50 前髪越し
フレッド君に「羽を見たい。飛びたい」と言われてカレンダーを見た。
新月と満月の日には小さく印をつけてある。
「羽を見せるだけなら家の中でできますけど、フレッド君を抱えて空を飛ぶのは新月の夜じゃないと」
「しんげつってなんだ?」
「お月様が見えないことです。明るい時に空を飛ぶと、人に見られます。騒ぎになってしまうんですよ」
「しんげつはいつ?」
「次の新月は七月二十六日の夜ですね。今日は七月十日なので、あと十六回寝たら新月の夜が来ます」
フレッド君が両手の指で数を数えていたが、絶望したような顔で私を見上げた。
「ダメだ。てのゆびじゃたりない」
「ふふ。十六日なんて、すぐに過ぎます。その日が雨じゃないといいですね」
「十六かいねても、あめだったらダメなのか?」
この世の終わりみたいな顔が可愛くて、思わず抱きしめた。
「大丈夫。この先何回でも新月の夜は来ます。二十六日までカレンダーにバツ印を書きましょう。この日の夜がお楽しみの日です」
「オレがバツをかく!」
「ええ、お願いしますね」
「はねは、いまみられる?」
「ええ。でもかなり大きな羽なんですよ。見ても驚かないでくださいね」
ウンウンと興奮した様子でフレッド君が足をジタバタさせている。よかった。怖がられるのだとばかり思っていたのに。
「では」
二人に身体の側面を見せる向きに立ち、羽をイメージした。
次の瞬間、声にならない驚きの声、みたいな気配を感じた。
今まで羽を出す瞬間を見せたことがあるのは師匠だけだった。二人の反応は? と恐る恐る首を回して二人を見た。フレッド君はもう私の後ろに来ていた。レクスさんは目をぱちくりして固まっている。
「さわってもいいのか? そっとさわればいいのか?」
「いいですよ。どうぞ」
フレッド君が恐る恐る触っている。
「うわあ、でかいな! かっこいいぜ! ニナのはね、すっげえきれいだ!」
「ありがとう」
「ニナ、僕も羽に触っていいかな?」
「どうぞ」
ふたりとも、繊細なガラス細工に触れるかのように、指先で触っている。
羽には神経が通っていないみたいで、羽に加えられる振動などを背中で感じるけれど、羽自体はくすぐったさも感じない。
「思ったより厚みがある。服の上から生えているんだね。これはどうなっているの?」
「羽は私の背中にくっついているんです。どういう仕組みなのか、師匠も不思議がっていました。動かして見せましょうか?」
「ぜひ」
二人に離れてもらってから、ゆっくり羽を動かした。
「うごいた! すげえ!」
「優雅な動きだね。本物の蝶々みたいだ」
しばらくゆっくりと羽を閉じたり開いたりして見せた。
「質問したいことが山ほどあるんだけど。頭の中を整理して後でまとめて聞いていい?」
「どうぞ。でも、私がわかっていることはそれほどないんです」
「うん、わかる範囲でいいんだ」
しばらくして「はい、ここまで」と言って羽をしまったけれど、フレッド君の興奮は覚めない。ベッドに入って眠るまで、ずっと興奮していた。
フレッド君が寝てから、レクスさんと二人でワインを飲んだ。
この習慣はレクスさんが「できるだけ毎日、二人の時間を持ちたい」と言って始まった。
眠る前に二人でおしゃべりすると、とても穏やかな気持ちで眠れる。
羽についての質問はまだ頭の中を整理中だそうで、感想だけを聞かせてもらった。
「羽を近くで見たらすばらしく美しかった。ちゃんと翅脈もあって驚いたよ。今度の新月の日、僕もニナと一緒に飛びたい。雨が降らないといいなあ」
「雨になったとしても、新月の夜はまた来ますから」
「フレッドと同じ慰められ方をされた!」
「あはは」
ひとしきり笑った後で、私はアン・シャーレイの話を持ち出した。
彼女がモデルの仕事をしている様子を見てから、胸の中がモヤモヤすること。彼女の人生なのに、なぜか自分が傷ついたこと。
「私には何も言う権利がないってこと、頭ではわかっているんですけどね」
「それね、僕も経験あるよ。大学時代に友人の家に招かれたときのことなんだけど。友人の父親がとても優しくて温厚な人だった。友人とも楽しそうに会話していてね」
レクスさんが少しだけ苦笑した。
「そのとき、猛烈に友人が羨ましかった。なんの努力もなしに、彼はこんな幸せを享受しているんだと妬んだ。でもすぐに、貴族に生まれた自分がこんなことを思うなんて、とも思った。今はね、友人みたいになりたいとは思っていない。『友人の父親みたいになりたい』と思っているよ。優しい父親の息子に生まれるかどうかは運次第だけど、優しい父親になれるかどうかは僕の努力次第だ」
「そうですね」
私は「頑張ってくださいね」と言おうとして口を少し開けたところで思いとどまった。
もしかしてその優しい父親の隣にいるのは私ってこと? と思ったからだ。そこに気づいたら、レクスさんの顔を見られなくなった。
「いつの日か、僕は優しい父親になるよ」
「ええ」
そう返事をしてから(ええ、ってどんな答えよ! でも気の利いた返事が思いつかない!)と焦った。
「今夜はそろそろお開きにしようか」
「はい」
「グラスは僕が片付ける。貸して」
レクスさんが立ち上がって、私のグラスを受け取った。そして両手にグラスを持ったままスッと上半身をかがめ、私の額に唇を置いた。(えっ)と思っているうちに、レクスさんは台所へと去ってしまった。
(うわぁ。レクスさんが戻って来る前に!)と素早く階段を上がった。
ベッドに腰かけてもまたドキドキしていて、(うわーうわー)と慌てていたけど、よく考えたら私はもう二十三歳だったわ。世間じゃ子供が三人や四人いてもおかしくない歳だった。
そう自分を落ち着かせようとしたけれど、前髪越しにそっと置かれたレクスさんの唇の感触を思い出してなかなか眠れなかった。