99 氷魔法を教えた翌日の話
フレッド君が水魔法を披露した。さっきまでは一度にザパッと大量に出ていた水が、ジャバジャバと少し長く出せるようになっている。わずかな時間で進歩していたから、レクスさんと私でたっぷりほめた。
「一回でコツをつかむなんてすごいわ」
「フレッドは優秀だなあ」
「オレ、あしたはもっとうまくなるぜ!」
クローディアさんも「この子は間違いなく見込みがあるわ」と感心している。フレッド君が「へへへ」と笑っていたが、立て続けにあくびをした。レクスさんが素早くフレッド君を抱き上げ、それをきっかけに私たちはクローディア邸を辞した。
十月上旬のドライブは気持ちが良かった。フレッド君にはひざ掛けをかけて、膝枕をさせながら後部座席に座った。自動車は馬より遅いと言う人がいるけれど、馬のように休憩と水の心配がないのはとても気楽だと思う。それに、座席に座って移動できるのは馬に乗るよりずっと楽だ。
「面白かったねえ。僕も同行させてもらえてよかったよ」
「どの辺が面白かったですか?」
「今、この国の構造も魔法使いの世界も、新しい波がきているってことかな。数十年前には貴族は平民の上に君臨していた。今は裕福な平民が多く、困窮している貴族は多い」
「魔法使いは絶滅しかけていて、新世代が生まれていますしね」
「ニナはその先駆けだね」
私はアルフィーさんの生き方が、胸に刺さった小さな矢のように抜けない。今でこそ「この力で生きていくのだ」と腹をくくっているけれど、私もアルフィーさんのように自由に生きていたら、あんなに苦しまずに済んだのかな、と思う。
「私、アルフィーさんのように自由に生きたいです」
「いいと思う。僕も自由に生きているよ。アルフィーさんとクローディアさんはいい感じだったね」
「あの二人は、結婚という制度からも自由でしたね」
「そうだね。ん? いや、それはどうなのかな。え? ニナ?」
車に揺られているうちに猛烈に眠くなって、目が覚めたらもうアシャール城だった。糸杉の森の向こうに太陽が沈みかけていて、お城が赤く照らされている。夕焼けの中、フレッド君を抱きかかえて歩いていく背の高い後ろ姿を見ながら、(レクスさんとずっと一緒に生きていけますように)と願った。
翌日からフレッド君は水魔法に夢中になった。来る日も来る日も畑で水魔法を練習している。
ジェシカさんが様子を見ていてくれるおかげで、練習中に倒れることもない。魔法の練習をしたくてたまらないフレッド君の安全のため、ジェシカさんにはフレッド君が魔法を使えることは告げてある。
ジェシカさんは半信半疑の様子で(この人たち、変なことを言い出したわ)という表情だったが、フレッド君の手のひらから水が湧き出るのを見て「は?」と驚きの声を出した。フレッド君はそんなジェシカさんに向かって得意げに「オレはすげえまほうつかいになるからな!」と宣言していた。
クローディア邸を訪問してから二週間が過ぎ、十月の下旬になった。
仕事から帰ると、今日もフレッド君は畑の前にいる。せっせと水魔法の練習をしているのだ。そのフレッド君が帰宅した私に気づいて手招きをする。レクスさんも「おかえり」と言いながら庭に出てきた。
フレッド君が「みてて!」と言ってから短い呪文を唱え、手のひらを上に向けた。
「あっ……」
思わず声が出た。私の中指くらいの太さで、フレッド君の手から水が出ている。クローディアさんほどは安定していないけれど、水は太さを変えながら出続けている。やがて水が止まり、フレッド君が私たちを振り返ってニカッと笑った。
「すげえだろ?」
「すごいわよ! まだ五歳なのに! 天才じゃない?」
「すごいぞフレッド。体はだるくないか?」
「だいじょうぶだぜ! ニナ、オレにこおりまほうもおしえてくれよ」
「氷魔法? んー、そんなに急ぐ必要はないのよ? 体の成長につれて魔力も増えるから、もっと魔力が増えてからなら少ない練習で氷魔法を使えるようになると思う」
するとフレッド君の笑顔が消えた。
「がんばらないと、かあちゃんにあえないだろ」
「あ、そういうことか……。でもね、フレッド君のお母さんだって、フレッド君が身体を壊したら悲しむよ」
そもそもフレッド君の魔法の腕とお母さんの出奔は関係ない。フレッド君の母親は子供より恋人を選んだ。彼女がどう生きるかは彼女の自由だけれど、フレッド君の人生は始まったばかり。母親から引き離されるには早すぎた。
フレッド君は必要な時期に満たされなかった母親の愛を求めているのだろう。魔法使いとして経済的に潤えば母親が戻ってくる、と思い込んでいるのが切ない。
私はフレッド君をギュッと抱きしめた。
「私もフレッド君のお母さんだから。私がいるから」
「ん……」
私の肩に顔をくっつけて、フレッド君がひきつれたような呼吸をしている。レクスさんが「フレッド」と言いつつ小さな背中に手を当てた。
「声を出して泣いてもいいの。悲しい時は泣いていいんだから」
「ん……」
「私はお母さん、レクスさんはお父さん。フレッド君は大切な息子なの」
「ん……」
「さあ、今夜はフレッド君が好きな揚げたお芋をたくさん食べましょう」
「ケチャップつけてたべる」
「そうしましょう。フレッド君が好きなハニーマスタードもあるわよ」
「ん……」
フレッド君の涙を拭いて、二人で畑の秋野菜を収穫した。ニンジン、ほうれん草、キャベツ、ナス。どれもフレッドの植物成長魔法のおかげで大きくツヤツヤだ。これでスープを作ろう。
「氷魔法、明日試してみる?」
「えっ。いいのか?」
「ええ。フレッド君が元気になるなら」
「なるよ。オレ、こおりまほうをつかえたら、すっげえげんきになる!」
「その代わり、氷魔法の練習は私がいる時だけね」
「うん」
私にできることでフレッド君を笑顔にしたい。そう思って氷魔法の練習を許可した。
水魔法と氷魔法は呪文が違うだけで、魔力の流し方の基本は同じ。みぞおち辺りから指先に向かって魔力を一定に流す。そうしながら水を急速に凍らせるのだ。
翌朝、ジェシカさんが出勤して入れ替わりに私がお城を出ようとした。今日はフレッド君がお城にいると言ったから一人で出勤だ。
しかし私が玄関のドアを開けたところで、二階から「きゃあああっ!」というジェシカさんの悲鳴が聞こえた。
手提げを放り出した。階段を駆け上がってフレッド君の部屋のドアを開けると、先に駆け付けたレクスさんと口に両手を当てたジェシカさんがいた。
一見フレッド君は何ごともないように見えたけど、よく見たら右手首から先が分厚く氷に包まれている。右の頬と半ズボンから出ている左の膝のあたりにも薄く氷が張り付いていた。
「大変!」
氷を剥がさなきゃと思った私より早く、レクスさんがフレッド君を荷物のように脇に抱えて階段を駆け下りた。私とジェシカさんがその後ろに続く。
レクスさんはフレッド君とシャワー室に入り、二つの蛇口をひねってお湯を出した。お湯をかけられて、フレッド君の右手の氷が解けていく。
「ニナ、フレッドの手まで凍ってるってこと、ある?」
「わ、わかりません。こんなの初めて見ました」
「そうか。場合によっては病院に連れていくよ」
「はい」
無言だったフレッド君が、か細い声を出した。
「ごめん。オレ、ニナがいないところで、こおりまほうをつかった」
「もし氷でお顔を包まれていたら、息ができなくて叫ぶこともできなくて、死んでいたかもしれないのよ?」
「ごめん、なさい」
フレッド君の手の氷が全部溶けた。
「フレッド、手を動かせるか?」
フレッド君が無言で右手を開いたり閉じたりした。皮膚は赤くなっているけど、手の中までは凍ってなかった。レクスさんが「はぁぁ」と息を吐いてストン、とシャワー室の床に尻もちをついた。シャワーを出しっぱなしだから、レクスさんのズボンがどんどん濡れていく。
「レクスさん? 大丈夫?」
「無事だとわかったら、力が抜けた」
「レクス、ごめんな。ほんとうにごめんな?」
魔法使いによって、相性のいい魔法はそれぞれ違う。
フレッド君はきっと、水魔法や氷魔法と相性がいいのだろう。五歳の子供が教えた翌日に氷を出せるなんて、普通はないはず。前段階の水魔法でさえ、十歳までにできれば上等だとクローディアさんが言っていた。
私も気がついたら手が震えていた。氷の張り付いた場所が鼻や口じゃなくて、本当によかった……。
「まだ五才ですものね。こんなことになるって想像できないのは仕方ないです。これは氷魔法を教えた私の責任です。ごめんね、フレッド君。ごめんなさい、レクスさん」
「わるいのはオレだよ! ごめんなさい」
フレッド君がポロポロと涙を流した。
「いや、アナベル・ヴェルマイアからの手紙を読んで聞かせた僕の配慮が足りなかったんだ」
文通相手のアナベル様の手紙?





