一
※この作品はフィクションです。当作品における歴史的史実、実在の人物・団体等とは一切関係ありません。また、作品の演出等の都合上、実際の史実とは異なる出来事並びに設定が登場しますが、これまでに明らかにされてきた史実に対し新しい解釈を試みたものではありません。
寿永二(一一八三)年五月十一日 未明
越中・加賀国国境 砺波山 義仲軍本陣
夏の兆しが近づいているにも関わらず、北陸の夜は未だに底冷えが激しかった。
草履越しに微かな肌寒さを感じた源義仲は、それを少しでも和らげるべく両足を地にぐりぐりと押しつける。顔を上げ、暗闇の一点を凝視すると、暗闇の中から傾斜のきつい山肌が僅かに浮かび上がってくる。いよいよだ。義仲は固唾をぐっと飲み込む。
「殿」
背後から心地よい響きを湛えた女の声がした。義仲が振り返ると、そこには幼い頃から互いに競いあった若い女が、長い黒髪を肩から結い上げ、右手に自身の胴より一回りほど大きな弓を持って立っていた。
「巴か」
巴は、まっすぐに義仲の瞳を見つめながら告げる。
「我が兄、兼光の軍が予定通り平家の背後に回ったとの報せが、先ほど届けられました」
「そうか」
義仲は一言そう言うと、巴の頬に手をかける。刹那、巴の白い頬が微かに血気を帯びた。
「恐らく、これまでで最も激しい戦になるだろう。いくらお前とて、無理をするでないぞ」
そう言われた巴は、口をへの字に曲げて返す。
「殿は私を見くびっておられます。私はこれまでに、何百の武士の首を獲ってきたのですよ。今更何を臆することがありますか」
巴は義仲から目を逸らす。暗い中でも、彼女の機嫌が著しく損なわれたのは明らかだった。義仲は、小さく笑みを洩らす。
「そうだったな。頼りにしてるぜ、巴殿」
義仲は、巴の頬を優しく撫でた。巴の顔が、さらに血色を濃くする。程よく撫でたところで、義仲は巴から手を放し、自らの戦陣で控えている男たちに向き直る。
「さあて」
義仲は深く息を吸い込んだ。冷たい空気が彼の身体に深く染み入ってゆく。同時に、それは義仲の中に潜む源氏の血を呼び覚ました。そして、彼と同じく戦に飢えた郎党へ声高に告げる。
「征け、武士ども! 戦いの時だ!」
方々から男たちの叫びが木霊する。巴も彼らに負けじと、高い声をはっきりと響かせた。
――こうして、世に言う倶利伽羅峠の戦いの幕が上がった。
後世に名を轟かせるこの戦いの立役者である彼――木曽義仲のこれまでの半生には、波乱と成長と、そして抗いようのない血の宿命があった。
仁平四(一一五四)年八月
武蔵国比企郡大蔵 源義賢の屋敷
斎藤実盛は、主人である源義賢の屋敷の中を忙しく走り回っていた。その足取りは早く、時に足元がおぼついてしまうこともあったが、決していたずらに屋敷を徘徊しているわけではなかった。彼の目的は、他でもない主人の義賢の閨だ。ようやく義賢の閨に辿り着いた実盛は、慌ただしく主人の閨に躍り出た。
「と、と、殿!」
そんな実盛を見つめていた義賢の表情は、これから明かされる内容への期待と、昨夜からの寝不足が入り交じり、歪な形相となっていた。
「騒々しいぞ、実盛」
「申し訳ございませぬ、ご無礼を」
その場で深々と平伏する家臣を前に、義賢は少し声を潜めて尋ねる。
「…して、無事に生まれたのか?」
「はっ、小枝殿は無事、ご立派な男子をお生みになられました!」
男子。実盛の力強く発したこの言葉に、義賢の形相が柔らかくほころぶ。
「まことか? …ようやった、ようやった…」
神妙な顔つきで何度もそう呟く義賢の前で、実盛は再び頭を強く床に押し付ける。その目には、うっすらと涙が溜まっていた。