噂の行方 ―彼女って誰?
社員旅行を終えて日常に戻った葵と優。
しかし、平穏な朝は一瞬で壊れた。
“噂”という名の影が、静かに二人の距離を試し始める――。
社員旅行から戻った翌週の朝。
いつものオフィス――のはずだった。
「あっ!!噂の二人……来た!」
ざわつくオフィス。
その一言で、空気が一瞬で変わった。
優の足が止まり、手がかすかに震える。
葵はすぐに気づいた。
(……まただ。あの震え。小嶋の顔を見て――)
小嶋の席の方へ視線を向けると、彼は冷ややかに笑っていた。
(……あいつ、気づいたのか?)
葵の脳裏に、あの朝食会場での光景がよぎる。
小嶋が優の左手に触れた瞬間の――あの違和感。
(まさか……触った時に、優の手が“女性の手”だと感じたのか?)
嫌な確信が、胸を鋭く貫いた。
優は小嶋の姿を見て怯え、呼吸を浅くしている。
(……フラッシュバックしてる)
葵はすぐに優の肩に手を置き、小さく囁いた。
「大丈夫だ。……俺がそばにいる」
その一言で、優の震えが少しだけ和らぐ。
周囲の視線が気になる中、場の空気を変えるように――
「きゃー!やっぱり来たぁ!尊い!」
「朝から並んで登場とか、ドラマですか!?」
みゆ&もえがテンション高く声を上げた。
その場の空気が一気に柔らぎ、笑いが起きる。
(……助かった。あの二人、こういう時だけは頼りになる)
葵は小さく息を吐き、優の震えた手をそっと隠すように握った。
昼休みのオフィス。
ざわめく声の中、みゆ&もえが息を切らして葵のもとへ駆け寄ってきた。
「ねぇ、葵さん! 聞きました!?
“お二人が本当に付き合ってる”って、社内で噂になってるんですよ!」
「え?」
思わず箸を止める葵。
しかし、周囲の視線を感じてすぐに冷静を装う。
「くだらない噂だろ。放っとけ」
そう言いながらも、心の中では嫌な予感が広がっていた。
(……この空気、昨日から妙に重い。誰かが、意図的に流してるな)
午後になると、その噂はさらに形を変えていった。
「葵って、優が好きなんじゃ……?」
「いや、あの営業の小嶋が言ってたらしいよ」
“誰が言い出したのか”が明確に口にされるたび、
葵の中で小嶋への疑念が確信へと変わっていく。
(……やっぱり、あいつか)
プリントを取りに行くふりをして、葵は小嶋の席のほうをちらりと見た。
彼は同僚と笑いながら、まるで無関係を装っている。
だが――その笑顔はどこか冷たかった。
(優のことを利用してる……。俺を潰すために)
ちょうどその瞬間、小嶋が誰かに囁く声が聞こえた。
「葵ってさ、イケメンばっか狙ってるんだよ。
飽きたらすぐ捨てるタイプだぜ」
その言葉に、葵の拳が机の下でゆっくり握られた。
(……ふざけんな。優を巻き込むな)
小嶋の笑い声が、やけに遠く響いて聞こえた。
昼休み。
人のいない会議室。
カーテン越しの光の中で、優が一人、ぼんやりと座っていた。
「……ここにいたのか」
ドアを開けた葵が、少し安堵したように声をかける。
優は顔を上げ、いつもの穏やかな笑みを見せた。
「大丈夫。もう、平気だから」
そう言う声は静かで落ち着いていたが、どこか無理をしているようにも見えた。
葵は壁にもたれながら、軽く息をつく。
「……あっ、そうだ。なんか俺と優が付き合ってるって噂になってるみたいだぞ」
一瞬の沈黙のあと――
優が、ふっと笑った。
「まじか……それ、ちょっと面白いな」
その笑顔があまりに自然で、葵は思わず可愛いと感じた。
(……なんだよ、その顔。少し嬉しそうじゃねぇか)
「……俺、小嶋に何かしたのかな」
「小嶋?」
「この噂を流してるの、多分あいつだ。
俺のこと、“イケメンばかり狙っては捨てる最低男”って言いふらしてるらしい」
優は目を丸くしたあと、堪えきれず吹き出した。
「ぷっ……なにそれ!そんな設定ある?」
「いやいや、笑いすぎだろ」
葵が呆れ顔で言うと、優は涙を拭きながら笑い続けた。
(……笑ってくれてよかった。
けど、あいつに触れられた“あの手”の震えに隠された何かを…俺は知りたいんだ)
葵は優を見つめながら、胸の奥で強く思った。
「……大丈夫だ。今度は俺が守る」
その言葉に、葵の笑顔が一瞬止まった。
優はすごく楽しそうに、
そして、何かを閃いたように、ふっと目を細める。
「……じゃあ、ちょっと“守られる準備”しとくかな」
軽く言ったその一言に、
優の心臓が、静かに跳ねた。
翌朝。
オフィスの空気はいつもよりざわついていた。
「あの二人、できてるらしいよ」
「マジ?やっぱりあの旅行のときから怪しかったんだって」
噂はさらに形を変え、勢いを増して広がっていた。
その中心にいたのは――小嶋。
デスクでスマホを眺めながら、冷ややかに笑う。
「……証拠があるんだよな。ほら、写真」
画面には、社員旅行の朝食会場で並ぶ葵と優の姿。
あの日、小嶋がこっそり撮ったものだった。
(ふん、これで俺のほうが“上”だってわかるだろ)
嫉妬と支配欲。その境界を、彼は静かに踏み越えていた。
周囲の社員がざわつく中――
「その写真より、私たちの撮ったやつの方がいいですよー!」
明るい声が響いた。
みゆ&もえが勢いよく登場し、スマホを掲げてニコニコ笑う。
「見てください、この角度! 光の入り方も完璧!」
「こっちは“尊い”の臨界点超えてます!」
社員たちがどっと笑い出した。
「小嶋情報って……結局テキトーじゃん」
「マジかよ、かわいそうに……」
場の空気が一気にひっくり返る。
悔しそうにスマホを握りしめる小嶋。
(チッ……邪魔しやがって)
そこへ――エレベーターのドアが開く。
出社してきた葵と優。
「おっ、噂の二人、来た!」と誰かが囁く。
葵は苦笑し、優はあえて堂々とした笑みで言った。
「……あの話、嘘ですからね」
すると、一人の社員が尋ねた。
「え、じゃあ本当に付き合ってないの?」
優はにやりと笑って――
「そんなわけねぇよ。だってこいつ、彼女いるぜ?」
「……は?」
驚いた葵の顔に、オフィスが一瞬静まり返る。
「今度の休みにデートするって言ってたしな!」
優がそう言って肩を叩くと、
社員たちは「マジか!?」とどよめき、空気が一気に明るくなった。
みゆ&もえは小さく肩を落とし、
「……でも、推し活は会社でもできるもんね」
「うん。推しは推しだし!」
と励まし合っていた。
小嶋は、笑う二人と騒ぐ周囲を睨みつけ、
唇をかすかに噛んだ。
(……まだ終わりじゃない)
その瞬間、ポケットのスマホが震える。
画面には、見慣れた名前が浮かんだ。
須藤“デートの場所、聞いておきます“
小嶋の口元が、ゆっくりと歪む。
「……へぇ。彼女ね。――じゃあ、そっちから壊すか」
その目に宿るのは、嫉妬とも執着とも言えない――
暗い炎だった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
9話では、優と葵の関係に“噂”という名の影が落ち始めました。
そして――その影は、誰かの悪意によって、静かに動き出します。
笑い合う日常の裏で、少しずつ歯車が狂い始めていた。
気づかないうちに、守りたかった“平穏”が壊れていく――。
次に訪れるのは、予想もしない波紋かもしれません。
それでも、葵はきっと優を手放さない。
そう信じたくなるような物語が、まだ続きます。
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