静かなる門出
風がそよそよと吹き、髪を靡かせる。
眩しい程の太陽の光にエリザは目を細めた
ここ、アルバラント王国郊外は、自然と文明が混ざり合い、どこか落ち着いた雰囲気が漂っている。
前の屋敷から異動を命じられた私とセリアは、広大な緑を一心に感じながら土の道を歩いている。
今から向かう屋敷はただの屋敷ではない…
ふと、隣にいる同僚、セリアの髪が視界の端で揺れた。光を受けたアッシュグレーの髪が、どこか冷たい印象を帯びて見える。
いつものように、感情の底が読めない。
風に煽られて、自分の髪が頬にかかる。少し伸びた、切りっぱなしのボブ。整え直すほどの気力もなくて、最近はそのままだ。
目元に触れた前髪の隙間から、セリアの横顔をそっと覗く。
「エリザ、もうすぐ見えてくる頃だな」
少し荒っぽい口調のセリアが、ぼそっと呟いた。
その言葉に、安心と不安が入り混じる。
もし、次の屋敷でも追い出されたら居場所がなくなる。
職もなく、家もなく、頼れる人もいない。
前の屋敷でもらったわずかな給料で、なんとか生活するしかない…
不安が胸を締め付ける
これから向かう屋敷の主人はロードリック・エルダーストーン。
優しく温厚な人格者として知られている
この広大な土地を管理する実力と信頼を持つ彼の屋敷で、私たちは働くことになる。
そんな場所に自分たちが関われるとは、まだ信じられない
「あ……」
緑の中に突然現れた巨大な建物に、思わず声が漏れる。
高級感あふれる石造りの屋敷。
しかし苔やツタ、水の跡が屋敷の歴史の重みを感じる。
少し怖気付きそうになりながらも足を進める。
「なんだか幽霊が出そうだな」
幽霊が苦手なセリアは肩を震わせる
「実態があれば、なんとかなるんだけどな」
続けて、少しぼやくように呟いた。
その言葉に先程の重さが軽くなったように感じる。
セリアは運動神経が良い分、人一倍非現実的な者が苦手だ
怖がりながらも仕事をこなす彼女の姿を想像し、自然と笑みがこぼれる。
先程までの強張った顔とは違う顔になれた気がする…
「なんで笑うんだよ。怖いだろ?ほら、特にあの時計塔とか」
震える指が、屋敷の中心に立つ大きな鐘が取り付けられた時計塔を指し示す。
セリアはやはり、いつもの威厳が感じられない
屋敷を囲む石塀とその中央の時計塔。
その風景は、今までとは違う生活が始まる事を告げているように感じた。
屋敷の前まで来ると、重厚な扉と、その前に立つ銀髪のメイドが私たちを待ち構えていた。
凛とした佇まいで、彼女の周りだけ空気が違って感じられる。
こちらに気づいたのか、彼女は静かに微笑み
「お待ちしておりました。セリアさんとエリザさんですね」
名前を呼ばれて、思わずドキッとする。
「わたくし、メイド長のマルグレットと申します。屋敷へご案内いたします」
淡々とした口調で自己紹介を済ませると、門番に小さく声をかけ、門がギギギ…っと音を立てながらも静かに開かれていく。
「メイド長が、わざわざ……ありがとうございます」
わざわざメイド長直々と出迎えてくれたという事実が抜けていて、
エリザは慌てて感謝を述べると、マルグレットさんは微笑みを崩さずに言った。
「この屋敷では、メイド長直々にお迎えに上がるのが決まりなのです」
その言葉に、言葉が詰まる。前の屋敷では、そんな扱いを受けたことは一度もなかった。
人間以下のような扱いをされてきた日々が、今では遠いものに思える程にその言葉はエリザの胸に染み渡った
この国では、“当たり前”の前の屋敷での生活
今までの常識が、一気に崩れ落ちるような感覚と共に、エリザ達は新たな屋敷に招かれた。
門を潜るとそれまで黙っていたセリアがふいに口を開く。
「なあ、メイド長さん。もしかして、目が見えてないのか?」
聞かないようにしていたことを、真正面からぶつけたセリアの言葉に、内心ヒヤヒヤする。それでも、彼女の答えを待った。
何処か作り物めいた瞳が私達をまっすぐ見つめているような気がして、背筋を伸ばす
マルグレットは少し考える素振りを見せ、静かに答える。
「その通りでございます。ですが、仕事に支障はございません」
「それに、目が見えなくなると他の感覚が研ぎ澄まされると、よく言われます。物の配置、人の感情――それらは、むしろよくわかるのです」
怒られるかと身構えていたのに返ってきたのは、思いのほか優しい声色と、予想外の答え
聞いた当の本人は、あまり気にした様子もなく、興味なさげにその言葉を聞いていた。
屋敷へと続く石畳の道をを歩き始める。
一歩一歩、歩く。
それはとても長く、広大で、スケールの大きさには圧倒される。
並木道には、ちょうど花の開花時期だったのか、色とりどりの花が咲き誇っている。
中央には大きな噴水があり、小鳥たちが水浴びをしたり、水を飲みにやってきていた。
穏やかな時間がそこにはあるのを感じた。
外から見たときと、全然印象が全く違う……まるで、箱庭みたいな屋敷
溢れる陽の光が、3人の髪をやさしく照らす。
屋敷の外から見た怖さが少し和らいで感じた。
それは、どこか穏やかで、あたたかい時間だった。
屋敷に着くと、すでに他のメイドたちや執事が玄関前で待っていた。
玄関ホールは二階まで吹き抜けになった大きな広間で、天井には、そのスケールにふさわしい巨大なシャンデリアが吊り下がっている。
玄関から中央階段へと続く赤い絨毯の上には、メイドや執事たちが整然と並び、私たちを出迎えた。
彼らの態度から、「歓迎されている」というのが痛いほど伝わってくる。
怖いほどの善意がエリザの身体を包みこむ
それがかえって居心地悪くて、そっと周囲に視線を向ける
壁には多くの肖像画や、古びた甲冑が飾られている。
とくに目を引いたのは、古い傷跡の残る甲冑――あれはきっと、あの戦争で実際に使われたものだろう
10年前、この国を勝利に導いた五大貴族の一門にあるのは当然の事だ。
傷だらけでありながら、丁寧に手入れされている様子から、ただの飾りではなく「向き合っている証」であることが痛いほど伝わってきて、また視線を逸らした
あたりを眺めていると、メイド長が「お部屋をご案内します」と言って手招きをしていた。
その柔らかな微笑みに、また少しだけ胸がざわつく。
優しさが少し怖いそう思ってしまった。
いつから優しさが怖くなってしまったのか、もう思い出せない
使用人の部屋は、基本的に効率重視で、狭い空間を数人で使うのが常だった。
だけど、この屋敷は違った。
ここでは、一人ひとりに小さな個室が与えられている。
自分だけの部屋があるなんて……いつぶりだろうか
ベッドに横たわり、ぼんやりと天井を見上げた
窓から射し込む柔らかすぎる程の陽の光が、とても心地よい。
窓の近くには、古びてはいるが十分使える机と、木の質感が優しいチェスト。
そして今、身を預けているベッドも、きっと長く使われてきたものなのだろうけど、太陽のぬくもりをしっかりと受け止めていたのだろう
太陽のいい匂いがエリザの体を包み込む。
シンプルな部屋。けれど、どこか“ぬくもり”を感じた
そんなことを考えているうちに、眠気が身体を包んでいく。
部屋で横になると、久々に安心で眠気が来てしまったらしい
身を任せるようにゆっくりと目を閉じ、穏やかに、意識を手放した。
……だけど。
気分が少し舞い上がっていたせいか、忘れようとしていたものを見てしまった。
痛くて、苦しかったあの日々の記憶
ああ、忘れていたのに……
夢の残滓を振り払う前に、部屋の外でセリアの声が響いた。
それと同時に薄い木の扉がドンドンとノックされた
「エリザ、起きてるか?メイド長が呼んでる」
無関心のようで何処か優しい声にぼんやりと目を開けると、さっきまで昼だった空が、すっかり夕方の色に染まっていた。
眩しい夕日が差し込んでいて、私はそっとカーテンを引いた。
ボサボサになった髪を手ぐしで整えながら、深く小さく息をつく。
……あんな夢、見なければよかった
さっきまで見ていた光景が、頭の中にしつこく居座っている。
この屋敷とはまるで対照的な劣悪な環境。
味のない少ない食事、日も入らない湿気臭い部屋。
明日の我が身を案ずる今までと比べるのも烏滸がましいと思えるくらいには、この屋敷は温かい。
夕日の色さえも、ここでは優しく見えた。
そう、痛いほどに
……でも、その優しさが、ふとある感情を呼び起こす。
『――この屋敷の人たちは、苦しみを知らないんだ』
言葉にした瞬間、胸がチクリと痛んだ。
そんなふうに思ってしまうなんて、あの人たちの優しさを裏切るようで――
でも、一度湧き上がってしまった感情は、もう心から離れてくれなかった。
メイド服の皺を伸ばし、セリアと一緒に玄関ホールへ向かうと、すでにメイド長が待っていた。
「待たせてしまって、すみません」
急いで頭を下げる。
「身だしなみもメイドの務めです。お気になさらず」
相変わらずの落ち着いた口調。
まだこの屋敷に来て一日も経っていないのに、私は何度も驚かされてばかりだ。
それを察した様子もなく、マルグレットさんは淡々と仕事の説明を始める
「仕事はさまざまな班に分かれていますので…」
エリザの仕事は、掃除や食事の準備、そして屋敷全体の雑務。
セリアは、主に身の回りの世話と、屋敷の警備の補佐を任された。
「仕事、別になっちゃったな……」
セリアが少し残念そうにこぼした。
「でもさ、その分、休みの日いっぱい遊ぼうよ。
私、部屋に家具を置きたくて……。一緒に街、行こうよ」
期待をこめてセリアの方を見ると、彼女は少し照れくさそうに笑って、こくんと頷く
「……ああ、いいよ。つきあう」
その何気ない返事が、妙に嬉しくて――
小さく笑った。
久しぶりに心から笑顔になれた気がした。
そのとき、廊下の奥から、視線のようなものを感じた気がした。
振り返っても、誰もいなかったけれど。




