静寂の裏に潜む声 ― 揺らぐ男と囁く女 ―
眠れぬ夜を越えた朝。
それでも、心の中のざわめきは止まらなかった。
優への想い――
それは“守りたい”という気持ちなのか、
それとも“惹かれている”という事実なのか。
そして、再び動き出す夜。
美香の囁きが、須藤の理性を静かに揺らしていく。
――優を想う心が、やがて“嵐”へと変わることを、
この時の須藤はまだ知らなかった。
眠れなかった夜が、ようやく終わった。
それでも、朝日は何ひとつ温かくなかった。
心の奥で、誰かの声がまだ囁いている。
(……相馬 優。あの名前が、頭から離れない)
デスクのコーヒーは、もう冷めていた。
上司の声も電話の音も、遠い。
ふと視線を上げる。
資料を抱えた“優”が、誰かに微笑んでいる。
――その笑顔が、昨夜、葵の隣で見た“彼女”と重なった。
須藤の心臓が、音もなく跳ねる。
会議室の時計の針が、やけにうるさく響いていた。
資料の文字はぼやけて、
誰が何を話しているのか、もう頭に入ってこない。
(……優が、女? そんな……まさか)
冷めたコーヒーの味が、やけに苦かった。
視線を向けると、斜め前の席で優が笑っている。
その笑顔は、いつもと変わらない。
けれど今は――
なぜか胸の奥を締めつけるように、痛かった。
(入社当初から、いいやつだと思ってた。
真面目で、空気が読めて、誰にでも優しい。
もし……もしあいつが女だったら――)
須藤は小さく息を吐いた。
頬がわずかに熱くなる。
(何を考えてるんだ、俺は……)
その瞬間、スマホが光った。
差出人は――小嶋。
「例の件、進展あるか?」
須藤はしばらく画面を見つめたまま、動けなかった。
やがて、ゆっくりと親指を動かす。
「……水族館では、探せなかった。」
それだけを打ち込み、送信ボタンを押す。
(本当は“葵の彼女の写真を撮ってこい”って言われてたけど……
そんなこと、どうでもよくなってた)
視線の先で、優が同僚と笑いながら話している。
その横顔が、昨夜見た“彼女”と重なって見える。
(優が……女だったら……俺は――)
その瞬間。
少し離れた席から、葵がこちらを見ていた。
須藤のスマホの光に、一瞬だけ視線を向ける。
(……須藤、今日のお前、何か変だぞ)
視線がぶつかる。
(見てはいけないのに、目が離せなかった。)
須藤は反射的に目をそらした。
――心が、ざわつく。
(優のことを、誰にも知られたくない。
……今は、まだ。)
冷えた会議室の空気の中で、
須藤の鼓動だけが、異様に速く鳴り続けていた。
夜のビル街。
ネオンが滲むガラス越しに、須藤はため息をついた。
スマホが震える。
画面には――「美香」の名前。
「もう一度、話せる?」
短い文面。
けれど、その言葉の裏にある“何か”が、
須藤の胸をざわつかせた。
(……行かない方がいい。
でも、話を聞かないと――優のことが……)
指が、勝手に動いていた。
「……いいよ。あのカフェで。」
送信したあと、
須藤はしばらく画面を見つめたまま動けなかった。
冷たい風がビルの谷間を抜け、
スーツの裾を揺らす。
(……優、お前はいったい、何を隠してる?)
その頃、
美香は鏡の前に立っていた。
淡い照明の下、
ゆっくりと口紅を塗る。
真っ赤なルージュが、唇の輪郭をなぞっていく。
鏡の中の彼女が、
ゆっくりと笑った。
「……彼氏、だったのかな? 一緒にいた人。」
細く、甘い声。
だが、その奥には“冷たい棘”が潜んでいた。
「いいわ。バラしてあげるんだから。」
鏡に映る自分へ語りかけるように、
唇をなぞる指が震える。
その震えは恐怖ではない。
――狂気と快感のあいだ。
「ねぇ、優。今度こそ全部、終わらせよう?」
唇の端が、ゆっくりと吊り上がる。
その笑みは、まるで“復讐”という名の呪いを帯びていた。
部屋の中で、
テレビのニュースキャスターが小さく「明日は雨でしょう」と告げる。
だが、美香の中ではもう――
“嵐”が始まっていた。
その嵐の中心へと、須藤もまた静かに引き込まれていく。
――それを、この時の彼はまだ知らなかった。
夜のカフェ。
閉店間際の静かな店内に、
氷の溶ける音だけが響いていた。
須藤は、美香の前に座っている。
テーブルの上には、手をつけていないアイスコーヒー。
外では小雨が降り始め、窓ガラスに細い雫が流れていく。
美香はそんな景色を一瞥すると、
ゆっくりと視線を須藤に向けた。
「ねぇ、須藤さん。
あなた、本当は“優”のこと、気になってるでしょ?」
その一言に、須藤の指が止まる。
グラスを持つ手が、わずかに震えた。
氷がカラン……と音を立て、
沈黙の中で時間が止まる。
(気になってる……?
そんなこと、あるはず――)
否定しかけた心の奥で、
誰かが小さく囁いた。
(……優を、守りたい)
須藤はその感情に気づくことを恐れ、
視線を落としたまま言葉を探した。
だが、美香の声が先に沈黙を破った。
「もし、彼女の“本当の過去”を知ったら――」
須藤の呼吸が止まる。
ゆっくりと、美香の瞳が怪しく光った。
「あなた、どうする?」
その声音には、甘さと毒が混じっていた。
まるで、彼の迷いを楽しむかのように。
(……“本当の過去”?
どういう意味だ……)
須藤は息を詰め、
思考の奥でざらついた違和感を掴もうとする。
だが、美香は答えを与える気などなかった。
カップを持ち上げ、
真紅の口紅の跡を残しながら、
静かに微笑む。
「ねぇ、優の父親って――まだ、生きてるのよ。」
その言葉が落ちた瞬間、
空気が一変した。
須藤の瞳が大きく見開かれ、
胸の奥が冷たく締めつけられる。
カフェの外で、
雷鳴が低く、空を裂いた。
――夜が、また動き出した。
その歯車は、蒼と優の知らぬところで、静かに“逆回転”を始めていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
須藤の中で芽生えた“守りたい想い”。
それは、優への静かな恋心なのか――
それとも、過去に踏み込んでしまった危うい衝動なのか。
一方、美香の囁きは、嵐の前触れ。
「優の父親はまだ生きている」
その一言が、物語を新たな闇へと導いていきます。
次回15話では、
封印された夜の真実と、優の母親の最期が語られます。
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