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ハウスシリーズ

ひまわりのむこうがわ

作者: マイマイ

薄いガラス1枚が隔てる世界。


残酷な透明の壁。


そのむこうがわとこちらがわでは天と地ほどにすべてが違う。


なにひとつ、理解できるはずもない。


僕は、あまりにも、無力だ。









「はい、それでは終了した者から答案用紙を机上に伏せて、速やかに退室するように」



冷房の効きすぎた教室に試験監督の声が響く。


大学の前期試験、最終日。これが終われば長い夏休みが始まる。


僕は記入ミスがないかを簡単にチェックした後、誰よりも早く教室を出た。



校舎の外に出ると、ムッとした空気が身体をつつむ。


午後5時前、夕方とはいえ強烈な日差しが照りつける。



春は桜が美しかった正門までの並木道も、いまは緑の葉をぎっしりと繁らせている。


桜の木は、この春の出来事を思い出させる。ひとりの花屋がみせた奇跡の瞬間。


あの出来事が僕の中にどういう影響を与えたのか、それはわからない。


ただ、あれから僕は3年間休学し続けた大学に休むことなく通い、


週3日は喫茶店にアルバイトに行き、ちょっと飲みに行く程度の友達もできた。


一度は死を覚悟したことすら嘘のように、平和な毎日を過ごしている。


けれども、これでいいのか、こんなふうに過ごす資格が僕にあるのか、


そんな無意味な自問自答がほぼ毎日のように頭の中で繰り返される。


僕が救えなかった彼女。永遠の喪失。あのときもう少しだけ勇気があれば、僕は、




「おい」




不意に正面から額を叩かれ、同時に横から足を蹴られた。


正門前。


顔を上げると、ハウスの同居人のレイさんと、その友人の花屋がいた。



「なにボーーッと歩いてんだよ!試験終わったんだろ?もっと、こう、ホラ、解放感を味わえ!!」



泥だらけの白いツナギ。夕日に輝く金色の短髪といくつものピアス。浅黒い肌に鋭いまなざし。


花屋のサトシさんが、ゲラゲラと笑いながら、さあ飲みに行こう飲みに行こうと騒ぎ立てる。



レイさんが薄く笑って僕を見る。長い睫毛にふちどられた切れ長の目。



「おまえが今日で試験終りだって聞いてな。ちょっとつきあえ」



ママンの許可は取ったから、と続けた。


真夏だというのに細身の黒のスーツがよく似合う。陶器のような肌に薄茶色の髪がかかる。


サトシさんの持つどこか猛々しく凶暴な雰囲気とは対照的な、いつも静かで冷ややかなレイさん。



「でも、スーツってことはこれからお仕事じゃないんですか?」


「今日は昼の間に2件まわってきたからな。もう終わりだ」


レイさんは大学4年。異常に高給な家庭教師のバイトをしているようだが、詳しいことはわからない。


サトシさんは待ちかねたように泥だらけの軽トラに飛び乗った。エンジンをかける。



「さあ乗れ!!行くぞーーー!!」



レイさんは軽やかに助手席に乗る。僕はどこへ乗ればいいのだろう。


とまどう僕にサトシさんが苛立ったように声を飛ばす。



「乗れよ、はやく!!そこに乗れんだろうが!!」



そこ?荷台?


汚れた脚立や工具などが乱雑に置かれた幌のない荷台に、僕はとりあえずよじ登る。


昼間の太陽の熱をモロに浴びていたようでとにかく暑い。


だいたい、どこの世界に軽トラの荷台に乗せられて飲み屋に行く大学生がいるというのか。


僕が荷台に乗ったのを確認すると、サトシさんは全開でアクセルを開けた。


僕は必死で荷台にしがみつく。なんだかわからないが、運転席からゲラゲラと笑い声がきこえる。



軽トラは夕日の眩しい街並みを猛スピードで走り抜け、峠道を超えて、薄暗い山の中へと入って行った。







荷台の乗り心地は最悪だが、風の変化が面白い。排ガスにまみれた空気から、緑と土の懐かしいにおいの中へ。


軽トラはガタゴトと砂利道をぬけ、木々の間の細い道をくぐり、山道を登っていく。


あたりは夕闇につつまれ始め、ふきぬける風がいくらかひんやりと感じられる。


しばらくすると、背の高い木がなくなり、原っぱのような場所に出た。



突然、軽トラがブレーキをかける。僕はあわてて荷台にしがみつく。



サトシさんが運転席から降り、荷台に飛び乗って、降りろ降りろと僕を蹴り落とす。


僕は草の上に転がりながら、抗議の声をあげる。



「ちょ、ちょっと、ひどいじゃないですか」



サトシさんはもう聞いていない。鼻歌を歌いながら、荷台に積んであったビニルシートをひっぱりだし、


懐中電灯やスーパーの袋なんかをつぎつぎに草の上に放り出した。


学校帰りにいきなり荷台に乗せられ、着いたと思ったら蹴り落とされ、あまりに扱いがひどい。


レイさんは湿った草の上ですねている僕の肩を軽くたたき、ゆっくりと前方を指さす。




僕は一瞬、言葉を忘れ、息をのむ。



まだうっすらと夕焼けの残る空。家々に灯るやわらかな明かり。道路に連なる車の、光の帯。


見慣れた街並みが織りなす、夕暮れ時の輝き。



「この場所は、ハウスの連中とたまにくるんだ。なにしろ人ごみが嫌いな奴ばかりだからな」


レイさんが薄い唇を歪めて笑う。



さあ飲もう、とサトシさんが軽トラからクーラーボックスを降ろしたその瞬間、



静かな山中に派手なクラクションとブレーキ音が鳴り響き、1台の車が飛び込んできた。



「ななな、なんだよ!!あっぶねえなあっ!!!」



サトシさんが怒り狂って車へ駆け寄る。レイさんは、来たのか、と静かにつぶやいた。


助手席のドアがバン、と大きな音をたてて開き、ママンが飛び出してサトシさんにつかみかかる。



「この馬鹿花屋!!酒屋でビール買いまくって、請求書ハウスに全額まわすってどういうことだ!?」



ママンは身長190センチを超す巨体だ。北斗の拳の悪役みたいな身体で、サトシさんを羽交い絞めにする。


運転席からは優さんが出てきて、


「そうよ、酒代だけコッチにまわして、宴会には誘ってくれないなんて人間のやることじゃないわ」


と笑いながらサトシさんの頭をペチペチと叩く。


サトシさんはママンの腕を振り払い、てめーらが来るとうるさいから呼ばなかったんだよ馬鹿野郎、


と叫び、後部座席から出てきた圭さんとメガちゃんはおなかを抱えて笑っている。


レイさんは手際よくみんなに飲み物を投げる。その姿さえカッコいい。不公平だ。


ママンがビールを持った右手を勢いよく挙げ、



「んじゃ、なんだ、モトの前期試験終了を祝って、カンパーーーーイ!!」


と声を張る。


みんなもあわせて声をあげる。懐中電灯だけが照らす暗闇の中、カンパイの声がこだまする。


さっそく優さんとメガちゃんがビニルシートにお菓子や惣菜を並べ、山中での宴会が始まった。





この場にいる、サトシさん以外の全員がハウスの同居人だ。


ママンは50代のオッサンで、ハウスの持ち主。ママンという呼び方は彼が指定してきたものだ。


その名の通り、みんなの母親のように生活の面倒をあれこれみてくれている。


僕の場合は母親とママンが知り合いで、


去年の秋ごろ、いろいろあって死にかけていた僕を、ママンがハウスに連れてきた。



優さんは小柄なのに胸だけが大きいのが自慢という女性。明るく元気、というかうるさい。


車の運転が果てしなく乱暴で、僕はもう二度と優さんの助手席には乗りたくない。



圭さんは170センチと長身。小さな顔に舞台俳優のような派手な目鼻立ちを持つ。


ほとんど化粧もせず、髪はいつも短く、どちらかといえば男性的な雰囲気だ。


優さんも圭さんも自称20代OLだそうだが、本当のところはわからない。



メガちゃんはママンの友人の子供で、事情があってママンに引き取られた。いつも笑顔で、優しい。


僕より少し年下だろうと思う。全身がひどい皮膚炎におおわれ、赤く腫れた肌が痛々しい。


ハウスにひきこもりがちだったが、今は近所であれば買い物にでかけることもできるようだ。



いずれにしても、ハウスの住人は皆、それぞれに事情をかかえているらしい。もちろん僕も含めて。


そして住人の個人的なことについては一切質問するなと、僕はママンから厳しく言われている。




暗闇の中、懐中電灯の光が動く。



優さんがビールをぐいぐい飲みながら立ち上がる。懐中電灯で顔をあおりながら、


「ねえねえ、きいてよ、最近メガちゃんたらさあ」


好きなひとができたらしいよ、と言い出し、うおおお、とみんなの声があがる。


メガちゃんが両手で優さんの口をふさごうと立ち上がって、やめてやめてと叫ぶ。


「す、好きとかじゃなくて、その・・・ちょっといいなって・・・いうか・・・」


必死で言い訳するメガちゃんにかぶせて圭さんが、


それがまたスーパーのレジ係でなかなかのイケメンで、と続け、


サトシさんが、よし、最高の花束と一緒にメガちゃんの気持ちを伝えてやるぜと立ち上がれば、


オマエだけはよけいなことをするなとレイさんが長い脚で蹴り飛ばす。


みんなの笑い声が一斉にはじける。暗闇の宴会はまだまだ続く。



僕はひさしぶりに、声を出して笑った。






ふと気がつくと、僕は車にもたれて眠っていたらしい。背中や腰が異常に痛い。


ゆっくりと身体を起こすと、あたりはすっかり静かになり、ささやかな虫の声が聞こえる。


暗くてよくみえないが、何人かがビニルシートの上で倒れて眠っているようだ。



時計を見る。午前0時。夏とはいえ、山の空気はずいぶんひんやりと冷たくなっていた。




僕が起きたことに気付いたのか、レイさんが振り向いた。隣には圭さんが座っている。



「起きたのか」



「はい・・・みんな、寝ちゃったんですね」



圭さんが笑う。


「みんな騒ぎ疲れたんじゃないの?ビールも無くなったし。みてよ、この顔」



圭さんが懐中電灯で照らした先をみると、ママンが大きな口を全開にしてよだれをたらして眠っている。


まぬけすぎる。よく見ると、レイさんと圭さんのまわりにはジュースやウーロン茶の缶が転がっていた。



レイさんが僕の思考を読んだかのようにニッと笑って言う。


「俺たちは帰りの運転係だ。酒、飲めないからな」



圭さんは、ふっ、とため息をつく。


僕はなんだか申し訳ない気持ちになって思わず、すみません、と謝った。



圭さんは大きな目をいっぱいに見開いて、ちがうちがう、と両手をふる。


「モトのせいじゃないんだ。いや、ちょっと考え事しててさ」



「タケシとシンのことか」


レイさんが静かに言う。圭さんはゆっくりとうなずいた。




一瞬の沈黙のあと、レイさんは僕の目を見る。それは強く、厳しいまなざしで言う。


「聞くか」


なんだろう。僕は返事ができない。僕は、他人のことなど、僕は、



「聞かせろよ」


背中から聞こえた声に驚いて振り向くと、サトシさんが寝転んだまま足を組んでこっちを見ている。


月明かりに光る、銀色のピアス。



「タケシってのは、お前んとこのガキのことだろうが。シンてのは誰だ?」


圭さんの瞳が揺れる。


レイさんは、なんだオマエも起きてたのかとつぶやき、また僕のほうを見て語り出す。



それは二人の少年の物語だった。



タケシ、というのはレイさんが家庭教師をしている子供の名前だそうだ。


「俺が通い始めてもう1年になる。


タケシは14歳で、勉強そのものを楽しむことができる数少ない生徒のひとりだ」



それはすごい。僕は14のころ、勉強なんか苦痛でしかなかった気がする。


レイさんは続ける。



「ポルフィリン症という病気を、聞いたことがあるか」



知らない。僕は黙って左右に首を振る。


それは難病の一種で、太陽の光を浴びると皮膚が火傷のように腫れあがったり、


内臓や関節に異常が出ることもあり、同じ病気でもひとによって症状が様々に現れるらしい。



「詳しいことは俺にもわからない。ただタケシの家は全ての部屋が厚い遮光カーテンで囲われている」


数年前からだんだんと症状が現れ始め、あらゆる検査をして病名がわかったころには、タケシは車椅子なしには生活できなくなっていたそうだ。


レイさんの表情は変わらない。揺らぎのない澄んだ声が山中の暗闇に響く。


「タケシは病気がわかってからも学校に通うことを望んだが、学校側は受け入れを拒否した」


たしかに、彼が学校生活を安全に送れるような体制をとるのは難しいだろう。


でも中学生くらいの子供たちにとっては、学校が彼らの世界のすべてといっても言い過ぎではない。


新しい友達と出会い、知らないことを学び、成長するその場所を、タケシは病気のために奪われた。


僕は胸が締め付けられるうような痛みを感じて、ひざの間に顔を伏せる。



「1年前、日に日に身体の自由を奪われていくタケシが望んだのは、ただひとつだ」



みんなと同じように勉強がしたいのだと。


両親は彼の望みをかなえるため、業者を通して家庭教師を頼んだ。


タケシはレイさんの授業を楽しみにしていて、方程式を解き、英単語を覚え、古文を読む。


地図を見ては知らない土地に思いを馳せ、動植物のしくみを興味深く学ぶ。


文字通り、命を削って。



「タケシは、もう自分にタイムリミットが迫っていることを知っている。少し前、俺に頼みごとをした」


先生、ぼく、友達が欲しいよ。


いっしょに走ったり、サッカーしたりはできないけど。


テレビやゲームの話をしたり、ねえ、そういう友達が欲しいんだ。



レイさんの声がわずかに揺れる。サトシさんがグスグスと鼻をすする音が聞こえる。



それでね。かすれた声。圭さんが顔を上げ、その大きな瞳で僕を見る。



「レイはアタシの子供に白羽の矢を立てたわけよ」



圭さんの、子供。初耳だ。


圭さんはわざと明るい声を出して、僕をからかうように言う。



「ふん、アタシに子供がいるなんて思わなかったろ?ちゃんと嫁にもらってくれるモノ好きがいたんだ」



僕は顔を上げ、圭さんを見る。大きな目は悲しげに伏せられ、つぶやくように続ける。


ちょっと、事情があってさ。



「まあ、今はアタシのことはいいんだ。子供・・・シンの話だ」



シンというのが圭さんの息子だそうだ。今年13歳、中学1年生。


父親のもとで祖父母と一緒に暮らしているらしい。なぜか圭さんは唇を噛む。


そして、一緒に暮らせない事情について、いまは触れないでほしいと言った。


僕は黙ってうなずいた。



「シンも、部屋から出られない。でもタケシとは違うんだ。病気っていうんじゃないからね」



圭さんがその家を出たのは、もう5年も前の話だそうだ。そこにはいくつかの理由があり、


父親側に親権を奪われ、いまはシンと自由に会うこともできないという。


「去年の冬、メールが来たんだ」


それはシンの父親からで、シンの様子がおかしい、学校へ行かなくなった、とあったそうだ。



「もともとあの子は外で転げまわって遊ぶタイプではなかったけど、


それでも友達はたくさんいたし、学校も大好きで楽しそうに通っていたんだ」



だから、そのメールの意味がよくわからなかった。とにかく心配で、圭さんはすぐに父親に電話してシンに会わせてほしいと頼んだそうだ。


ところが、父親の両親が大反対し、会うことも、電話することもかなわなかった。



「シンの父親は、優しいんだけど、なんていうか、両親に頭があがらないひとでね・・・」



圭さんのため息が漏れる。なんだそいつ、情けねえな、とサトシさんが独り言のように言う。


仕方なく、圭さんはシンの父親に頼みこんで、自分の連絡先を入れたケータイを渡してもらった。


義両親にみつからないように、こっそりと。



「ケータイを渡したその日に、シンから電話があったよ。何時間も切ろうとしなくてさ」


圭さんの声が震える。


シンの話はこうだ。


おばあちゃんも、おじいちゃんもお父さんも優しくしてくれる。


でもいつも、身体のどこかに穴があいているみたいで、なんだか、地面に足がうまくつかないような感じがして、


朝おきたら、いつもおなかが痛かったり、頭が痛かったりで、学校を休むようになって、


気がついたら、なんだか自分の部屋から出るのが、すごく怖くなってしまったんだ。


友達も、最初は家に来てくれていたんだけど、いまはもう誰も来なくなって、


寂しいよ。おかあさん、会いたいよ。



圭さんはその電話を切ってすぐ、シンの家に向かった。


それでも義両親は頑として、シンと圭さんを会わせようとはせず、ストーカーだと言って警察に通報までしたそうだ。


なんなんだよ、それ、そいつら頭おかしいじゃねえか。サトシさんが身体を起こす。


レイさんが、黙って聞け、とその足を蹴る。



「まあ、アタシのことが嫌いなんだよ。もう髪の先から足の爪の先までね」



その後、シンと圭さんは毎日何通もメールのやりとりを続け、ときどきは電話でも話をして、


少しずつ、シンは落ち着いてきたそうだ。それでも、学校にはまだ通えていない。



「レイからタケシの話を聞いた時、ちょっと迷ったけどさ、それでも、不謹慎かもしれないけど、


シンが寂しさをまぎらわすことができるかもしれないって、思ったんだ」


言葉を区切りながら、なにかをこらえるように圭さんが言う。大きな目から、涙がこぼれた。


学校行けないのはアタシのせいだ、馬鹿な母親のせいなんだ。シン、ごめん、シン。



レイさんは圭さんの声にかぶせるように、声を張る。



「誰だって、どうしようもないことのひとつやふたつ、ある」



それでだ、とレイさんは続ける。



「俺は圭さんに子供のことを聞いて知っていた。それで、圭さんに頼んだんだ。


シンに、タケシとしばらくメールのやりとりをしてもらえないかってな」



そうして、ふたりの少年の不思議なメールのやりとりが始まった。



最初は、名前や年齢や趣味なんかを型どおりに聞くような、お互いにとてもぎこちないメールだったそうだ。


回数を重ねるごとに、共通の話題がみつかったようでメールを返信するペースが上がっていき、


最近では1日に何十通もやりとりするくらいになっているという。


今日食べたごはんのこと、好きなお菓子のこと、ゲームの進み具合のこと。


ふたりのやりとりは、1か月ほど続いているそうだ。



「ただ、タケシはもうケータイやパソコンのキーボードをスムーズに操作できない」



隣に母親がついて、タケシの言葉をケータイで打ち込む。そして届いた返信を読み上げる。


タケシはそれを聞いて嬉しそうに笑うのだそうだ。



「あいつの身体はもう限界に近付いている。本人が一番それをわかっている」



タイムリミット。さっきのレイさんの言葉がフラッシュバックする。



「それで、俺はタケシから最後のお願いをきいてほしいと頼まれた」



先生、ぼくはもうすぐ動けなくなるよ。


その前に、一回でいいんだ。一回だけ、シンに、会わせて。




「会わせてやりゃいいんじゃね?シンをタケシんとこへ連れてきゃ済む話だろ?」



サトシさんが身体を起こして言う。レイさんがまたその足を蹴る。



「シンは部屋から出れねえって言ったろうが」



サトシさんが蹴り返す。レイさんはとても自然な動きでそれをかわす。



「ガキのひとりぐらい、俺が抱えてタケシんとこまで走ってやる。それで解決じゃねーか」



サトシさんの言葉に、圭さんはため息をつく。



「シンが普通の状態ならそれもいい。でもね、あの子いま、本当にダメなんだって」


シンは、すこしずつ外の世界に出ようという気持ちになっているらしい。


けれども、部屋から出て、玄関に向かうだけでもう立っていられないほど苦しくなるのだそうだ。


父親が医者に連れて行こうとしても、とにかく外に出ることが怖すぎて息もできなくなる。


玄関のドアまでたどりつくことさえできないシン。


そんなシンを無理やり抱えてタケシのところへ連れて行く。


そんなことをタケシが望んでいるとは思えない。



サトシさんがすうっと空を見上げる。初めて見る、なにか痛みをこらえるようなな表情。


そしてぽつりと言う。



「・・・なんか、そういうの、俺わかる。怖いって思うと、もうどんな普通のことも、できなくなるよな」



「サトシ」



レイさんがなぜか大きな声を出して、サトシさんの言葉をさえぎった。


わかっている、と言って、大きく息をつき、サトシさんは鋭い目で圭さんを見据えた。


その顔はもう、いつものネコ科の猛獣を思わせる挑戦的な表情で。



「わかった。タケシにはもう時間がねえんだろ?ようするにシンが自分から家を出りゃいいんだな」


圭さんは、少し戸惑った顔でうなずいた。レイさんは少しだけ唇を歪めて意地悪そうに笑う。



「やってやろうじゃねえか」


サトシさんはその両手を空へ突き上げて、うおおと叫ぶ。


お前も手伝えよ。僕はバンバン背中を叩かれて、やっぱり、わけもわからないままうなずいた。



ゆっくりと、東の空が白くなっていく。



太陽はまだ姿を現さない。ただ暗闇の街に少しずつ光が戻ってくる。


大きな闇とちいさく細い光の攻防戦。


ゆっくりと。でも確実に。夜の闇を押しのけるように、朝がやってきた。



オラ、もう朝なんだよ、起きろ、とサトシさんがママンの背中を思い切り蹴り飛ばす。


ママンがうめきながら起き上がり、すばやくサトシさんの足首をつかんでひきずり倒す。


「なにすんだよ!起こしてやったんじゃねえか!!」


サトシさんが草の上で反撃しようと立ち上がれば、ママンも眠そうな目をこすりながらファイティングポーズをとる。


「もうちょっとほかに起こし方はないのか、この馬鹿花屋!」



ちょっと、うるさいってば、と優さんが起き上り、メガちゃんも目が覚めたのかきょろきょろとあたりを見回している。


レイさんは無言で空き缶を拾い、ゴミを集め、ほんの数秒ですべてをサトシさんの軽トラに放り込んだ。



「帰るぞ」


レイさんの一声で、まだ薄暗い空の下、みんながのろのろと車に向かう。


僕はやっぱり荷物係としてゴミと一緒に軽トラの荷台に積まれた。


さっきのシンの話とタケシの話が頭をぐるぐると回る。


どうせ、僕が考えたって仕方のないことだとは思うんだけど。僕に何が、できるんだろう。


空に残る、輝きをなくした白い月。答えは出ない。


来た時と同じ道をガタゴトと軽トラに揺られながら、僕らは蒸し暑い朝の街へと戻った。




ハウスに戻った圭さんと優さんは、信じられないことに、今日も仕事だ、とばたばたと支度をして


朝食も食べずにハウスを飛び出していった。


疲れたのか、メガちゃんは部屋で静かに眠っているようで、ママンは玄関先でダウン。



サトシさんはずかずかとハウスに上がりこみ、勝手にコーヒーを3人分カップに入れてテーブルにおき、


僕とレイさんにすすめた。



「さあ、作戦会議だ」


オマエは住人じゃないだろうが、とレイさんが笑う。サトシさんは気にするふうもなく冷蔵庫を開け、


なんだよ卵もねえのかよ、と舌打ちをした。


「まあいいや。とりあえず、タケシのほうはレイにまかせた。


オレはモトと一緒にシンをなんとか家から引っぱり出す。それでいいな?」



レイさんは、好きにしろとつぶやいてコーヒーに口をつける。


僕はなにをさせられるのだろう。レイさんは表情を変えずに静かな声で言う。



「タケシの症状はハイスピードで悪化している。間に合えばいいけどな」



僕は思う。


シンが仮にタケシに会えたところで、それがなんだというのだろう。


タケシはもうすぐ、この世からいなくなる。どうせいなくなるのなら。永遠に失うつらさを味わうくらいなら。


いっそ、なにも知らないままで、会わないままで過ごしたほうがどれだけいいだろう。


あのとき。


大切なものを失ったとき、僕は身体を半分ひきさかれるような苦しみに耐えられず、死を選ぼうとした。


そんな思いをさせるために、シンを家から引っぱり出すなんて、僕にはできそうもない。



レイさんは僕をちらりと見る。そしてふっ、と息をつく。僕のこころは透けて見えるのだろうか。



「無理をする必要はない。ただ、シンはいずれこちらの世界に出てこなくちゃいけないんだ」


タケシの件がなくてもな。


サトシさんがパンパンとテーブルを叩く。コーヒーカップが揺れる。


「オマエ、春に穴掘りやっただろうがよ。似たようなもんだ。さ、これ飲んだら着替えろ。行くぞ」



泥だらけで行ったら、追い返されるぜ、とサトシさんはゲラゲラ笑う。


泥だらけなのはお互い様だ。行くってどこへ?穴掘りとにたようなものってどういう・・・


レイさんは立ち上がり、俺はちょっと寝たらバイト行くから、と2階の部屋へ上がって行った。


階段前で振り返って、サトシさんに言う。



「手加減してやれよ」


こいつ壊れやすいから。サトシさんはそれを聞いて立ち上がり、ふざけた敬礼のようなポーズをとる。


「了解。オレはいい仕事をする男なんだ」


そして僕の顎を強くつかんで上を向かせる。そして。


薄い唇から凶暴な牙にも見える八重歯をのぞかせて、僕に顔を近づける。獰猛な目。僕は動けない。


吐息がかかりそうなほどの距離。低く甘い声で僕の耳元にささやく。


「オマエはもう、オレから離れられなくなる」



僕が思わず呼吸を止めたその瞬間、レイさんが階段下で口を押さえて、ぷっと吹き出した。


サトシさんにいたってはもう台所の床を転げまわってギャハギャハと爆笑している。


このふたりはこういうネタが好きなのだろうか。


僕はひとり、ため息をついて冷めかけたコーヒーを口に運んだ。全然おいしくない。



その日の昼。結局、僕らはまだハウスにいる。


サトシさんは圭さんに昼休みをねらって連絡し、シンの家の住所をきいた。


そして何事か圭さんと相談しているようだ。



「わかった・・・ああ、そうだな、家庭教師とか何とか、言っといてもらってくれよ」


電話を切った後、サトシさんは言った。


「モト、ちょっといい服ないか?こうスーツみたいなやつ」


まあ、リクルートスーツみたいなやつなら持っているけど、と僕が言うと、


「それでいい。2時間後にそれ着て、駅前まで来い。ひげも剃ってこいよ」


オレもいったん帰って準備してくるから、というとさっさと軽トラに乗って帰って行った。


嵐のような花屋。




僕はシャワーを浴びて汗を流し、ひげを剃り、髪を整えてスーツを着た。


まるで就職活動。そういえば僕は卒業後の進路をまるで考えていない。


ママンとの約束では再来年の春までにすべての単位を取って卒業することになっている。


時間は無情に過ぎていく。たとえ僕のこころがどんな状態でも、


だいたい将来のことどころじゃなくて、目の前のことで常にいっぱいいっぱいだ。


そのはずなのに、僕はまた余計なことに首をつっこんでいる。


ぐるぐると考え事をしている間に、駅前に着いた。


平日の昼間。灼熱の太陽のもと、僕はだらだらと汗を流しながら日陰に隠れた。


サラリーマンに赤ちゃんを抱いた主婦。信号待ちの車の列。人通りの多い交差点。


信号が赤に変わる直前、見慣れない男性が僕の目の前に走ってきた。


光沢のある黒いスーツにネクタイ。銀縁の眼鏡、額にかかる黒い髪。手には白い紙袋。


彼は精悍に笑っていう。



「さあ、行こう」



どちらさまですか、と言いかけて、僕は間抜けに口を開ける。


耳に残る、いくつものピアスの穴。・・・まさか、サトシさん・・・?



「ちょ、ちょっと、なんですか。なんのコスプレですか」


動揺のあまり言葉が選べない。サトシさんは歩きながら気分を害したように言う。



「失敬だな、君は」



なんつってなー。ヘラヘラと笑う表情は間違いなくいつものサトシさんだ。


家庭教師が金髪にどろどろのツナギじゃまずいだろ?


ちゃちゃっとスプレーで黒くして、眼鏡とスーツでマジメ学生のできあがりー、だ。


マジメ学生と言うよりは、限りなくホストに近いような気もするが、黙っておいた。


サトシさんは電車の中でもいつも通りよくしゃべり、夏はすぐに花がダメになるから、


生花はあんまり売れないなあとか、レイは夏休み稼ぎ時でウハウハだろうから、


今度はぜったいあいつにおごらせようとか、くだらないことを話している間に目的の駅についた。




駅から5分ほど歩いたところに、シンの家はあった。


2階建ての、ごく普通の民家。玄関脇に1台車をとめるスペースがあるほかは、庭もない。



ピンポン。



サトシさんはごく普通に、門のチャイムを鳴らした。


玄関のドアが開く。60代くらいだろうか。灰色の部屋着を着た、疲れた顔の女性が出てきた。


シンの祖母だろうか。あきらかに不審そうに僕らを見る。



「シンくんのお父様からご連絡いただきました、家庭教師のウエムラと申します」


お父様からお聞きになっていらっしゃいますか。


ああ、と女性はうなずいて、よろしくお願いします、と僕らを玄関の奥へ促した。



僕は何よりも、サトシさんの礼儀正しさに驚いた。このひと、こんなことできるんだ。


サトシさんは紙袋から小さな花束を出して、女性に渡した。


「僕の実家は花屋を経営しています。ごあいさつ代わりといってはなんですが、


花はお嫌いではないですか?」


花束を渡されて、女性の表情がびっくりするぐらいに和らいだ。


まあ、きれい。さっそく部屋に飾ります。頬を染める様子は、まるで恋する乙女のようだ。


なんなんだ。こういう小技をどこで覚えてくるんだ。


僕はなぜか腹が立ってきた。


それはたぶん、同じことを自分がやったところで、蹴り出されるのがオチだとわかっているからだろう。


本当に神様は不公平だ。



僕らは2階のシンの部屋の前に案内され、女性は階下へおりて行った。



コンコン。サトシさんがドアをノックする。


ゆっくりとドアが開き、少年が顔をのぞかせる。シンだ。


思っていたよりもずっと小さい。140センチくらいだろうか。手足も細く、青白い顔。元気がない。


サトシさんはシンの耳元で、小さな声で、おかあさんからきいているか、と言った。


シンはうんうんとうなずいて、僕らを部屋に招き入れた。



4畳半ほどスペースには本棚と学習机、床には乱雑に洋服やゲームソフトなんかが散らばっている。


エアコンの涼しい風。学習机の正面には大きめの窓があり、部屋は明るい。


ぎらぎら輝くと太陽に照らされた隣の屋根と、細い道を走る郵便配達のバイク。


ちかくに公園でもあるのか、子供たちがきゃあきゃあと騒ぐかん高い声が聞こえてきた。



シンはうつむいたままだ。僕たちのことが怖いのか、ドアの前で小さく震えながら固まっている。


毛玉のついた、黒いスウエットの上下。柔らかそうな髪には寝癖がついたまま。


サトシさんは着なれないスーツが苦しくなったのか、顔をしかめてジャケットを脱ぎ、ネクタイをゆるめる。


シンの前にしゃがみこみ、彼の両肩をつかんで言う。



「なあ、おまえ、なんで学校行かないんだよ」



いきなり核心をつく。シンは小さな声で、こわいから、と言った。



「なにが怖いんだよ。こんな立派な家で大事にしてもらって、これ以上なんの不満があるんだよ」



サトシさんは震える子供相手に、これ以上ない冷たい声を投げつける。


シンはまた、とても小さな声で、おかあさん、いない、と言った。


サトシさんは、フン、と鼻で笑い、



「圭さんがいたって、いなくたって、そんなこたあ関係ねえんだよ。


オレはお前みたいにだれかのせいにして自分の足で歩こうとしないやつが」


いっちばんキライなんだよ、吐き捨てた。シンの顔がだんだんと赤く染まっていく。


信じられない。自己紹介の前に子供を追い詰めてどうするんだ。


僕はいたたまれなくなって、シンとサトシさんの間に割って入る。



「ちょっと、いきなりそれじゃあ、あんまりシンくんがかわいそうじゃないですか・・・」



僕が言い終わる前に、サトシさんは立ちあがってネクタイを締め直す。


そして、オレはババアに用があるから、ガキはお前が面倒見てろ、と階段へ向かっていった。



こんな空気の中、シンとふたりで部屋に取り残されても、困る。


僕はシンの顔を見る。シンも僕の顔を見る。


圭さんにそっくりな長い睫毛と大きな瞳に涙をにじませている。


ただ、その目には、明らかに怯えではなく怒りの色が見えた。



「・・・どうしてぼくが怒られなくちゃいけないんだよ。どうしてあんなこと、言われなきゃいけないんだよ」


女の子のような高い声でシンが言う。その通りだ。そして言ったのは僕じゃない。サトシさんだ。


シンの怒りはまっすぐに僕に向けられる。


「あの、僕たちはそういうことが言いたくてきたわけじゃなくて」


「なんだよ、なんにもわかってないくせに!!」


ああ、たしかに僕は誰のこともなんにもわかってない。この春、ぜんぜん別の件で同じ言葉を言われた記憶がよみがえる。


僕はため息をついて、シンの前に正座する。そうして、深々と頭を下げた。



「君を怒らせに来たわけじゃない。タケシのことで、ちょっと聞いてほしいことがあるんだ」


不登校13歳の少年に土下座する、インチキ家庭教師。シュールな光景。


案の定、タケシ、という言葉に反応した。シンは言葉を止めて、驚いたように真ん丸な目で僕を見る。



「タケシのこと、知ってるの?」


さっきまでの怒りの表情は消え、シンは僕の腕を揺さぶって、早口で言う。


おかあさんから言われてメールを交換しはじめたけど、すっごく楽しくて、


でも一昨日あたりから返事があんまり来なくなっていて、嫌われたのかなって、気になってたんだ。


ねえ、タケシは何か言ってた?僕のこと、何か言ってた?



「タケシは君に会いたがっているよ」


一瞬、シンはフリーズしたように動きを止める。


「・・・会う?ぼくに?」


表情がみるみる曇っていく。眉の間に深いしわが刻まれる。


ちょっと意外な反応。僕はてっきりシンもタケシに会いたがっていると思っていた。


会いたくないのかときくと、シンは複雑な表情を浮かべる。そして、会いたいよ、でもね、と続けた。


「メールのなかでの僕は、・・・僕じゃないもん」


ぼくは嘘つきだ、と唇を噛む。その表情も圭さんによく似ている。


ほんの少し間をおいて、シンは顔を上げ、話し始めた。


「メールの中で、ぼくは学校が大好きだって、ともだちもたくさんいるって書いたんだ」


野球やサッカーが大好きで、お母さんに似て身長もぐんぐん伸びていて、みんなにうらやましがられる。


体育の授業が一番好き。将来はスポーツ選手になりたい。勉強はきらいだけど、学校は大好き。


毎日、家にはたくさん友達が遊びの誘いに来てうるさいくらい。


全部、嘘。



「こんな、チビでひょろひょろで、こわくて外にも出られない、そんなほんとのこと、言えなかったんだ・・・」



会いたくても、絶対会えないよ・・・。黒いスウエットのそでにシンの涙が染みをつくる。


胸が痛い。


僕はありったけの言葉をつかって、シンは悪くないと伝えようとした。


自分を良く見せようとするのは、ぜんぜん悪いことじゃない。大人だって嘘くらいしょっちゅうつく。


それにタケシはそんなことたぶん気にしない。そういう問題じゃないんだ。


でも僕の言葉はかんじんなときに、うまく出てこない。


しどろもどろになって、ただ泣いているシンの頭をなでることくらいしかできずにいたとき、



部屋のドアが開いた。



「えっ・・・」


今度は僕がフリーズする番だった。


濃紺のスーツに嫌味なくらい長い足。いつもの冷やかなまなざしで、レイさんが部屋に入ってきた。


「事情が変わった。・・・お前がシンか」


レイさんは僕のほうを見た後、泣いているシンの顔をのぞきこんで言った。無言でうなずくシン。


僕は一歩下がって場所をあける。レイさんはしなやかにシンの正面にしゃがみこむ。



「タケシが会いたがっているというのは、もう聞いたか」


「うん、でもぼくは・・・」


レイさんは、わかっている、とシンの言葉を途中で制した。


「俺はタケシからメールを見せてもらっていた。お前が何を書いていたかは知っている」


シンは呼吸をとめて、レイさんを凝視する。レイさんは少し表情を緩めて言う。


「でもタケシも嘘をついていた。お互い様だ」


「え・・・どういうこと・・・?」


シンが涙にぬれたままの目で首をかしげる。


レイさんは僕に、タケシの病気の件は話したか、ときいた。僕は、伝えていない、と首をふる。



「タケシは重い病気を抱えていた。まずタカシはお前にそれを隠していた」


シンが目を大きく見開く。


「病気・・・?」


「タケシの身体はもう、ほとんど自由には動かなくなっていたんだ。だから」


シンとゲームの話をするために、母親にかわりにゲームを操作して画面をタケシに見せる。


それを見ながらタケシが言った言葉を母親がメールに打ち込んでいた。


食べ物の話もお菓子の話も、元気だったころの記憶をもとにした内容だ。


「お前は何のために嘘を書いた?」


レイさんが柔らかな声でシンに尋ねる。・・・なんのため・・・シンが少し考える。


レイさんがゆっくりと続ける。


「タケシはお前と友達になりたかった。病気の自分じゃない、元気だったころの自分としてな」


お前と、同じだ。


「お前が書いたことは、学校に通えていたころのお前の姿だろう。圭さんから聞いた。


そして、シン、お前がなりたい姿なんじゃないのか」



また、シンの大きな目から涙が流れた。


レイさんが優しくシンの背中を撫でる。


「それでもお前たちが感じた楽しさは嘘じゃない。この1カ月タケシのことを友達だと思った気持ちも」


嘘じゃないだろう。レイさんの言葉にタケシはしゃくりあげながら何度もうなずいた。


「タケシも同じだ。シン、お前はタケシにとって、お前が思う以上に大切な存在だった」


神様なんかよりも、もっとな。



シンは涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を上げる。


ねえ、タケシはぼくに会いたがっているの?こんなぼくに?かすれる声でシンが言う。


「お前はどうだ。シン。タケシに会いたいと思うのか」


シンは答えない。レイさんはふと時計を見た。時計の針は17時をすぎたところ。


そして僕に小さな紙を渡して言った。シンが望むならその場所に連れてこい。無理はさせるな。


レイさんは立ち上がり、シンに一瞬哀しげな視線を投げた後、部屋を出て行った。



僕はうつむいたままのシンの正面に座りなおし、シンの言葉を待った。


そういえば階下は静かなままだ。サトシさんはどうなったんだろう。


レイさんはどうしてここに来たんだろう。考えてもわかるはずもない。


渡された紙を開いて、そこにある文字を見ようとした時、シンが口を開いた。



「ぼくは、逃げてばかりだ・・・」


顔を上げたその目には、これまでにない強い光が宿っていた。


「家の外に出て、学校の子にみつかったら何ていわれるだろうとか、嫌われることがこわいとか、


そんなことばかり考えて・・・おかあさんにだって、会いたかったらぼくが家を出ればよかったんだ」


シンの中でなにかが動いた。そんな気がした。シンは立ち上がる。


「ぼくはタケシの友達だ」


いっぱい嘘は書いたけど、それだけは絶対嘘じゃないんだ、嘘にしちゃいけないんだ。


シンは少しだけ待ってほしいと言うと、すばやくスウエットを脱いで床に散らばった服の中からジーンズとTシャツを引っぱり出して身に付けた。


「怖いよ、ぼくはいま死ぬほど怖い。ほらみて、外へ出ようって着替えただけでこんなに足が震えてる」


シンの足はたしかに小刻みに震えていた。顔色もさらに白くなったように見える。


無理はしなくていいよ、と言ったけど、そんなことはもうシンの耳には届いていない。


少年らしい、まっすぐな目で僕を見る。


「ねえ、連れて行って。ぼくをタケシのところへ」


何がシンの気持ちをこんなに動かしたのか、僕は不思議で仕方がなかった。


とりあえず、いまの僕の役目はタケシのところへシンを連れていくことなのだろう。



僕は立ち上がり、レイさんからもらったメモを見た。


そして、ひとつ呼吸をおいたあと、シンを連れて僕は向かった。


タケシの、もとへ。




指定された場所は、シンの家の最寄駅から3駅ほどむこうの小さな町にある公民館だった。


家から出るとき、シンは震える足で階段を下り、慣れない手つきでスニーカーを履き、


真っ赤な顔でドアノブに手をかけた。僕は後ろで祈るような気持ちでそれを見ていた。


そして、ほんの数秒後。ドアは開く。あっけないほど、簡単に。



シンは僕のスーツの袖をつかんだまま、ただ夕日に照らされるアスファルトだけを見つめながら歩いた。


タケシに会うんだ、タケシに。何度も、そうつぶやきながら。



18時半。僕らはようやく公民館にたどり着いた。


古ぼけた建物。きいきいと鳴るドアを押して、僕らはその中へ入った。


入口には茶色いスリッパがいくつか並べられ、線香のにおいが鼻を突く。



僕はもう、わかっていた。



目に入るのはいくつかの白い花輪。


白いリノリウムの床の上を、長机や椅子を持ってあわただしく駆ける黒い服の大人たち。



「来たのか」



僕らの正面には、目と鼻を赤くしたサトシさんがいた。


隣には腕組みしたレイさんもいる。薄茶色の髪に隠れて、その表情は見えない。


ふたりとも、スーツのところどころに何か黄色いものがついている。



「シン、ありがとう」



レイさんがゆっくりとシンに頭を下げた。サトシさんもそれにならう。


シンは、ただならぬ雰囲気に呆然としている。


タケシ・・・は?シンがぽつりと言う。



「こっちだ」


レイさんはシンの手を引いて、公民館の廊下を奥へと進んだ。




広い部屋の中、入口から見て正面の壁。


一面が、黄色に埋め尽くされていた。色の濃淡はあるけれど、そこは全て黄色の世界。


黄色の正体は大小さまざまのひまわりだ。床にまで花弁が散っている。


そして、黄色い世界の真ん中に、にっこりと笑う少年の大きな写真があった。


運動会だろうか。赤い帽子をかぶり、白い歯を見せて満面の笑顔でピースサイン。



あれが、タケシ。



写真の下には、白い布がかけられたちいさな棺。


僕は、のどに何か小さなしこりができたみたいに、息が詰まった。


シンは動かない。ただじっと写真を見つめる。



棺の前にいた小柄な女性が、僕たちのもとへ駆け寄ってくる。タケシの母親だ、とレイさんが言う。


「無理をお願いして、申し訳ありませんでした」


素敵なお花で飾っていただいて、本当にありがとうございます、とレイさんとサトシさんに頭を下げた。


タケシの母親が、あの子はひまわりが大好きだったから、と白いハンカチで目頭を押さえる。



サトシさんは、オレにはあんなことくらいしかできねえから、とうつむいた。


母親はふとシンを見た。それはとても優しいまなざしで。


「彼は、もしかして」


シンくん?メールをくれていた、シンくんなの?


シンは唇を引き結んで、しっかりとうなずいた。そして力強い声で言った。



「タケシに、会いに来ました」



母親はシンを抱きしめて、ありがとう、ありがとうと何度も繰り返した。


「先生から・・・レイ君から、事情は聞いているわ。タケシのために、頑張ってきてくれたのね」


シンはまっすぐにタケシの写真を見つめて言う。あの、少女のように高い声で。



「だって、ぼくはタケシの、友達だから」



母親に促されて、シンはしっかりと落ち着いた足取りで棺の前まで歩いていった。


僕たちも後ろからそれについて歩く。


サトシさんはぼろぼろと涙をこぼす。僕はこみあげてくるものを必死で堪えた。レイさんはただ唇を噛む。



シンは泣くことも、取り乱すこともなく、そっと棺に手をおいて語りかけた。



ぼくはタケシと知り合えて、とっても楽しかった。タケシも楽しかった?


タケシはぼくのことを神様よりも大切だと思ってくれたんだって、きいたよ。


こんな弱虫のぼくをそんなふうに思ってくれて、うれしいけど、いまはすごく恥ずかしい。


ねえ、ぼくは今から頑張って、タケシに恥ずかしくない自分になるよ。


メールに書いたこと、嘘じゃないっていえるような自分になるよ。


だって、僕たちが友達だっていうのは、絶対、嘘じゃないから。



待っていてくれる?ねえ、タケシ。



もう限界だった。母親も、僕らも、その部屋にいた業者の人も、全員がシンの言葉に、泣いた。


シンは棺から手を離し、タケシの写真の前にむかってぽつりと、間に合わなくて、ごめんね、と言った。



「シン!!」


背後から声が飛ぶ。振り返ると圭さんがいた。レイさんが、俺が呼んだんだ、という。


シンの瞳にみるみる涙が盛り上がっていく。


シンは棺に背を向けて、圭さんに走り寄り、その腕の中で声をあげて泣き始めた。


おかあさん、おかあさん。


ぼく怖かったよ。でも頑張ったよ。タケシの友達だから。絶対友達だから。



圭さんは、よく出てきたね、よく頑張ったね、と何度もシンに頬ずりをした。



「シンくんの、お母さんですか?」


タケシの母親が圭さんに尋ねた。圭さんは、はい、と答え、このたびは、と深く頭を下げた。


タケシの母親は号泣するシンの肩に手をおいて、


「とっても素敵なお子さんですね。こんなに素晴らしい子にめぐりあえて、タケシは幸せでした」


素敵なお子さんを育ててくださって、ありがとうございます、と言った。



「タケシは外に出ることができなくなってからも、ひまわりが大好きでね」


タケシの母親は続ける。



太陽のほうをむいて、まっすぐに立つひまわりの姿に、自分の願望を重ねていたのかもしれません。


私と夫はたくさんのひまわりの映像を探してきて、タケシに見せました。


あの子、それを何度も繰り返してみては、本当にうれしそうに笑うんです。


ぼくも病気が治ったら、ひまわりみたいにひとを元気にさせるような、そんなひとになりたいな、って。


シンくんは、タケシのこころのなかで、最期まで、大きなひまわりだったんだと思います。



圭さんは、シンを抱きしめたまま、ありがとうございます、と涙声で返した。



ああ、もう、情けないことに僕はこのあとも、声も出ないほど涙が止まらなくて困った。



サトシさんは鼻をぐずぐずといわせながら、シンの頭をこづいた。


「どちみち、オマエだってあと80年もすりゃあ、むこうへ行けるんだ。それまでに」


タケシにいばれるようなイイ男になっておけよ。



シンは圭さんの腕の中から顔を出して、わかってるよ、と手のひらで涙をぬぐった。




翌日の葬儀も、シンは参列した。もちろん僕たちも。


その日、タケシを見送る最後の最後まで、シンは涙を見せなかった。


ひとはある瞬間に、驚くほどの勢いで目の前の障害を乗り越えることがある。


シンは僕なんかよりもずっと、強かった。



結局、シンは夏休み中から学校に補習を兼ねて通うようになり、今度は本物の家庭教師がついた。


いままでのぶんを取り返すように勉強に励んでいるという。


ハウスにも夏休みの間に何度か遊びに来て、ママンやメガちゃんと花壇でひまわりの世話をしている。


9月からは、もう逃げないで頑張るよ、と白い歯を見せて笑うその顔は、少し日焼けして健康そのもの。


シンのこの成長ぶりを、タケシはどこかで見ているのだろうか。



サトシさんは相変わらずハウスによく遊びに来る。


8月も半ば。今日は晩御飯目当てなのか、夕方にやってきた。


よほど外が暑かったのか、迷彩柄のハーフパンツにTシャツの袖を肩までまくりあげ、


僕の部屋でエアコンの風が一番あたる場所に陣取って、あついあついと繰り返す。


僕は今回の件で疑問に思っていたことをいくつか聞いてみた。



「サトシさん、結局あのシンの家に行ったとき、何をしていたんですか?急に部屋を出て行くからびっくりしましたよ」


ああ、あれかー。


なんでもないことのように、サトシさんはエアコンをみたまま答える。


「予定では、オマエに何日かかけてガキを説得してもらって、その間にオレがババアをたらしこんで」



たらしこむって何だよ、とレイさんも部屋に入ってきた。


仕事が休みなのか、ぼろぼろのジーンズに白いTシャツ。珍しく髪には寝癖がついたまま。


「まあ、圭さんが自由にあの家に出入りできるようにしてもらおうかと思ってたんだけどな」


ため息交じりにレイさんが言う。


「結局、タケシは思ったよりもずっとはやく逝ってしまった」


あの日、レイさんがタケシの家に家庭教師の時間に行ったとき、すでにタケシは亡くなっていたそうだ。


せめて最後を好きな花で飾ってやりたいという両親の希望で、サトシさんに連絡して、あの祭壇をつくりあげたらしい。


サトシさんがあとを続ける。


「圭さんとこの、あのババアのイカレ具合は半端じゃない。嫁姑とかそういうこと以前の問題だな」


なんだろなー。人格障害っつーのかなー。あれは病気だろうなあ。


「人格障害?」


サトシさんは、またエアコンを見上げて、うーん、と言った後、まあいいや、と話をやめた。


そこへバタバタと階段を駆け上がってくる音がした。


「ちょーっと!!あんたたちヒマなら降りてきなさいよ!!!」


ピンクのキャミソールにミニスカート。かなり煽情的なファッションで優さんが乱暴にドアを開けた。


そしてなぜか得意げに僕らを見下ろして笑う。


「あんたたちねえ、いま降りてこなかったら一生後悔するわよ?すっごくかわいいんだからねっ!」


いいから降りてきなさいよ、と僕ら3人は半ば無理やりに部屋から追い出された。



1階にでは、圭さんとママン、それにシンまでが集まって、わあ、とか、おおお、とか声をあげている。


キッチンの手前の廊下。そこにはメガちゃんがいた。


薄紫の可愛らしい浴衣に身を包み、髪も美しく結いあげられている。


しゃらしゃらと鳴る花の髪飾りもついて、まるで日本人形だ。



「なんだか、恥ずかしいな・・・」


そう言って頬を染めるメガちゃんは、肌の炎症はいつもとかわらないはずなのに、


ドキドキするくらい愛らしかった。



浴衣は圭さんのおふるで、髪はわたしがやってあげたのよっ、と優さんがまた得意げに言う。



圭さんが、例の彼を今夜の花火大会に誘ったらしいよ、とニヤニヤ笑う。


誘ってみたらって言ったのはわたしなんだから、と優さん。


なんなんだ、いつのまにそんなことになってたんだ。


サトシさんが、それならはやく言ってくれればオレが最高の花束でデートを彩ったのに、


と悔しがり、メガちゃんは、別にデートとかじゃないです、と顔を真っ赤にして首を振る。



「サトシ、ちょっとアンタ、からかったりして髪が崩れたらどうするのよ」


圭さんが怒り、帰りは遅くならないようにね、とママンが心配そうに言う。


サトシさんがまた、そうそう初めてのデートで最後までやっちまうとあとがつまんねえからな、


と言い、レイさんが無言で蹴りを入れたとき、



玄関のチャイムが鳴らされた。



「キターーーーーーーー!!!」



なぜかハウスの住人総出で玄関ドアを開けると、ジーンズに白いポロシャツの、


とても爽やかな印象の青年が立っていた。どちらかというと優等生タイプ。


彼はとてもはきはきと僕らに挨拶し、メガちゃんの浴衣をほめ、


とてもスムーズにメガちゃんをエスコートして花火大会へ出かけて行った。



みんなで、ふたりを見送った後、サトシさんが、あれはオンナに慣れてるな、とつぶやく。


レイさんも、間違いないな、と言う。静まり返る住人たち。


「ちょ、ちょっと、ふたりとも不安になるようなこと言わないでよ」


優さんがあわてだす。サトシさんがポケットから軽トラのカギを出して、レイさんに言う。


「行くぞ」


レイさんは不敵に笑い、お前も来い、と僕の背中を押す。まさか、デートの監視?


あんたたちだけにまかせられないわよ、と優さんがワーゲンのキーを取り出すと、


圭さんにママン、シンまでがつぎつぎに優さんのあとに続いてワーゲンに乗り込む。


僕はまた、軽トラの荷台。


「メガちゃんはチャラ男なんかに渡さねえからなあああああ!!!」


ママンが窓を開けて叫ぶ。みんながそれに、おおおお、と答える。


なんだ、この集団。



僕はいつだってみんなに流されてばっかりだ。


いつか僕も、自分の中の壁を壊すことができるのだろうか。みえない、透明の壁を。


騒がしい住人達の声を聞きながら、ガタガタと揺れる荷台の上、


ぼくは夕闇の迫る空を見上げて、ちいさくため息をついた。


(おわり)


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