77 お城に帰ろう
いい匂いで目が覚めた。隣に師匠がいない。急いで台所に向かうと、ハッキリと懐かしいスープの香りが濃くなった。
「師匠、おはようございます」
「おはよう。スープを作っておいたよ」
「すみません、寝坊しちゃって」
「いいんだよ。ニナのことだから毎日日の出に起きて働いているんだろう?」
「光熱費の節約です」
「ニナにお金の苦労はさせなかったはずなのに、なんでそんな倹約家に育ったかね」
それは私の問題だ。師匠の家を出たら行き場がないという不安で、お金は心の支えだった。
スープの鍋に向かい合っている師匠に、後ろから抱きついた。師匠が使っている自作の薬草入り石鹸の清々しい香りを吸い込んだ。
「師匠、もし怪我とか病気をしたら、絶対に知らせの鳥で教えてくださいよ? 一人で何とかしようとしないでくださいね?」
「わかった。でもね、ニナ。私を理由にして帰って来ちゃだめだよ? もし喧嘩することがあっても、レクスと二人でよく話し合いなさい。お前は魔法以外の全てに諦めが良すぎるから心配だよ」
「大丈夫。ちゃんと話し合います」
「それを聞いて安心したよ」
レクスさんの声が背後から聞こえて、「ひゃっ」と変な声が出た。バッと振り返ると、椅子に座ったレクスさんが私を見てニコニコしている。いるのに気づかなかった。
「僕が声をかける前にニナが師匠に抱きついたから、声をかけそびれてしまった」
「この子は甘えん坊なんだよ」
「へええ」
「二人ともやめて」
師匠に甘えているのを見られた恥ずかしさで、思わず顔を覆った。
その後はフレッド君も参加して朝食になった。私と師匠はフランチェスカさんの家を訪問する予定だ。レクスさんが電報を打ってくると言って車で出かけた。
「まめな男だねえ。それでね、今日はニナが進行役を務めなさい。フランチェスカは憎しみに囚われているような気がするよ。会話の主導権をフランチェスカに渡してはいけない」
「はい」
レクスさんが戻って来て、午後一時にエルム子爵家を訪問したい旨を電報で送ったそうだ。「あちらの都合が悪ければ帰って来りゃいいよ」と、師匠はうなずいた。
ジェシカさんが出勤するのを待って、私と師匠はバスを乗り継いでエルム子爵家を目指した。レクスさんが送ると言ってくれたけれど、師匠が「あの文様の解読を優先しておくれ」と言って断った。
子爵家に着くと先日の部屋にすぐ案内された。フランチェスカさんの顔色は悪く、土気色だ。エルム子爵がベッドの脇に座っている。
「こんにちは。急にお邪魔して申し訳ありません」
「お願いした件はどうなりましたか? 父から、私と母の記憶を消せましたか?」
いきなりぶつけるように質問されて、師匠の「会話の主導権を渡すな」という言葉を肝に銘じた。
「マイヨールはもう他人の記憶に干渉できなくなりました。この先は裁判が開かれ、おそらく何年も収監されます。記憶の操作ができない以上、拘置所を脱走することはできません。なので記憶の消去は必要ないかと思います」
「そういう問題じゃないの。私が記憶を消してほしいの。気持ちの問題なんです! あの人と一生関わりたくないし、母のことも心配だわ」
「マイヨールの同意を得られれば記憶を消しますが、同意がなければ消すことはできません」
「なぜ犯罪者の同意が必要なんですか!」
興奮したフランチェスカさんをエルム子爵がなだめたが、興奮は治まらない。
「母に暴力を振るったんですよ? 宝石も盗んだのでしょう?」
「宝石の件では刑に服すことになりますし、フランチェスカ様が生まれる前のことで記憶を消すのは過剰な制裁になります。申し訳ありませんが、私はお金と引き換えに同意しない誰かの記憶を消すことはいたしません」
「どうしてですか! あの人が刑務所を出たら、またここに来るかもしれないでしょう? 父の記憶を消してください!」
「護衛に対応させてください。魔法使いはお金で動く処刑人ではないのです」
師匠が立ち上がった。
「ニナ、帰ろう。もう十分だよ」
「待って! 消してよ! 父から私たちの記憶を消しなさい!」
フランチェスカさんが叫んだが、私たちは部屋を出た。
バス停まで並んで歩きながら、「父親から自分の記憶を消してほしいと訴える娘」について考え込んだ。なぜあんなにも執拗に自分たち母娘の記憶を消せと言うのだろう。
バスに並んで乗り込んでから師匠に聞いてみた。師匠は困ったような顔をしてから「本音を話すにはいい機会かね」と前置きしてから話し始めた。
「努力した人や苦労した人を、私たちは無意識に応援したくなる。『きっといい人だ』と思う。そう思いたいんだ。でも、人間はそんなに単純じゃない。ニナはフランチェスカの記憶を見たのかい?」
「見ました。母親と二人で地方にいたときは、貧しいにもかかわらず優秀だったゆえに妬まれ、学院に合格してからは身分の低さと貧しさで何度も馬鹿にされていました。でも彼女は一度も言い返さず勉学に励んでいました」
師匠は「はぁ」とため息をついた。
「無言で耐えた悔しい記憶は消えにくいんだよ。貧しさも身分もフランチェスカにはどうしようもないことだ。なのにどうしようもないことで繰り返し傷つけられた。その無念な記憶は心の中に静かに降り積もって硬い根雪のようになる。今回、それが彼女の我慢の限界を超えたんだろう。彼女の本音は、自分が苦労する原因になった父親の……存在自体を消したいんじゃないかね。貧しい母と子の生活から抜け出すために学問に励んで、思いがけず子爵の妻になった。今の幸せに影を落とすマイヨールの存在が我慢ならないんだと思うよ」
父親に死んでほしいと願っているってこと?
私たちはバスを乗り換えて、今度は駅に向かった。
「ニナ、これからもたくさんの人と触れ合いなさい。人間の心は美しくて醜い。私は他人の心を読めないけれど、それを何度も思い知った。お前は心を読めるから、私の何倍も苦しむだろう。だけどね、人間に絶望しないでおくれ」
「絶望なんて……」
「ニナの心にだって雪は降り積もる。でも、今はレクスがいる。きっとレクスはニナの心に降る雪を溶かしてくれるよ」
師匠が私の手を握った。
「私の可愛いニナ。心を正しく保って生きなさい。決して人間を嫌わないようにね」
可愛いニナなんて初めて言われたから、嬉しいよりも不安になった。
「師匠? なんで今生の別れみたいなことを言うんですか?」
「お前を手放してから、ずっと寂しかったよ。でも、もうニナは巣立ったんだと受け入れなければね。レクスと仲良く暮らしなさい」
「レクスさんと仲良く暮らしますけど、師匠は師匠のままですよ?」
「そうだね。私が勝手に……お前の母親のような気持ちでいただけだ。ニナ、楽しい二十年間だった。ありがとう」
師匠が? 母親のような気持ち? 混乱しているうちにバスが中央駅に着いた。
「私の可愛いニナ。これからは、最初に頼るのはレクスにしなさい。いつかまたアシャール城に遊びに行くよ」
そう言って師匠は背中を向けた。泣きながら見送っている私を、周囲の人がチラと見ては通り過ぎていく。
「おかあさん」
小さくなっていく背中に向かって、初めてそう呼んでみた。幼い日に「私のことは師匠と呼びなさい」と言われたときから、おかあさんと呼ぶことは許されないのだと思っていたけれど。
「おかあさん! また来てね! 待ってるから!」
師匠は、いや、おかあさんは、振り向かなかったけれど右手を上げてくれた。
紺色のワンピースと白髪の三つ編みが見えなくなるまで見送ってから、涙で濡れてしまった顔をグイと拭った。
私はアシャール城へ向かうバスに乗り込んだ。