80 豪華な夕食の席で
夜になって、夕食に向けてレクスさんが買ってくれたドレスを着た。王家の仕事用に買ったドレスではない。ホテルに泊まると決まってからまたレクスさんが買ってくれたドレスだ。淡いベージュで袖のない、スカート丈が足首まであるふんわりしたワンピース。ヒールがついたストラップ式のサンダルもベージュだ。
フレッド君も白シャツとベスト、紺色の蝶ネクタイ。可愛いし貴族みたい。レクスさんは夏用のスーツで髪をうしろに撫でつけて固めている。こちらは本物の貴族なので、豪華な食堂での違和感はゼロ。
リリーさんとエミリーちゃん、レスター君もおしゃれをしていて、六人の夕食が始まった。
前菜は淡い緑色のライムのゼリー。口に入れるとふわっと溶けて、爽やかな香りと酸味がした。私とフレッド君は思わず互いに見つめ合ってしまった。
「すげえうまい」
「美味しいわね」
フレッド君がごく小さな声なのは、リリーさんたちに気を使ったのか。ゼリーは三口くらいで終わってしまって、これをあと五皿くらい食べたいと思ったところで、小エビとカニのサラダが運ばれた。マリネした玉ねぎとセロリ、レタスの上にツヤツヤした小エビとカニの肉が飾られている。ドレッシングにたくさんの香辛料が使われていて、これも(あと五皿……)と思っているうちに食べ終わった。
骨付き牛肉のステーキはガーリックバターが添えられている。これも今まで食べた牛肉の中で一番の柔らかさと風味だった。子供たち用のステーキは食べやすくカットされていて、量も控え目だ。フレッド君のマナーは少しずつ教えていたおかげで問題はない。
言葉遣いはたまに教えていたものの、敢えて直してこなかった。レクスさんが「十歳までに言葉の礼儀を覚えればいい。普段は礼儀正しい言葉を使わなくたっていいんだよ。ただ、知っていると知らないとは違うからね」という方針だ。
私たちの席を担当しているウェイターさんは四十代半ばの男性で、子供たちのうち特にフレッド君に向ける視線が柔らかくて好感が持てた。こういう場所で働く人ならフレッド君や私が庶民なことは見抜いているだろうに、給仕されるときの動作や言葉をかけてくれるときの声の調子がとても温かい。
無難な会話が続き、レスター君とエミリーちゃんはずっと黙っている。大人の会話に割り込んでくることがない。察しのいいフレッド君も、それを見習っているらしくてずっと口を閉じていた。
だが、リリーさんが気を使ってくれたのだろう。食べやすくカットされたロブスターがテーブルに置かれている最中に、フレッド君に話しかけてくれた。
「フレッドはどんなことをして過ごしているの? ニナさんは働いているしレクスさんも忙しいから、昼間は寂しいのではなくて?」
「ジェシカがいるからさみしくない、です」
「ジェシカはメイドだよ。日中通ってくれているんだ」
レクスさんがそう説明して話は終わったかと思ったけれど、突然フレッド君が「オレはまほうのれんしゅうをしている」と真顔で言った。あっ! と慌てて(何かしらフォローしなくては)と思っている間に、エミリーちゃんが「嘘よ」と言った。
「パパが魔法使いはもういないって言ってたもん」
「うそじゃない。おれはまほうがつかえる。スパイクみたいなまほうつかいになる」
「スパイクって誰よ。聞いたことない」
「すごいまほうつかいだよ。まほうつかいはいる」
「いませんんんん」
エミリーちゃんが下顎を突き出して馬鹿にしたように言った。リリーさんは「エミリー! そういう言い方はよくないわ。おやめなさい!」とピシリと叱り、レクスさんは「フレッド、もうその話はやめなさい」と静かに、でも本気の声でたしなめた。
フレッド君は憧れのスパイクさんを否定されたのが不満だったのだろう。「ニナだってラングリナだってまほうつかいなのに」とロブスターのハサミを指先で触りながらつぶやいた。
レクスさんがさりげなく鉄道会社の話を始めて、魔法使いの話題はそこで立ち消えた。リリーさんが興味深そうに投資の話を聞いているが、私はそれどころではなかった。
なぜなら、たまたまフレッド君の隣にいたウェイターさんの背後に、半透明で歪んだ灰色の壁のようなものがザンッ! と立ち上がったからだ。今も壁は消えていない。ウェイターさんは言葉の壁を背負ったまま、笑顔で使い終えた皿を下げている。気のせいか顔色が悪いような。
さりげなく彼の背後に立ち上がっている壁の大きな文字に目を走らせた。
『メイリーン』『ラングリナ』が一番大きい。この人、師匠を知っている。しかもよくない思い出として心に刻み込まれている。メイリーンて誰だろう。
男性が厨房に戻り、みんなが無言でロブスターの身をレモンバターの器に浸して食べている。私も食べたが、味がよくわからない。
最後にデザートがきて、それは私も初めて食べるアイスクリームだった。
「アイスクリーム! 大好き!」
エミリーちゃんが嬉しそうに叫び、レスター君もさっそくスプーンを使って食べている。私も食べた。濃厚なミルクの味のアイスクリームは普段ならうっとりするところだが、気もそぞろなうちに全部食べ終えた。
料理を配っているウェイターの背後からはもう、壁が消えている。どうにか無難に夕食を終えて、私たちは部屋に戻った。レクスさんが私とフレッド君の部屋についてきて「ニナ、顔色が悪い」と心配している。
「あの人、師匠を知っていたわ。もしかしていなくなった『あの子』を連れ去った人じゃない?」
「あの人って?」
「ウェイターよ。消えた弟子がメイリーンて名前かどうか、師匠に確認したいの。一緒にいてくれる?」
「いいよ。フレッド、知らせの鳥を出せるか?」
「だせる」
フレッド君が「ペンペン」とつぶやくと、ホテルの部屋に空飛ぶペンギンが現れた。フレッド君が「ラングリナ」と唱え、ペンギンは消えて、すぐに緑色の小鳥が現れた。
『どうした?』
「師匠、消えた師匠の弟子って、メイリーンていう名前ですか?」
『そうだが……メイリーンがどうかしたのかい?』
「今、ラグダールのホテルに来ているんですけど、そこの従業員の男性が師匠の名前を聞くなり、背後に言葉の壁が立ち上がったんです。その壁に『メイリーン』と『ラングリナ』という名前がありました。連れ去りの犯人じゃないかと思って」
『男の外見は?』
「年齢は四十代、茶色のまっすぐな髪と茶色の目です。身長は……百八十センチはないと思う」
『レクスはそこにいるのかい?』
「僕はここにいます」
師匠はレクスさんに細かくあれこれと指示を出した。
「わかりました。このホテルは僕の兄が支配人をしているので、兄と僕で動きます。警察も呼びます」
『そうしておくれ』
緑の小鳥が消えてフレッド君の魔法も終了になった。
「兄と話をしてくる。ニナとフレッドの魔法のことも話すことになるけど、いい?」
「はい。かまいません」
レクスさんが大股で部屋を出ていった。