触れてはいけない手
朝の光の中で、優はいつも通りの笑顔を見せていた。
けれど――葵は気づいていた。
その笑顔の奥に、何かを隠していることを。
この朝、2人を待つ“新しい影”が現れる。
「あー、眠い」
「寝不足か?」
優が、いつもの柔らかい笑みを浮かべる。
その横顔に、葵の視線が自然と吸い寄せられた。
「優、お前昨日のこと……わざとだろ」
「どうかなー」
ふわっと笑う優。
その仕草に、また心臓が跳ねる。
――まったく。
どうしてこいつは、無意識に人を振り回すんだ。
「ほら、行くぞ。朝飯の時間、遅れる」
「うん」
2人は並んで朝食会場へ向かう。
廊下を歩く足音と、差し込む光。
穏やかで――どこか、幸せな時間。
会場の前には、みゆ&もえの姿。
2人は待っていたように駆け寄ってくる。
「おはようございます! 写真撮ってもいいですか!?」
「いいよー。今日も2人とも可愛いな」
優が笑顔で応じると、2人の顔が一気に赤くなった。
「ひゃーっ♡ 優くん、朝から天使すぎます!」
「葵さんも隣にいると絵になるんですよね!」
(……BL好きの2人、朝からテンション高ぇな)
そんな中、もえが首をかしげた。
「あっ、そういえば昨日の夜、どこか行ってたんですか?」
「え?」
「写真撮りたくて、部屋の前まで行ったんですけど、いなくて!」
葵は少し間をおいて、苦笑した。
「そっか。来るって言ってくれたら、部屋にいたんだけどな」
クスッと笑う優。
その表情が、昨日の夜を思い出させる。
(お前な……その顔、完全に小悪魔モードだぞ)
葵は思わず目を逸らした。
昨夜の温もりと、素顔の優。
そして胸の奥で確かに芽生えた感情――
“守りたい”と思った。
女が苦手なこの俺が、
初めてそう思った相手が――優だった。
朝食会場。
ざわめく声と食器の音が混ざり合う。
優と葵は並んで座っていた。
「ここ、いい?」
営業部の小嶋が、にこやかに声をかけてくる。
その笑顔がどこか作り物めいていて、葵は苦手だった。
優は一瞬、ピタリと動きを止めた。
フォークが小さく震え、皿の上で“カラン”と音を立てる。
(……あれ?)
葵の胸に、微かな違和感が走る。
小嶋は気さくな声で、優の左側に腰を下ろした。
「昨日はよく眠れた?」
その瞬間、小嶋の手が、
テーブルの上にあった優の左手に触れた。
優の表情が一瞬で凍りついた。
「う、うん……まぁ……」
途切れ途切れの声。
左手が小さく震え、パンを落とした。
目を伏せ、スープの表面を見つめたまま動かない。
(……優? どうした……)
葵の胸の奥で、強い不安が静かに広がっていった。
葵は空気を変えるように、優の肩を軽く叩いた。
「昨日、飲みすぎたから食欲ないよな」
「部屋でゆっくりしよう。……ほら、これ食べていいぞ」
その一言に、すかさずみゆ&もえが反応する。
「えっ、“これ食べていいぞ”!? 朝から破壊力やば!」
「いやぁ〜尊い! 社員旅行でそれは事件ですっ!」
テーブルが一気に笑いに包まれる。
優も少しだけ口元を緩めた。
(……よかった。少しは落ち着いたか)
だが葵の心の奥には、
さっき見た“震える手”の映像が焼きついたままだった。
部屋に戻ると、優はベッドの端に座り、
膝を抱えたまま小さく震えていた。
葵はしばらく迷ってから、静かに口を開いた。
「……ゆう、触っても大丈夫か?」
少しの沈黙。
優は、小さく頷いた。
葵はゆっくりと近づき、優をそっと抱きしめる。
「今は、何も話さなくていいから……」
「……葵くん。なんで……そんなに優しいの……」
葵は優の左手を取って、そっと口づけた。
「辛い時は、泣いていいぞ。我慢するな」
その言葉に、優の肩が小さく震えた。
頬を伝う涙が、一筋だけ落ちた。
同じ頃――廊下の角。
小嶋がスマホを手に、冷ややかに笑っていた。
「……なるほどね。仲良し、か」
画面には、朝食会場で並ぶ葵と優の写真。
笑顔の奥に、静かな独占欲のようなものが滲んでいた。
小嶋はスマホをポケットにしまい、
自分の右手をじっと見つめる。
「……柔らかい手だったな、あいつ」
低く呟いた声に、微かな嫉妬と歪んだ興味が混じる。
その目の奥で、何かが確かに“生まれた”。
――そして、この社員旅行をきっかけに、
社内で“ある噂”が静かに広がっていく。
誰も知らない。
その噂が、彼らの関係を大きく狂わせていくことを。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
8話では、小悪魔な優の“隠された痛み”に、
葵がほんの少しだけ触れることになりました。
そして――
その優しさを見ていた“誰か”の心に、歪んだ感情が芽生え始めます。
次回、
その“悪意”が社内を揺るがす噂となり、
優の心に再び影を落とすことに――。
そのとき、葵はどう動くのか。
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