選ばれなかった者たちの夜
市場のざわめきが、午後の陽射しににじんでいた。
行商人たちが声を張り上げ、干し肉や果物、見慣れない香辛料を売りさばいている。小さな冒険者ギルドの掲示板には、虫に食われかけたクエストの張り紙が風に揺れていた。
「んー、いい匂い。これ、買ってっていい?」
魔術師の少女が指差したのは、炭火であぶられた串焼き。仲間たちは疲れた表情をほぐしながら、思い思いに市場を散策していた。
けれど、俺だけは妙な既視感に囚われていた。
──この街には、以前にも来たことがある。
けれど、それは“今の記録”には存在しない。
誰もそのことに気づいていないように見えるのが、なおさら俺を孤独にした。
「なあ、お前ら。ギルドで情報集めてきてくれ。ちょっと、行きたいとこがある」
「ん? 一人で?」「迷子んなよー?」
軽口を背に、俺は市場を抜け、石畳の坂道を上っていく。
街の北、古びた教会跡地。
その裏手に、ぽつんと石碑が立っていた。風化した文字。冒険者たちの名を刻んだ供養碑。
前のルートで……ここに、誰かを葬った。
覚えているのに、名前が出てこない。何を話したのか、どんな顔をしていたのかさえも──記憶の“縁”がごっそりと消えている。
けれど、胸の奥がきしむように痛むのは、確かだ。
「……すまない」
俺はそう呟いた。誰に向けたものかもわからぬまま、ただ。
雨が降り始めた。ぽつ、ぽつと。
「忘れたままで、悲しめるんだね。君って」
静かな声。振り向くと、そこにいたのはリセだった。
白い傘をさし、雨粒の音を遮るように、ただ俺を見つめていた。
「なんで、ここに……」
「情報収集の途中で、あなたがこっちに向かってるのが見えたの。気になって、ね」
リセは俺の隣に立つ。傘を少し傾けて、俺の肩に雨がかからないようにしてくれた。
「ここに誰かを葬った。でも、名前が思い出せない。顔も、声も……」
「それでも来たのは、“あなた”だからだよ」
リセは目を伏せた。「物語の駒だったら、ここには来ない。筋書きにないことをするのは、いつも……心が揺れた人間」
「揺れて……る、のか」
「うん。たぶん、あなたは揺らぎの中にいる。私の仕事は、それを壊さないようにすること」
しばらくの沈黙。
ただ、雨の音と、遠くで鳴く渡り鳥の声だけが響いていた。
「……リセ」
「なに?」
「前のルートで、俺は……この街で、誰かを見捨てたのかもしれない。
それでも今、俺は泣ける。たぶん、もう遅いのに」
「遅いなんてこと、ないよ」
リセは優しく笑った。「物語は繰り返される。でも、その中で少しずつ“歪む”の。君が誰かを助けたら、次の誰かが救われる。たとえ、それが前の誰かじゃなくても──意味はある」
彼女の言葉に、俺は答えを見つけられないまま、ただ雨に濡れた碑を見つめていた。
やがて、遠くから仲間たちの呼ぶ声が聞こえてきた。
「おーい! 晩飯どうするんだよー!」
「……行こう」
「うん」
俺とリセは、供養碑に小さな花を置いて、振り返った。
雨はすでに止みかけていた。
そしてそのとき、俺の胸の奥に、ふっと何かがよぎった。
──今度の旅では、彼らと出会わないまま進むことになるのか?
それとも、どこかで「別の形」で交わるのか。
その答えはまだわからない。
けれど、確かに、俺は少しずつ“自分の意志”で歩き始めていた。