9 私の記憶
夜、自分の部屋に入って明かりをつけた。
この部屋の照明器具はスズランの花の形だ。白いガラスでできた五つのスズランの花が集まっているデザイン。
明るすぎず暗すぎず。アシャール城の照明器具を選んだ人は、私と好みが合う。
ベッドに横になると、いつも天井画に目を奪われる。
柔らかな水色の空。浮かぶ白い雲。飛び交う小鳥。祝福のラッパを吹きながら小さな翼で飛んでいるぽっちゃり幼児の天使。
この天井画が好き。このティールームとお城が好き。ずっとここで暮らせたらいいなあ。
でもレクスさんに恋人ができたら出て行く。メイドでもない女性が同居しているのは変だもの。
今日は子爵夫人が私の腕前を評価してくれた。レクスさんが亜麻色の髪を美しいと言ってくれて、私の料理を食べてくれた。占いにも興味を持ってくれた。
「今日はいい日だった」
そう声に出して微笑んだ。「毎日寝る前に自分で自分のご機嫌を取るんだよ」と、モーダル村のリリアさんに教わった。
私は三歳ぐらいの時にこのパロムシティで師匠に保護された。
モーダル村に住み始めても、しばらく無表情で言葉を喋らなかったらしい。
師匠の家にミルクを届けていたリリアさんはそんな私を心配して、母親みたいに料理や裁縫、髪と肌の手入れや家事のコツを教えてくれた。
お別れの挨拶をしたら絶対に私が号泣してしまうから何も言わずに出てきた。リリアさん、元気かな。そうだ、手紙を書こう。生まれてこの方一度も手紙を出したことも貰ったこともないけど、師匠とリリアさんに手紙を出そう。
電気を消してベッドに潜り込んだ。
私には親と実家の記憶がない。自分の記憶は探れないのだ。
師匠が私を保護した時、私は夜の繁華街を一人でふらふら歩いていたそうだ。師匠は私を警察に連れていき、仕事でパロムシティに滞在している間ずっと心配していたけれど、ついに親は現れなかったとか。
一度は施設に預けられた私を、師匠は引き取って育ててくれた。理由は、私の中に魔女の素質を感じたかららしい。
だけど私は、成長しても魔法は使えなかった。その代わり、人の記憶を見ることができた。
私が駅に向かうときすれ違った、あの黒髪の少女は今どうしているだろう。師匠のために家事をちゃんとしてくれているだろうか。
心配しても仕方のないことを考えるのはやめよう。
モーダル村での二十年間は楽しかった。それで十分。
朝日が昇るのと同時に起きた。昨夜もぐっすりと眠れた。
二人で使う部分の掃除をしてから、使っていない部屋を一日ひと部屋ずつ掃除する。そうしていれば、お城中をきれいに保てる。
朝の掃除を終えて庭に出た。小さな畑の野菜と薬草は元気だ。
野菜と薬草を収穫していると、レクスさんが出てきた。灰色のツヤツヤした生地のパジャマに紺色のガウンを羽織っている。あのパジャマは絹だろうか。
「おはよう。ニナは早起きだね」
「おはようございます。夜はランプの油とロウソクの節約のために早く寝るのが習慣だったもので」
「そうか。今日も仕事に行くんでしょ? どこで働いているの?」
「駅の近くの公園です」
「えっ。どこかの店を借りているのかと思ってた。危なくないの?」
「大丈夫ですよ。田舎で育った私を甘く見ないでください。足腰が丈夫で、悪者を振り切って逃げられます」
レクスさんは何か言いたそうな顔で私を見てから通りの方へと歩いていく。バス通りの近くに置かれた郵便受けまで新聞を取りに行くのだ。郵便受けはお城の前に置けばいいと思うけどな。
新聞を手にレクスさんが戻ってきた。
「あの、朝食なんだけど、僕の分もお願いしてもいい? 今後は食材費を僕が負担するよ」
「ありがとうございます。ではさっそく、一緒に食べましょう。その新聞ですが、なぜ郵便受けをお城の前に置かないんですか?」
「部外者がやたらに城へ近づかないようにだよ」
なるほど。レクスさんの答えはいつも論理的だ。
「朝食にしましょうか」
「うん。そのことで君に謝りたいことがあるんだ。君に初めてスープを勧められた時、素っ気なく断って悪かった」
「気にしていません。気が進まない時は食べなくてもいいんです」
レクスさんは「そうだね。ありがとう」と言って食べ始めた。
「さっきの話だけど、公園で柄の悪い人に絡まれたりしないの?」
「柄の悪い人はありませんけど、若い男性にお茶に誘われることはあります。『都会には優しい言葉で近寄って女性を売り飛ばす人がいるから気をつけろ』と村の人に言われましたけど、あんな優しそうな人たちが実は悪い人なんですかね。そうは見えなかったんですよね」
朝食は目玉焼きとソーセージと煮た豆。フォークで豆をすくっていたレクスさんがポカンとした顔をした後で「くっ」と笑った。
「若い男性がお茶に誘うのは売り飛ばすのが目的じゃないと思う。だけど用心するに越したことはないかもね。ニナはその……スレてなさそうに見えるから」
「スレてない……。それって田舎くさいってことでしょうか。わかってはいますけど、おしゃれに興味がなくて」
「僕は田舎くさいなんて言っていないよ」
「お気遣いなく。目玉焼きの焼き加減はこれでいいですか?」
返事がない。レクスさんは豆を食べながらテーブルに畳んで置いた新聞の見出しを見ていた。
一面の大見出しに『ミーガン鉄道 多角化戦略』と書いてあって、あの目力の強い男性の写真が載っている。写真の下には『時代の寵児』の文字。
あの人は時代の寵児なのか。レクスさんの投資先はダンテじゃなくてミーガンになるかもね。
私は新聞の話題には触れずに朝食を終えた。
庭仕事の道具をしまってある小屋から芝刈り機を引っ張り出してガラガラと派手な音を立てて芝刈りをしていたら、上から声が降ってきた。
「ニナ! 芝刈りは人に任せよう。君は城の中だけでいいから!」
「じゃあ、ずっと庭を管理していたっていうヨーゼフさんに連絡しますね!」
「うん。頼む」
それならと芝刈りをやめて着替えてから鏡を確認。
田舎くさい服装の私が映っているけど、いいのよ。私は仕事して腕を磨いて、一人前の魔女になりたいんだから。おしゃれしたところで見せる人もいないんだし。
バスに乗っていつもの公園に着くとコリンヌさんが待っていた。メイド服を着ていて買い物の帰りらしい。片手に重そうな布袋を提げている。
「あっ! ニナ! おはよう!」
「おはようございます。どうしたんですか?」
「奥様が『いい占い師を見つけてくれたから』って私にご褒美をくれたの。あなたにもおすそ分けしようと思って、お使いの帰りに待ってたのよ。はい、どうぞ」
コリンヌさんがくれたのはコロンとした形の手のひらサイズのパイが三つ。コリンヌさんは気さくで人懐こい。
「カスタードクリームパイよ。うちの料理人の自慢の品なの。食べてね。じゃ!」
「ありがとうございます。ごちそうさま」
パイをハンカチで包んで手提げにしまった。
そのあとは次々と恋占いのお客さんが来た。四人来て四人とも裕福そうな平民のお嬢さんだ。この人たちの間で私の噂が広まっているのかな。だとしたらありがたいことだ。
今日の分のノルマを稼いで、(さ、帰るか)と立ち上がったのは午後四時。
帰りがてらミルクを買うことにした。いつも利用しているミルク店に向かったのだけど、そこで意外な出会いがあった。