影の足音 ― 凍りつく夜の気配 ―
少しずつ動き始める“影”。
優の過去に触れた須藤の前に、
とうとう“あの男”が姿を現します。
美香の震え。
穏やかなはずの笑顔の裏にある、説明できない違和感。
それは偶然なのか。
それとも――必然なのか。
静かに、確実に、
運命の線がひとつの場所へ集まり始めます。
では、本編へ。
カフェの空気は、
ほんの数分前よりも明らかに“重く”変わっていた。
さっきまでそこにいた“影”の気配だけが、
テーブルの上に残っているようで――
須藤の背中はまだ冷たい汗をにじませていた。
美香は席に戻ってきたものの、
まるで声の出し方を忘れたみたいに、
唇を固く結んだまま震えていた。
「……大丈夫か?」
須藤が問いかけても、
返事はない。
ただ、肩がかすかに揺れている。
店内のざわめきが、
やけに遠くに聞こえる。
やっと、美香が絞り出した。
「……今日は、もう帰る……」
その一言だけを落とし、
美香はふらふらと立ち上がった。
つり革につかまるみたいに、
テーブルの縁を掴みながら。
須藤は慌てて腕を支えようとしたが、
美香は触れられることすら避けるように、
一歩下がって首を横に振った。
「……平気。帰るだけだから」
その目は、完全に壊れていた。
そして――
店を出ていく直前。
美香は、振り返らずに言った。
「……また、連絡する」
消え入りそうな声だった――
ドアのベルが鳴り、
美香の小さな背中が闇へと消えていく。
須藤はしばらく動けなかった。
あの男って……?
まさか。
頭の奥の何かが、
ゆっくりと凍りついていく。
店を出たあとも、
須藤の胸はざわついたままだった。
(美香の顔……あれは“恐怖”そのものだった)
嘘をついている感じじゃない。
むしろ、身体中が警報を鳴らしているような。
そして――
あの男の“穏やかさの裏側”。
笑っているのに、
目だけが冷たい氷みたいに光っていた。
(何なんだ……あの男……)
吐く息が薄く白く揺れる夜道で――
須藤はコンビニの明かりを見つけて立ち寄った。
水でも買って気持ちを落ち着かせようとした――
その瞬間。
ぞくり。
(……いる)
直感が先に震えた。
雑誌コーナーの前。
立っていたのは――
さっきの男。
うつむいたまま雑誌を手にしているが、
ページは一度もめくられていない。
ただ、
ガラス越しの外を、
ずっと凝視している。
まるで“獲物を待つ猫”みたいに。
須藤の足が止まった。
(なんで……ここに“いる”)
男はゆっくり顔を上げた。
「……おや」
穏やかな笑み。
だが目だけは、やはり笑っていない。
「きみ……さっきの、女の子といたね」
須藤の喉がひくりと動く。
「……美香の、彼氏さんかな?」
「……あ、まぁ……」
条件反射のように返した自分に、
須藤は内心で舌打ちしそうになった。
そんな答えを、他人に渡してよかったのか。
男は少し首を傾け、
優しい声で続けた。
「……きみ。何か聞いていないかい?」
「……えっ、何を」
男の目線が、須藤の横をすり抜け、
外の夜道のどこかに吸い込まれていった。
まるで――
誰かを呼んでいるように。
「……どこに行ったのかな。
探してるんだ。ずっと」
低く、
誰に言っているのかわからないつぶやき。
須藤の背中が冷たくなる。
(誰を……探してる?
まさか……ゆう……?)
胸の奥が締めつけられるような
ざわめきに耐えながら、
水だけ買って店を出ようとした。
そのとき。
店員同士のヒソヒソ声が耳に届いた。
「ねぇ……また来てるよ……あの人」
「最近ずっと毎晩だよ。気持ち悪いよな……」
男は動かない。
ただ、夜のどこかを見つめ続ける。
まるで“決まった誰か”が通るのを待ち続けているように。
須藤の足が止まった。
(美香の言った通り……
“ゆうを探してる”って、ことなのか?)
男の横顔に、
得体の知れない黒さがまとわりついていた。
穏やかな表情なのに、
その奥にあるものは、穏やかさとは真逆だ。
須藤は強く息を吐き、
コンビニを出た。
翌日。
仕事帰りに美香に連絡をした。
須藤は、
単刀直入に聞こうと決めていた。
美香は、いつものカフェではなく、
自分のマンションで話がしたいと言った。
指定されたところまで行くと、
エントランスで待つ美香を見つけた。
なにかに怯え、周囲を気にしている感じだった。
部屋に入ると少し落ち着いた様子で、
ソファーに腰をかけた。
須藤は美香の顔をまっすぐにみた。
「あの男……誰なんだ?」
美香は一瞬、
泣き出しそうな顔をした。
だが、すぐに何かを悟ったように、
表情がゆっくり変わる。
震えを隠しながら、
その目は“どこか計算している光”を帯びていた。
「須藤さん。
あなた、優のこと……好きなんでしょ?」
須藤は息をのんだ。
否定する言葉が出てこなかった。
美香は、ゆっくり近づく。
「……なら、教えてあげる。
あの男……ゆうを探しているのよ」
「……父親……なのか?」
美香は薄笑みを浮かべただけだった。
そして。
最後に――ぽつりと言った。
「たぶん……あのコンビニで待ってるのよ」
「……誰をだ?」
それ以上、何も話さなかった。
その瞳に、恐怖と憎しみが混ざっていた。
「一人しかいないでしょ。
……ゆう、よ。」
須藤の心臓が、冷たい手で鷲掴みにされたように強く縮んだ。
“ゆうを、待っている。”
その意味はまだわからない。
けれど――
何か取り返しのつかないものが、
静かに動き始めた気がした。
優は、
もう安全じゃない。
そして、
須藤は知ってしまった。
ゆうを守りたい気持ちが――
恋に近い痛みに、変わりつつあることを。
読んでいただきありがとうございます。
17話では、
“影の正体”が現実へ滲み出してきました。
美香の恐怖。
須藤のざわめき。
そして、男の“穏やかな狂気”。
静かに近づいてくる危険と、
優を守りたいという須藤の気持ちが、
“恋”という名前を帯び始めています。
物語は、いよいよ核心へ。
次回は――
優が「なぜ女を捨てたのか」
その理由へと踏み込んでいきます。
また読みにきていただけたら嬉しいです。
次のお話も、楽しんでもらえますように。




