91 私の出番
レクスさんとアナベル様を閉じ込めた水の球は、上に空気を蓄えた状態で浮かび上がってきた。大きな水の球は桟橋の上までスルスルと動いてからパチンとはじけた。
バシャシャッと大きな音を立てて水が池へと帰っていく。
中にいた二人は桟橋の上に崩れ落ちて、レクスさんがゴホゴホと激しく咳込んだ。
「アナベル様!」
スパイクさんとクローディアさんが駆け寄った。うつ伏せに倒れたまま動かないアナベル様を、クローディアさんが抱き起こして水を吐かせている。侯爵夫妻が走ってきた。
「アナベルッ! しっかりしろ!」
「アナベルッ! アナベルッ!」
侯爵様が「医者を呼べっ!」と叫ぶ。遠巻きに見ていた使用人さんたちが走り回り、騒然となった。すぐにアナベル様がゴホッと水を吐き出し、紫色に変色した唇を動かした。声は聞こえないけれど、口の動きで「やめて」と言っているのはわかった。
アナベル様は部屋に運び込まれ、私たちは別の部屋に集まった。ベンジャミン君がずっと「僕があの子を捕まえていればこんなことには」と繰り返していて、スパイクさんに慰められている。
「君のせいじゃない。私もまさか彼女が命を捨てる覚悟だとは思わなかった。あんなことをするとわかっていれば、彼女に硬化の魔法をかけることもできたんだ」
「私だってそう。彼女を眠らせることができたのに、まさか飛び込むなんて。駄々をこねているだけだと思ったのは、私の大失敗よ」
額に手を当てているクローディアさんの肩にポンと手を置き、スパイクさんが私を見た。
「ニナ、ここからは君の出番だ。アナベル様が飛び込んだ理由を話さなかったら、君が真相を探ってほしい」
「アナベル様の同意が得られますかね」
「あんな行動を取らせてしまった魔法協会としては、アナベル様の同意を得られなくても記憶を探ってほしい。自ら死を望むなど、今後も含めて絶対にやめさせたい」
私は無言でうなずいた。
アナベル様は言葉を一切発しないそうで、ずいぶん長い時間を待って私が呼び出された。レクスさんが心配そうな顔で私を見ている。
「なぜ死のうと思ったのか、なぜあれほど自分の能力を隠そうとしたのか、探ってみます。これから同じことを繰り返さないように、そして彼女に自分の能力を受け入れてもらうために、全力を尽くします」
「上手くいくことを祈ってるよ」
歳の近いフレッド君を同行させたほうがアナベル様がしゃべるかもと、フレッド君も連れてみんなで行くことにした。
メイドさんに案内されて入った部屋で、アナベル様はぼんやりと目を開けて天井を見ていた。
侯爵夫人がその手を握っていて、侯爵様は離れた場所の椅子で憔悴したお顔で座っている。私はアナベル様の視界に入るところまで近づいて声をかけた。
「アナベル様、少しだけお手に触れることをお許しください」
アナベル様は視線を動かさないまま、小さな声を出した。
「あのまま私を死なせてくれたらよかったのに」
「アナベル! そんな恐ろしいことを言わないで!」
「お母様、私はもう嫁ぐこともできないし、お母様を喜ばせることもできない。役立たずなんです」
「何を言うの! あなたが生きているだけで私は……」
侯爵夫人がお顔を覆って泣き出した。侯爵様が「ニナ、頼む。アナベルの記憶を見てほしい」とおっしゃった。私はそっとアナベル様の手を取った。
流れ込んでくる記憶の中で、アナベル様は数えきれないほどの夜を怯えて過ごしていた。その背中には真っ黒な蝶の羽が生えている。
窓ガラスに映る自分の姿を見て、ある時は涙を流し、ある時は必死に羽をむしり取ろうとしている。
私は彼女の記憶に魔力や魔法関係の記憶がないか、過去にさかのぼって探した。
まだ十三歳だから、それほど記憶の海は広くない。
やがて、老女の記憶がたくさん出てきた。老女がこんこんと魔法使いについて語っている。
「魔法使いは普通の人間とは違う人たちなの。その証拠に、彼らは少しずつ姿が変わるのよ。目の色が変わったり、ツノが生えたりね。中には羽が生えて別の生き物になってしまう魔法使いもいるわ。あなたのお母様は王家の出身だから魔法使いを頼りにしているけれど、魔法使いに関わってはダメ」
聞いているアナベル様は幼いから、疑うことなく話を受け入れている。この老女はおそらく侯爵様の母親だ。顔立ちが侯爵様によく似ている。老女は繰り返し魔法使いについて誤った情報を孫娘に言い聞かせていた。
「魔法使いは姿が変化してしまうから、嫁ぐことなんてできない。男性だって妻を迎えることができない。人の目に触れない場所で死ぬまで寂しく暮らすの」
なんだこれ。どういう意図だろう。アナベル様は恐怖を刷り込まれただけじゃない。「兄と弟に魔力の気配が見えたら私に知らせなさい。こっそり遠くの別荘で暮らすよう、私が手配するわ。わかったわね?」
兄弟を裏切れと、告げ口をしろと言っている。
魔法使いについて散々恐怖心を刷り込まれていたアナベル様は、ある日、自分の背中に真っ黒なアゲハチョウのような羽が生えているのに気づく。そこからは恐怖と苦悩の日々だ。たいていは夜中に生えて朝が来ると消える。だが、羽の生える時間は決まっていなくて、アナベル様は昼間に羽が生えたらどうしようという恐怖で、あまり部屋から出なくなる。着替えの際もメイドを遠ざけるようになった。
なんて可哀想な。
誰にも羽のことを相談できず、悩んでいることさえ伝えられない。
その祖母が亡くなったお葬式の夜に、羽がまた現れた。アナベル様は夜が恐ろしくなり、眠ることも怖くなって、毎晩フラフラになるまで起きていた。
そしてある日、羽が生えた三歳くらいの黒い子供の噂をメイドから聞かされて絶望する。
羽の生えている黒い子供を歩き回らせているのは、眠っている間の自分だと察したらしい。
「記憶を見ました」
私はアナベル様から手を放し、ベッドから離れた場所で侯爵ご夫妻に見た記憶を全て伝えた。すると侯爵様は「母がそんなことを……」とおっしゃって、険しい表情のまま目を閉じた。
「母は魔法使いに偏見と嫌悪感を持っている人だった。妻ともずいぶんそのことでいざこざがあったよ。だがまさかアナベルにそんな刷り込みをしていたとは……。可哀想に。この子はどれだけ苦しみ怯えたことか」
そこから私たちに侯爵様が亡きお母様の過去を教えてくれた。
「母が子供の頃、両親が魔法使いに騙されたことがあると言っていた。しかしそんな経験があったにしても、アナベルにそんな話を繰り返していたのは我が母ながら許しがたい」
私たちは沈んだ空気のまま部屋を出ようとした。それまで黙っていたフレッド君が「でもさ」と声を上げた。
「オレはまほうつかいになるよ。まほうつかいはたのしいしかっこいいからな! ほら! みて!」
そう言ってペンペンを室内に出した。ペンペンはスイスイと室内を泳ぎ、アナベル様のベッドの上を通過しつつクルクルと飛んでいる。アナベル様が目を丸くして空中を泳ぐペンギンを目で追った。
私は「フレッド君、しまって。しまって。今、そういう場合じゃないから!」と慌てた。フレッド君は「なんでだ? ペンペンはすっげえかわいいのに」と真顔で言う。
アナベル様が「クスッ」と笑った。フレッド君に向けた目に、さっきよりも力が宿っている。
「私、ペンギンが大好きよ。ねえあなた、そのペンギンを私にもっとよく見せて」
「いいぜ」
フレッド君はアナベル様の枕の隣にペンペンを着地させた。