駒としての一歩
目が覚めてから、どれほどの時間が経ったのか。
何時間? いや、何秒?――その感覚さえ、曖昧だった。
そして俺は、“そういうセリフ”を口にさせられた。
「この村で、ずっと平和に暮らしてきた――」
それは、自分の意思からこぼれた言葉ではなかった。
まるで舞台の台本をなぞるように、俺の口は勝手に動いた。身体も、心も。
この村は“典型的”だった。
木造の家々、石造りの井戸、よく手入れされた畑。のどかで、小さな集落。
そして俺は、その中で「物語の駒」として生かされていた。
周囲の人々も、何の違和感も抱いていないようだった。むしろ、皆、穏やかな笑顔を浮かべていた。
けれど――その瞳の奥に“深さ”はなかった。まるで舞台装置の一部のように、同じ言葉を、同じ感情を、同じタイミングで繰り返す。
「今日もいい天気ですねぇ」
「そうだな、勇者さまが来る日も近いかもな」
……知っている。
次にやって来るのは「勇者登場イベント」だ。
彼が村に現れ、誰かが魔王討伐の旅に巻き込まれることになる。
なぜ知っているのか、自分でもわからない。
けれど、心の奥底に「筋書き」が焼きついている。
抗えない脚本の中で、それでも、ふと疑問が浮かぶ。
――俺は、いったい何者なんだ?
いや、違う。
俺は“物語”そのものだ。
昨日、そう告げられた。
俺には、選ぶ自由などない。あるのは「選んだふり」だけだ。
そしてその日の夕暮れ――勇者が現れた。
金髪碧眼、鋼の鎧に身を包んだ、まるで絵本から抜け出したような青年。
村人たちが歓声を上げる。
「おお……勇者さまが!」
「やっぱり、本物だ!」
俺の足も、自然と前に出る。
……いや、自然ではない。筋書きに沿って、動かされているのだ。
「勇者さま……お会いできて光栄です」
言葉が口をついて出る。止められない。
それは演技ではない。明らかに“強制”だ。
筋書きが、俺の肉体を操っている。
――そのときだった。
村の隅に、あの少女がいた。
リセ。
騒がしい群衆から離れ、ひとり、こちらを見つめていた。
他の村人たちと違い、彼女の顔には笑みも驚きもなかった。
いや――そこには“空白”があった。
感情の空白。それはこの世界において、誰よりも異質で、静かで、透き通っていた。
まるで、“演じていない”ように見えた。
その瞬間、俺は気づく。
この世界でただひとり、筋書きに従っていない存在。
あるいは――俺と同じく、“内側から物語を見ている者”。
リセが口を開いた。
「……また、始まるんだね」
その言葉は、筋書きにはなかった。
感情のこもった声色。確かに、彼女の“意志”で放たれたものだった。
俺の胸がざわついた。
――そして、物語がまた動き出す。
勇者が言った。
「我が旅には、導き手が必要だ。そなた……来てくれないか?」
選択肢など、最初から存在しない。
俺の足が勝手に前へ出る。
「……わかりました。お供しましょう」
心では抵抗していた。だが、拒むことはできなかった。
俺は、そういう“役”なのだ。
……ただ、その一瞬だけ。
俺は自分の意志で、後ろを振り返った。
群衆の向こう――リセと視線が交差する。
彼女はまるで、俺の“選べなかった選択”を見透かしていた。
その夜、荷をまとめながら考えていた。
これは旅立ちなんかじゃない。
これは――物語が定めた、予定通りの始まりだ。
それでも。
リセの言葉は、確かに俺の心を揺らした。
たったひと言で、確かに。
「また、始まるんだね」
……つまり、これは“繰り返し”なのだ。
何度も。何度も。
ならば俺は、ただ繰り返すだけの存在なのか。
それとも――この物語を変えられる、唯一の可能性を持つ存在なのか。
それを確かめる旅が、いま始まろうとしていた。