降りて来た。
顔も上げずペコリと頭を下げて俺の前を通り過ぎて行った。その小さな背中にまだつりあわないランドセル姿を見ていると、心の奥の方がチクリと痛むのを感じた。
あたり前だが帰りにも会う事になる。しかし気に留めない様に視界から外していた。
そんな俺の気持ちを無視するかの様に、夢がクラスでの亮の様子を話して来る。
「亮君凄く頭が良いの。もう2ケタのたし算もひき算もできるんだよ。」
俺はそんな話しにただ相づちを打つだけだった。
次の日は、国語の音読は声が小さくてよく聞こえなかった。とか、でも字がとても綺麗だとか、学校から自宅まで10分程の道のりずっと里中 亮の話しを聞かされていた。
そんな夢に悪いとは思いながら、気の無い返事ばかりしていた。
送迎4日目。
昨日、夢から渡された俺の写真付きのIDカードを首から下げて、初めて学校の敷地内に足を踏み入れた。
1年生を迎えに来ている父兄で、校舎の前は人で溢れていた。その中を里中 亮がよそ見もせず真っ直ぐ俺の方へ歩いて来て、頭を下げて通り過ぎて行った。
「亮君、バイバイ。」
少し離れた所から夢が大きな声を出して手を振っている。
立ち止まって小さく手を振り返し校門を出て行った。
夢が俺の手をギュッと握ってきた。
何を思っているのだろうか、車に乗り込む里中 亮の姿を寂しげに見つめている。
「亮君ね……いつも1人で本読んでるの、休み時間も誰とも口聞かないで……友達も作ろうとしないんだよ。」
「……そうなんだ。」
「今日、なんの本読んでるの?って聞いたら、『うん。』だって……答えになってないよね。……夢、なんだか悲しくなっちやった。」
「うん……」
そう返事をすると突然夢がつないだ手をおもいっきり振り払い足早に歩き出した。
「夢?」
「航太の馬鹿!……大嫌い‼︎」
ランドセルを上下させて走り出した。
慌てて後を追う俺は、なぜ怒らせたのか分からなかった。
すぐに追いついて、もう一度声を掛けた。
走っていた夢のスピードが徐々に落ちて、ゆっくりとした足取りになった。
「……夢。」
立ち止まって俺を見上げた夢の頬は膨らんでいて、大きな瞳は恨めしそうに俺をうつしている。
「えっと、夢?……俺……」
「昨日も、その前も、適当な返事ばっかり……気になっている癖に……もういいよ。知らない!」
強い足取りで先に行ってしまった。
6才の少女に心の内をすっかり読まれていた。
気になると言うだけで、里中 亮に俺が何をしてあげられる……無神経に他人が関わり合えば、相手を傷つけてしまうだけだ。
でも……
そうだな……あの子の笑った顔は見てみたいと思うよ。
前を歩く夢の姿を見つめながら軽く唇を噛んだ。
家に着くと夢は自室に篭り、用意したおやつも、食べに降りて来なかった。
いつもは夕食の買い出しについて来るが、今日は、誘っても返事さえしてくれず、俺は溜め息をついて1人商店街へ買い物に出た。
◆◆◆
買い物袋を提げて小さな公園の前で足を止めた。静かな公園のブランコに、里中 亮がポツンと座っていた。
大きく漕ぐわけでもなく、小刻みに揺らしている様子は彼の心を表しているみたいだった。
通り過ぎ様かと思った……その時、夢の膨れっ面が頭をよぎり、前髪を手で掻き乱して肩で小さく息を吐いた。
近くにあった自動販売機でコーヒーとオレンジジュースを買って公園の中へ入って行く。
「里中……亮君。こんな所で何してんの?」
差し出されたジュースをみて、それから俺を見上げた。
その表情は突然声を掛けられた驚きと、見知らぬ男が目の前を塞いでいる恐怖で強張っていた。
「憶えて無いみたいだね。毎日学校ですれ違っているんだけど……」
少し考え込んでから小さく声あげて、もう一度俺の方を見た。
……思い出したみたいだな……
隣りのブランコに腰を下ろして、もう一度ジュースを差し出すと遠慮がちに受け取ってくれた。
缶コーヒーのプルタブを開けて一口飲む。
肩から提げられている布製のバックに目をやると、ピアノと印刷された文字だけチラッと見えた。
「ピアノ教室の帰り?」
「はい。」
「楽しい?」
「別に……」
……〝別に″……か。
缶コーヒーを一気に飲み干して10m程離れたゴミ箱に空き缶を投げ入れた。
「凄い‼︎」
目を輝かせて感嘆する表情は少年らしく、俺は嬉しくて笑みがこぼれた。
「……そんな顔もするんだね。いつも何か我慢しているみたいな……感情を表に出すのを怖がっている様に見えたから……気になってた。」
里中 亮の瞳が次第に大きく見開かれて俺の顔をジッと見つめている。
頭をくしゃっと撫でてやると、一瞬身体を硬くしたが、少しずつ力が抜けていくのが手に伝わってきた。
「それ飲んで、ここからあのゴミ箱まで投げてみたら?……一発で入ったら気持ちいいよ。」
指差した方を見て、手にしていた缶ジュースを強く握り直したが、急に立ち上がり、大きく首を左右に振った。又、いつもの無表情な少年に戻っている。
缶ジュースを俺に押し返して頭を下げると、身体を反転させて出口へと歩いて行ってしまった。
「嫌われたかな?」
野球のユニホームを着た少年達が前を通り過ぎて行く……その5〜6人のグループを、どこか羨ましそうに目で追ってから俯くと、肩に提げていたバックを軽く掛け直す仕草をして、力無く歩いて行くのを見送った。
夕食の時間にやっと夢が自室から出て来たが、いつもの賑やかな雰囲気は全く無く、俺も夢も無言で食べている。
理由が分からない兄貴は戸惑った表情で2人の様子を伺いながら食べていた。
「買い出しの途中、里中 亮君に会ったよ。」
「えっ……話したの?」
「少しだけな……」
「ふぅ〜ん……」
夢の口が優しく緩んだ。
「……やっぱり気になるよ、あの子。」
「うん。……で、どうするの?」
……どうするのかと聞かれても何も決めていない。
関わっていいのか、まだ迷っている自分がいる。……優柔不断さにがっかりしてしまう。
「……2人にしか分からない会話は止めてくれないか……もの凄〜く疎外感を感じる。」
兄貴のムスッとした表情が可笑しくて2人で吹き出してしまった。
「笑い事じゃないぞ、ちゃんと会話にまぜろ!」
俺は笑いながら〝ガキかっ!″と、心の中で突っ込んだ。しかし、兄貴の機嫌を損ねるのは後々面倒なので、夢と交互にこれまでの経緯を話して聞かせた。
不思議な事に兄貴へ話しているうち、少しずつ考えがまとまっていった。
「……それで、お前はその……亮君っていう子をどうしたいんだ?」
数分前の兄貴とうって変わり、真面目な顔をして聞いてきた。
……里中 亮の抱えている問題がどんな事なのか、把握していない現状で軽々しい言葉を並べられない……ただ気になると言う理由だけの薄っぺらい気持ちだとは思われたくなかった。
「……亮君は、航太の息子でも家族でも無い……よその家庭の子供だ。大丈夫なのか?」
兄貴の心配は分かる。
この先、少年の痛みや苦しみを知った時、その深さに手がおえなくなり、投げ出す様な事になれば、かえって傷つけてしまう事を言いたいのだろう。
「……俺みたいな中途半端な人間が他人の悩みを解決出来るとは思ってない……それでも、あの子に笑って欲しいんだ。そのきっかけに成りたい。」
「笑って欲しいか……」
立ち上がった兄貴はサイドボードに置いてあった煙草を手に取って火を点けた。
夢の前で吸うなんて珍しい……
夢は顔をしかめてダイニングの方へ移動してしまった。
眠そうにあくびをしている。
何を考えているのか、思い出しているのか、押し黙ってしまった兄貴の横顔を俺は見つめた。
……煙草の火がジリジリと灰の部分を増やしていく。
「兄貴、煙草。」
「……えっ⁈……あぁ。」
慌てて灰皿に煙草を押し付けた。
「航太にしか出来ない何かが有るかも知れないな……覚悟があるなら、何も言わない。」
穏やかな表情の瞳の奥は心配そうに揺らいでいた。
「……ありがとう。」
ダイニングの椅子に座っていた夢は、いつの間にか可愛い寝息を立てて、テーブルに顔を押し当てて寝てしまっていた。
兄貴は起こさない様にそっと抱き上げた。
「……航太。………まだ、出生の事こだわっているのか?」
「100%何のこだわりが無いとは言えないけど……それよりも大切な事を、心の中に置き去りにしているのが……」
今、俺はどんな顔をしているのだろう。
長い間放ったらかしている、誰にも……自分さえも触れる事に躊躇している心の声。
いつまで抱えているつもりなんだ……いい加減決着をつけるべきだろう……俺。
「何か……いや、よそう。先に風呂に入っていいぞ。」
夢を抱えて2階へ上がって行った。
兄貴……折出 隼人が俺の兄貴で良かったと思っている。
子供の頃から、いつも見守ってくれて感謝してる……いつかこの気持ちを伝えられたらと思う。
◆◆◆
次な日から学校で里中 亮を見掛ける度声をかけた。
たいした言葉ではない……
朝なら〝おはよう″
下校時は〝また、明日″……と、いった簡単な挨拶程度だ。
最初は、今までと同じ様に頭を下げるだけだったが、ある日の下校、声を掛けると初めて〝さようなら″……と、小声で応えてくれた。
驚いて夢と顔を見合わせた。
その次の日も……
少しずつ心を開いてくれているのか?
なんだか希望が見えてきた。
……そして、ある事を思いついて、俺は急いで帰った。
探すのに手間取ってしまった。
随分使っていなかったので、物置きの奥の方に閉まってあった。
おかげで身体中ホコリだらけ……蜘蛛の巣も頭にへばり付いた。
物置きから引っ張り出したのは、古ぼけたグラブと野球ボール。
小学生の頃まで兄貴とキャッチボールをしていた時のものだ。
……懐かしいな。
公園で、里中 亮が通るのを待っていた。
先週と同じバックを肩から提げてやって来た。
「お帰り。」
「あっ!」
「待ってたんだ。」
突然現れ待っていたと言われ、どうしていいのかわから無いのか、少しずつ後ろへ下がって行った。
……それは無いだろう。まるで俺が不審者みたいだ。……と、心で嘆いてみたが、気を取り直してグラブと野球ボールを差し出した。そして、一緒にキャッチボールやらないかと提案し、無理矢理グラブを手に持たせ、公園の中央まで引っ張って行った。
「この辺でいいかな……」
「……どうして、野球?」
「先週会った時、野球のユニホーム着た子達の事じっと見てただろ?だから野球好きなんじゃないかと思って持ってきた。」
「でも……」
グラブをギュッと握ってモジモジとしている。
亮に目線に合わせる様に屈み、顔を覗き込んだ。
「……どうした?
もしかして……キャッチボールやった事無い?」
恥ずかしそうに小さく頷く亮の頭を撫でた。
「教えてやるよ。大丈夫、すぐ出来る様になるさ」
それから亮に、1から手取り足取り教えた。
うっすらと汗をかいて夢中にキャッチボールをする姿は、楽しそうで嬉しくなった。
時間を忘れて夢中になり過ぎてしまった。
公園内の時計が16時を指しているのに気がついて、慌ててグラブを俺に返してきた。
「帰らなきゃ!」
俺はグラブとボールをもう一度握らせて、持ってていいと言った。
「えっ!いいの?」
「あぁ。だから、来週もここでキャッチボールをしょう。」
亮は嬉しそうに胸に抱きしめて頷いた。
「有難う」
「大丈夫?……1人で帰れる?」
「うん。」
「じゃあ、気を付けてな。」
顔を輝かせて走って公園を出て行った。
誘って良かった。
たかがキャッチボールであんなに喜ぶなんて思わなかった。
あの笑顔を、ベールで隠している理由は何なのか……もっと仲を深めたら見えてくるだろうか?
うっそうと茂っている背の高い木々の間から見える空。少し暗くなってきた。
……さて、友達の家に遊びに行った夢を迎えに行こう。