89 ヴェルマイア侯爵家
到着したヴェルマイア侯爵領は、広大な小麦畑が続いていた。さぞかし豊かな収益がある領地なのだろう。さすがは王女が嫁ぐ家だ。
お屋敷の門の前に三台の車が到着してスパイクさんが名乗ると、門番が素早く門を開けて招き入れてくれた。
車の鍵を使用人に預け、私たちは屋敷の中に入った。外から見ても豪壮なお屋敷だったけれど、内部は言葉を失うほどの豪華さだ。吹き抜けの玄関には渦を巻くような形のシャンデリアが取り付けられている。電気式のシャンデリアは緩やかに螺旋を描きながら三階部分まで続いていた。
各所に取り付けられている金具は全て金色で、それが下品になっていないところが歴史の重みとセンスの良さなのだろう。侯爵様の執務室も重厚な黒檀の家具と金色の金具で統一されていて、上品な調和を生み出していた。
「遠いところをありがとう。当主のルシウス・ヴェルマイヤだ。彼女が妻のエレオノーラ・ヴェルマイア。今回の依頼は妻の提案でね」
「魔法協会会長のスパイク・ローガンです」
四十代と思われる侯爵様は銀髪に青い瞳。背が高く、モデルか舞台俳優のように美しい男性だ。こちらを圧倒する気品がある。元王女のエレオノーラ侯爵夫人は繊細なガラス細工のような女性で、色が白く華奢。黒髪と黒い瞳が肌の白さを強く印象付けている。
スパイクさんが私たちを紹介してくれたのだけど、侯爵様はフレッド君のところで少し困惑していた。
「これから話す内容が幼い子供に聞かせていいかどうか」
スパイクさんが「他の部屋で待たせていただきなさい」とフレッド君に言い、フレッド君はほっぺを膨らませ唇を尖らせながらメイドさんに連れ出された。ドアが閉まるとすぐ、侯爵様のお話が始まった。
このヴェルマイア侯爵邸で、ここ二年ほどの間に妖精の姿が目撃されているのだそうだ。目撃されるのはいつも夜で、妖精は三歳児くらいの大きさ。一瞬だけ使用人に姿を見せるもののすぐ隠れてしまうという。
隠れる場所がないのに駆け付けると誰もいない。そんな状況が繰り返されているそうだ。
侯爵様は『妖精』と言っているけれど、私は別のものじゃないかなと思った。師匠は「幽霊は存在しない。幽霊と言われるもののほとんどは、人間の強い思念かその残滓だ」と言っていた。
「メイドたちは長らく仲間内での噂話に留めていたそうだ。だが最近、執事が目撃してね。セオドア、お前が見たことを話しなさい」
「はい、侯爵様」
執事さんは五十代。細身の長身で半分ぐらい白髪になっている茶色の髪を、きっちり撫でつけている。真面目そうな人だ。
「夜の十時過ぎにメイドの悲鳴が聞こえまして。私が声のほうに駆け付けましたら、小さな子供のような黒い影が見えたのです。廊下には常夜灯が一定の間隔で設置されております。見間違いではございません。私が駆け付けたら影のような黒い子供が走り去ったのですが、それがその……背中に大きな羽が生えていたのです。蝶々の羽でした」
思わず目だけ動かしてレクスさんを見た。レクスさんは顔を強張らせているけれど、私の方を見ない。
「蝶の羽を生やした子供が角を曲がったので、私が走って追いかけて角を曲がるともう、姿がなかったのです」
「そういうことだ。昔から『妖精は悪気なく人の命に関わるいたずらをする』という言い伝えがある。それを信じているわけではないのだが、かといって放置もできない。外に噂が広まる前になんとかしたいのだよ。エレオノーラは『こんな話を相談できるのは魔法協会しかない』と言うので今回依頼したわけだ」
スパイクさんがとても品よく微笑んで、「どうぞ我々にお任せください。今回は修行中の若者の同行をお許しいただき、感謝しております」と返事をした。それに対してエレオノーラ侯爵夫人が「私は魔法使いを大切にするようにと、両親に言い含められて育ちました。どうかよろしく頼みます」とおっしゃる。両親とはつまり、国王陛下と王妃様だ。
「王家の皆様には、長年ご愛顧いただいております」
魔法使いというよりやり手の営業マンみたいな返事をして、スパイクさんがうやうやしく頭を下げた。
私たちは侯爵家の中に部屋を用意された。宿を取るつもりだったレクスさんは「夜の出来事」と聞いて視線をやたら動かしていたが、今は明らかにホッとしている。ここまで来て現場を見逃すことにならなくてよかったね。
夕食はベンジャミン君の運転手さんも含めて七人で小ぶりな部屋で提供された。
「妖精もどきにすぐに逃げられてしまうなら、時間との勝負」ということになり、二階に私とフレッド君とレクスさん、三階にクローディアさん、四階にスパイクさんが寝ることになった。
私とレクスさんとフレッド君という戦闘能力がゼロに近い三人が二階になったのは、今まで妖精もどきが目撃されたのは三階と四階のみだからだと思う。
そんなことを考えていたら、レクスさんが私の部屋に来た。
「フレッドはよく寝ているよ。ニナはまさか寝ないつもり?」
「だってぐっすり眠ったら仕事にならないでしょう?」
「そう言うだろうと思った。僕の部屋においで。少しは寝たほうがいい。何かあったら起こしてあげるから」
「運転して疲れているのはレクスさんなのに」
「僕は明日の昼間に寝るよ」
「じゃあ、甘えようかな」
「どうぞどうぞ。じゃあ、お礼はこれで」
チュッと口にキスされて(ぐぬぬ。慣れない。恥ずかしい)と固まっていると、「もう寝なさい」と言われた。服は着たままで寝心地のいいベッドに横になり、(熟睡したら役に立てない)と思ったけど、たぶん三分かからずに熟睡したと思う。
肩を揺すられ、「ニナ、起きて!」と押し殺した声で目が覚めた。
「上の階が騒がしい。起きて」
無言で飛び起き、部屋を飛び出した。
上の階からかすかに人の声がする。階段を目指して走り、駆け上がる。三階に駆け上がったら、スパイクさんと鉢合わせした。スパイクさんの後ろにはクローディアさんがいた。
「ニナ、階段を誰かが下りていかなかったかい?」
「いいえ。誰も下りてきていません」
「あらそう、じゃあ、敵は姿を消す技を使えるってわけね」
「よし、明日はベンジャミンの出番だな。今夜は解散としようか」
クローディアさんが不満そうだ。
「スパイク、それじゃ時間がかかる。私が借眼魔法で使用人の部屋に入り込んで調べ出すわよ。使用人の誰かが関係しているはずだもの」
「この屋敷の使用人は全部で八十人を超えるんだよ。徹夜で全部の部屋を回って歩くつもりかい? それこそ効率が悪いよ。君が疲れ切ったところで妖精もどきが現れたら困る」
スパイクさんの判断で、明日になったらベンジャミン君が使用人全員の魔力の有無を確認し、魔力有りと思われる人の記憶を私が見ることになった。なぜ最初から使用人を調べなかったのかも説明してくれた。
「こんな騒ぎになった以上、使用人が原因なら解雇されるのは確実だ。できればそれは避けた上で、妖精もどきが出ないように手を打ちたい」
解せない思いで話を聞いていた私に、「敵は少なく味方は多く、というのが私のモットーなんです。こうして何らかの力で黒い人間を動かせる人だ。そんな人に恨まれたら、魔法協会にとっていいことはないからね」と微笑んだ。