剥がれかけた仮面
魔物の気配が、森の奥からじわじわと滲み出ていた。
獣のようでありながら、もっと濁っている。形容しがたい“異質”が、皮膚の裏を這うように忍び寄ってくる。
「来るぞ!」
勇者が剣を抜いた。
その声音には、明確な戦意と、ほんの僅かな怯えが混じっていた。
俺たちは即座に隊列を組む。だが、剣を握る指が冷たく、意識の深部では別の“焦燥”が渦を巻いていた。
――魔法使いの、名前が思い出せない。
彼と幾度も戦場を共にし、炎と雷を駆使して窮地を抜けたはずなのに。
それなのに、あの名だけが霧の向こうにある。
いや、それ以上におかしい。
彼のことを、心のどこかで“他人”として見ている。
だが、今はその疑問を押し殺すしかない。目の前の脅威に対処する方が先だ。
この戦い――
前のルートでは、“全滅”する運命だった。
祠に入らなかった初回の旅では、俺たちはここで力尽き、時間が巻き戻された。
だが今は違う。
俺は知っている。敵の行動、森の構造、仲間の限界。
すべてが既視感と共に脳裏に浮かぶ。
「今だ、弓使い! 三本同時に、敵の右前脚を狙え!」
「了解、合わせる!」
「僧侶、防御は捨てろ! 回復魔法に集中して!」
「……う、うん、わかった!」
「勇者、次の二撃目は“わざと”外せ! 誘い込め!」
「……は? あ、ああっ!」
一瞬の戸惑い。だが、勇者は俺を信じた。
俺の“案内”で戦いは変わった。
勝利は決して容易なものではなかった。が、確実に“前回よりも”軽い代償で終わった。
最後の火球を放つ魔法使いの背中。
その姿を見ながら、胸の奥がチクリと痛む。
――思い出せない。名も、過去も、関係すら。
それなのに、彼のことが気になって仕方がない。
「お前……本当に、誰だっけ……?」
口をついて出た呟きに、魔法使いが振り返る。
その目が、一瞬だけ“仮面を剥がしかけた”ような表情を見せた。
だが、すぐに口角を上げて笑う。
「案内人、お前、疲れてんじゃねぇの?」
焚き火を囲みながら、俺たちは疲れを癒やしていた。
火花がぱちぱちと空に跳ね、森の静けさと混ざり合う。
「俺たち、こんなに強かったっけ?」
勇者が無邪気に笑う。
「なんか……前の旅と、違う気がするんだよな」
弓使いが木の枝をいじりながら言った。
「それって案内人が変わったからじゃない?」
僧侶が俺を見つめる。その目には確信に近いものがある。
「確かに……前よりも“先を見てる”ような気がする。何か、あった?」
俺は、しばし黙ったあとに言った。
「……いや。ただ、最近“よく夢を見る”んだよ。変な夢をな」
皆は軽く笑って流したが――魔法使いだけは沈黙していた。
火の明かりに照らされたその横顔は、どこか“静かすぎた”。
夜。
夢の中、再びリセが現れた。
今回は赤い月を背に、くっきりとその姿を見せる。
「ねえ、“あの人”が気になってるんだね」
「ああ。……なんだろうな。周囲の世界が“演じてる”ように見えるなかで、あいつだけは“何かを見てる”気がする」
「そう。それは正しい。彼は、他の“駒”とは少し違うの」
「駒……?」
「でもね、彼は“あなたの行動”に最も敏感な存在でもある。下手に動けば、彼の仮面は完全に剥がれるかもしれない」
「それは――危険なのか?」
リセは答えない。ただ、少し寂しそうに笑って言った。
「案内人くん。そろそろ最初の“分岐点”がくるよ」
「勇者と俺の間に、初めての疑念が生まれる。その瞬間を、あなたは見逃さないで」
リセの声が遠ざかる。
「進むのも、止まるのも、あなた次第。
でも、もう“元には戻れない”よ」
朝。
森を抜けた先に、村が見えた。
勇者の出自の村。
“物語の節目”――最初の事件が始まる場所だ。
俺はその光景を見ながら、確信していた。
――この物語は、確実に“別の道”へと踏み出している。