79 リゾートホテル
公園で働き貴族からの依頼もこなして、私の生活は今までと同じ静かなものに戻った。
八月の下旬になり、私たちは列車を乗り継いでマクシミリアン様が支配人を務めるリゾートホテルに到着した。マクシミリアン様は少し日焼けをしていて、以前お会いしたときよりもお元気そうだ。
「レクス、来てくれて嬉しいよ。ニナとフレッドもありがとう。疲れただろう。部屋に案内するよ。冷たい飲み物を運ばせよう」
私たちが案内された部屋は、私とフレッド君用の部屋とレクスさん用の二部屋。フレッド君に対するマクシミリアン様の態度はごく自然だ。
こちらに向かう列車内でレクスさんが説明してくれたのだけど、マクシミリアン様は奥さんや娘さんにフレッド君のことを『レクスが気に入って引き取った子』という説明をしているらしい。
今もフレッド君の父親が誰なのかは不明だけれど、レクスさんが引き取って育て、マクシミリアン様が養育費を援助する方向で話は完全に落ち着いたらしい。それでよかった。いまさらフレッド君を引き取ると言われたら私が困る。
提供された部屋は豪華で広く、壁と天井が真っ白な漆喰で塗られている。床も白い大理石だ。ソファとベッドカバーのエメラルドグリーンが清々しい。窓からは海が見える。ゴツゴツした岩が海面から顔を出し、沖には漁船が浮かんでいる。砂浜もあるが、海水浴客は少ない。私の視線に気づいたマクシミリアン様が説明してくれた。
「ホテルの宿泊客だけが使える浜だから、混雑しないんだ」
なんて贅沢な。マクシミリアン様は忙しそうで、「私はこれで失礼するよ。ゆっくりくつろいでくれ」と言ってすぐに部屋を出た。運ばれてきた冷たく濃厚なジュースは、初めての味だ。マンゴーのジュースだと言っていた。
ずっと黙っていたフレッド君が私の袖を引っ張った。
「オレ、ここにきてよかったのか?」
「もちろんよ」
「あのおじさんをなんてよべばいいんだ?」
「マクシミリアン様でいいと思う」
母親に「お前の父親だ」と言われた人を様付けで呼ばせるのはどうなんだろうと、私は散々悩んでいた。レクスさんは「僕がフレッドだったら、そんなことより旅行に行きたいと思うけど。そもそもフレッドは兄上に懐いていないし、兄上に対してなんの思い入れもないよ」と断言した。
様呼びを提案してフレッド君の反応を窺っていると、「なまえがなげえな」と言っただけで窓から見える海に気を取られている。
「一緒にあの岩場まで行かない? 私、海は初めてなの」
「オレもはじめてだ。うみにはいりたい」
「水着に着替えて入りましょうか」
「レクスは? レクスもいくか?」
「僕も連れて行ってくれよ、フレッド」
レクスさんがわざと情けなさそうに言うから、私とフレッド君は笑ってしまう。
海岸には小さくてカラフルな小屋が並んでいて、受付の人に小屋の番号が書いてある鍵を渡された。ここで着替えたり休憩したりするらしい。
パルムシティで買った水着は三人とも紺色で、フレッド君は膝上までのズボン、レクスさんは膝下までのズボン。私の水着はハイネックのブラウスみたいな上着と足首までの細身のズボン、さらに共布の膝丈スカートというデザインだ。
フレッド君がすぐに海に入って、「つめてえ! みずがしょっぱい!」と叫んではケタケタ笑っている。「ニナ! いま、カニがいたぞ!」と目を真ん丸にして驚いている姿も可愛い。連れてきてよかった。今回のような高級ホテルじゃなくていいから、この子を毎年海で遊ばせたい。自分以外の誰かの笑顔でこんなに幸せな気持ちになれるなんて、フレッド君と暮らすまで知らなかった。
ふと、「お前の母親のような気持ちでいた」という師匠の言葉を思い出した。
「ニナ? どうした?」
私と並んでフレッド君を見守っていたレクスさんが顔を覗き込んできた。
「フレッド君が幸せそうだと、私まで満たされた気持ちになるんです」
「僕もだよ。君の師匠も同じ気持ちでニナを育てたんじゃない?」
「この前、師匠に『母親のような気持ちでいた』って言われました。私、初めて師匠をおかあさんて呼んだんです」
「そうだったのか。よかったねぇ」
レクスさんがそっと私の肩を抱いて、私は緊張せずにレクスさんに寄りかかることができた。
「僕から見てもラングリナは君の母親そのものだったよ。ニナへの愛が全身からあふれていた」
そう言われてほのぼのしていたら、近くから声をかけられた。
「レクスおじさま!」
振り返ると上品な女性と兄と妹らしい二人の子供がいた。声をかけてきた少女はフレッド君と同じくらいの歳だ。
「やあ、エミリー。久しぶりだね。義姉さん、挨拶が遅れてすみません。夜にでも声をかけようと思っていたんだけど」
「いいんですよ。私たちは出かけてばかりいるから。あなたがニナさんね? はじめまして、マクシミリアンの妻、リリー・ローゼンタールです。今夜一緒に食事をしましょう。夫は忙しくて無理だと思うけど、私たちだけでもお話をしたいわ」
「はい。ありがとうございます」
その会話に少女が割って入った。
「おじさま、あっちに行きましょう? ジュースが飲みたいの」
「ぼくたちは今来たばかりなんだ。また今度にするよ」
レクスさんがそう答えると、少女は私を見てから浅瀬にいるフレッド君を見た。フレッド君は視線に気づくと「カニがいるぞ。つかまえてやろうか?」と少女へ無邪気に声をかけた。
「いらない!」
険しい顔でそう言うなり、少女はワンピースの裾を翻して向こうへと歩き出した。
「ごめんなさい。エミリーはレクスさんが大好きだから、やきもちを妬いたんだと思う。叱っておくわ」
リリーさんは柔らかい笑顔を私とレクスさんに等分に向け、エミリーちゃんを追いかけた。
少年が残って、私に話しかけてきた。
「ニナさんはレクス叔父様の恋人なんですよね?」
「そうだよ」
私が答える前にレクスさんが答えた。
「あの子は誰?」
「フレッドだ。そのうち僕の息子になってもらえたらいいなと思ってる」
「ふうん。そういえば、おばあさまが喜んでいましたよ。『やっと女性とお付き合いする気になったのね』って」
「そうか……。レスター、教えてくれてありがとう。おかあさんを追いかけなさい。迷子になるよ」
レスター君は「はい」と言って素直に立ち去った。フレッド君は岩の間で腰まで海に浸かっていたけれど、海から上がって私の隣に来た。いつの間に捕まえたのか、親指と人差し指で小さなカニの甲羅を摘まんでいる。
「まほうでカニをうごかせたらよかったな」
「どうして?」
「カニがダンスしたら、あのこ、わらってくれただろ?」
あんな素っ気ない態度を取られたのに? ……この子、きっと無自覚にモテ街道を突っ走るわ。そう感心していたら、レクスさんが小声でつぶやいた。
「僕は今、フレッドに天賦の才を感じたよ」
「ふふふっ」
本気で言っているから笑ってしまった。