5 ウィリアムさん
ウィリアムさんに飲ませた丸薬は、実は蜂蜜と小麦粉を蜜蝋で固めただけのものだ。本当の薬ではない。しかし不思議なことに人間は、「薬を飲んだ」という安心感で体調が良くなることもある。ウィリアムさんはすぐに眠りに落ちた。
二階から私が使っている毛布を持ってきて掛けたから、私は今夜、毛布なしだ。埃避けに使われている例の白い布を被って寝よう。使わない布団も干しておけばよかった。今度、全部のお布団をお日様に当てよう。そうしないと、何かあるたびにベッドや寝具に困る。
ウィリアムさんは着ている服が上等だ。この人も貴族なのかな。レクスさんの友人なら貴族だろうね。
師匠は「貴族のプライドはクリスタル山脈くらい高い。貴族と関わる時は言動に気を付けな。貴族同士の繋がりはとても強いから、怒らせると厄介だ」と言っていた。
しばらくして自動車の急ブレーキの音がして、「先生、こちらです!」と切迫したレクスさんの声が聞こえた。
肝心のウィリアムさんは熟睡していてなんだか申し訳ない。
予想通り、レクスさんとお医者さんはクゥクゥと寝息を立てているウィリアムさんを見て拍子抜けしている。
「ニナ、これは……普通に眠っているのかな?」
「そうだと思います。不眠症で、限界を超えるとこうなるとおっしゃっていました。先生にせっかく往診していただいたのに、申し訳ありません」
「いやいや、何もないのが一番ですよ」
年配のお医者様は「せっかく来たんだから、一応診るよ」と言って、ウィリアムさんの目を見たり口を開けて喉の奥を覗きこんだりしている。そして「うん、大丈夫だね」という言葉を残して、再びレクスさんの車に乗って帰った。
レクスさん、おなか空いてないかな。肉だけって、案外おなかが空くような気がするんだけど。
しばらくしてエンジンの音がした。今度は静かに車を止めてレクスさんが帰宅した。
レクスさんは眠っているウィリアムさんを見おろして、「ただの寝不足であんなふうに倒れるかね。いったい何日寝ていなかったんだ?」と漏らした。
不眠症は身分に関係ないけれど、体を酷使する庶民には少ない。やっぱりこの人も貴族だろう。
「私、すぐには眠れそうにないのでミルクを温めて少しだけ甘くして飲みますけど、いかがです?」
「温かくて甘いミルクか。子供の頃以来飲んでないな。頼んでもいいかい?」
「もちろん!」
この人の気が変わらないうちに温めよう。少し何かおなかに入れたほうがいい。レクスさんの夕食は昼の残りの豚肉だけだったもの。
大急ぎでミルクを鍋に入れ、少しの蜂蜜を加えて沸騰する前に鍋を火から外した。
「どうぞ」と差し出すとレクスさんは「ありがとう」と言ってミルクを飲み、「懐かしい味だ」と笑っている。笑うと優しそうな顔になった。
静かな居間に、ウィリアムさんの寝息だけが聞こえる。
「騒ぎに巻き込んで悪かったね。彼はウィリアム・クリステンセン。編集者で子供のころからの同級生なんだ。以前彼の勧めで小説を書いたことがあってね。それが予想外に売れたものだから、また頼みたいらしくて」
「レクスさんは小説を書きたくないんですか?」
「うーん、どうかな。僕の本業は別にあるからね」
どうかなってどういうことだろう。本業って学者のことかな。
二人ともミルクを飲み干したのでレクスさんのカップを受け取って洗った。
「かまどの石炭を暖炉に移しておきます。暖炉の前で寝てください。では、おやすみなさい」
「ありがとう。おやすみ」
翌朝、台所に入る前に居間を覗くとウィリアムさんとレクスさんはまだ寝ていた。
かまどに石炭を放り込んで火をつけ、お湯を沸かした。レクスさんは買ってある何かを食べるのだろうけど、ウィリアムさんはここで朝食を食べるかな。食べるよね。
質素な食材しかないけれど、我慢してもらおう。
パンが一枚しかないし卵も二個しかない。小麦粉と糖蜜ならあるからパンケーキを焼こう。
村の女性に教わった方法でパンケーキを焼くことにした。卵の白身を泡立ててから黄身を混ぜて、粉とミルクを混ぜる焼き方。師匠は「そんな手間をかけてまで膨らませなくていいのに」と言いながらも好んで食べてくれたっけ。
パンケーキが焼けたところでウィリアムさんが台所に入ってきた。とても顔色がいい。
「いい匂いだ」
「おはようございます。パンケーキが焼けましたが、いかがですか?」
「大好物だ。いただくよ。おい、レクス、昨夜は悪かったな。寝不足が続いていてさ」
レクスさんも台所に入って来て、「はぁ」とため息をついた。
「ウィリアム、押しかけた家でいきなり倒れて眠るって、ずいぶんな話だぞ? 第一、そんな睡眠不足の状態で車を運転をしたら危険だ」
「そうだな、気をつけるよ。それにしてもこんなにぐっすり眠れたのは何年ぶりだろう。彼女のくれた薬が効いたようだ。ねえ君、ここが嫌になったら僕の家においでよ。僕はウィリアム・クリステンセンだ。ここより好条件を保証する」
「おい、いきなりなんの話をしているんだ?」
「彼女が飲ませてくれた気付け薬と丸薬が素晴らしく効いたし、優しく手当してくれたの気に入ったんだ。うちのメイドたちはあんな親身になって心配してくれないよ。『具合が悪いならお医者様を呼びますか?』って言うだけだ。レクスにはちゃんとベテランのメイドを紹介するから、彼女を引き抜かせてくれ」
レクスさんは戸惑った顔をしているものの止めてくれない。決めるのは私ってことかな。
「私はこのお城に住みたいですし、自分の仕事があるんです。仕事の腕を磨きたくて田舎から出てきたので、ウィリアムさんのメイドにはなれません。申し訳ありません」
「仕事って?」
「まあ、いろいろです」
「なにか小遣い稼ぎをしているの? じゃあ、その分の賃金を上乗せしよう」
粘るね!
私はレクスさんの目を見て(あなたの友人なんだから、角が立たないようにあなたが断ってください!)と心で訴えた。どうやらレクスさんはわかってくれたようだ。
寝起きで乱れている髪をかき上げながらウィリアムさんに意見してくれた。
「ニナには掃除を頼んでいるけど、メイドじゃないんだ。掃除をする代わりにここで暮らすのを許可しているだけだ」
「うん? それはメイドってことだろう? ニナ、本気で考えてみてくれ。悪いようにはしない」
「私にはやらなければならないことがあるので、お断りします」
そのあともウィリアムさんはパンケーキを食べながらもメイドの話を粘っていたけれど、食べ終わるや否やレクスさんに追い出されるようにして帰された。
レクスさんは玄関のドアを閉めるなり、くるりと振り返って真顔で私に質問した。
「ねえ、薬って何のこと? ウィリアムに飲ませた薬を僕に見せてくれる?」