48 レディ・バサーストの依頼
居間に案内されたレディ・バサーストはゆったりと上品な感じに動いているが、目の動きに落ち着きを欠いているように見えた。
私がお茶を運ぶと意外なことに温和な感じで話しかけてきた。
「ありがとう。そしてあなたも同席してほしいの。ええと?」
「ニナ・エンドです」
「さぞかし厚かましい女だと思ったでしょうに、こうして迎え入れてくれたことを感謝します。今日はレクセンティウス様とあなたにお願いがあって訪問しました。どうか最後まで私の話を聞いてください」
「どうぞ。僕たちは聞くことしかできませんが」
レディ・バサーストのお願いは意外な内容だった。
親の決めた相手と十九歳で結婚した彼女は、弁護士の勧めにより事前に結婚契約を交わしていた。契約の内容は三つ。
お互い、外に愛人を作らないこと。
愛人を作った場合は決められた慰謝料を払い、離婚に応じること。
子供が生まれていた場合、親権は愛人を作っていない側に渡ること。
夫は結婚七年目にこっそり愛人を作ったが、夫の雰囲気でそれを察したレディ・バサーストが調査員を雇った。
結果、愛人の存在が発覚して、慰謝料と一人息子の親権を手に実家に戻った。
だが、実家は彼女が結婚している間に居心地が悪くなっていた。
両親は離婚し、実母は家を出て再婚。父も再婚していて、年若い義母があからさまにレディ・バサーストと息子に迷惑そうな目を向ける。
「父の持ってくる再婚話を断り続けたけれど、それもそろそろ限界なの。かといって私が家に居続けるのも世間体が悪いから許さないと言うんです。再婚しないなら相続の対象から外すと言われました。おそらく義母の考えね。だから、レクセンティウス様には、私の再婚相手の振りをしてほしいの。実際に結婚の届けを出す必要はありません。婚約者でいてほしいの」
淡々と説明しているけれど、無理あるでしょ? 親にすぐ嘘がバレるでしょ?
そう思ってレクスさんを見ると、腕組みをして考え込んでいる。あれ? 今の話に考える余地、あった?
「つまり、バサースト侯爵家の遺産相続人から外されたくない。だけど再婚する気もない。という理解でよろしいですか?」
「ええ。そのとおりよ。わかってくださるでしょう? 息子のためなんです。もちろんレクセンティウス様には相応のお礼をします。どうかお力をお貸しください。ああ、もちろんニナさんにも別途報酬をお支払いします」
「申し訳ないが、僕はその依頼は受けられません。ニナの心を傷つけたくないんです。心の傷はお金では治せないんですよ」
するとレディ・バサーストは「意外な言葉を聞いた」という顔をした。
「あなたならきっと応じてくれると思っていたのに」
「昔の僕なら、もしかしたらね。今はもう、人の心を傷つけるようなことはしたくないんだ。それに、君たちに相続問題が起きるまでなんて。そんな長期間、婚約者の真似を続けるなんて無理な話だ」
「長期間ではないわ。父はもう七十歳で、長年の喫煙のせいで呼吸器に問題があるの。国立病院に入院中で、最新の装置で酸素吸入を受けているわ」
「だとしても。僕は引き受けられない」
「レクセンティウス様、どうしても引き受けてもらえませんか?」
「はい」
レディ・バサーストは「ふうぅぅ」と息を吐いてから私を見た。
「ニナさん、あなたの意見は?」
「本当に遺産相続のためだけですか? 他に理由があるのでは?」
「……あなたのことを少し調べたわ。占いができるそうね」
「はい」
「私と息子の今後を占ってくださる?」
「ええ。では、手をお借りします」
彼女の表情に、レクスさんへの思慕の情は見られなかった。だからずっと不思議に思っていた。
手に触れると、彼女の記憶が流れ込んでくる。ほとんどが息子さんの記憶で占められている。
息子さんは病気だ。全ての記憶がベッドに横たわっている様子で占められている。
医者に「我が国では手の打ちようがないけれど、他国では最新の治療が行われているので、もしかしたら」と言われている。
だが治療費は彼女が受け取った慰謝料の何倍もの費用がかかる。とんでもなく高額だ。
眠る息子さんの顔を眺めながらレディ・バサーストは幾夜も泣いている。
「あなた様が一人で治療費を捻出しなければならないのでしょうか。息子さんの父親に頼る手はないのでしょうか」
レディ・バサーストはギョッとして私を見たが、すぐに心を建て直した。
「息子が苦しんでいるときに、外の女性と楽しく過ごすような人に頼れと?」
「それはご夫婦の問題であって、病気の息子さんを巻き込むのはどうなのでしょう。父親なんですもの、治療費の相談をしてもいいのでは? 息子さんのために、あなた様のプライドはいったん脇に置くという方法もあると思います」
庶民がわかったようなことを言うなと激怒されるかと思ったけれど、レディ・バサーストは唇を噛みしめてホロホロと涙をこぼした。
「それが最善の策なのはわかっているわ。でも、どうしてもあの人を許せないのよ」
「元の旦那様も息子さんのことで苦しんだ挙句に、現実から逃げたのかもしれませんよ? 自分の行いを後悔しているかもしれません。浮気を許せと言っているのではないのです。離婚すれば夫婦は他人になりますが、息子さんと元の旦那様は、今も親子なのを忘れないでください」
「わかっているわ。それも何度も考えた。あの子のためなら、私のプライドなんて捨てればいいのはわかっているの。でも……」
レディ・バサーストは両手で顔を覆って、肩を震わせている。
私とレクスさんにはしてあげられることはない。
どうか息子さんの治療を第一に考えて話し合ってほしい。それは口に出すまでもないこと。
やがて彼女は小さなバッグから占いの料金にと言って銀貨を取り出して私に握らせた。それからハンカチで涙を抑えると、スッと顔を上げて立ち上がった。
「ここに来てニナさんに会ってよかった。そうね。息子の治療のためなら、あの人に頭を下げるべきね。レクセンティウス様、お騒がせしました。わかっていた答えに向かい合う勇気が出たわ」
「いい方向に進むことを祈っています」
「機械みたいだったあなたを変えたのは、ニナさんね。以前よりずっと人間らしい。では、これで失礼します」
誇り高いレディ・バサーストは、背筋を伸ばして優雅に歩いて玄関に向かった。
二人で並んで見送ってから、レクスさんがぽつりと言葉を漏らした。
「僕、機械みたいだったのか。だからあんなお願いをされたんだろうか」
「レディ・バサーストが知っているレクスさんは、そうだったのかも」
レクスさんはわかりやすく落ち込んでいる。「仕事をするね」と言って部屋に入ってしまった。
彼女が帰ったのを窓から見たらしく、フレッド君が下りてきた。
「おわったのか?」
「終わりましたよ。お茶とお菓子にしましょうか」
「レクスはこうげきされたのか?」
「んー、少し」
「すこしか。それならいいや」
フレッド君と二人でお茶とクッキーを楽しんだ。
あの少年はフレッド君と同じくらいの年齢に見えた。失うまで気づかないものだけど、健康に生きているというのは、本当はとてもとても素晴らしいことだ。
なんだか切なくて、隣でクッキーを食べているフレッド君を抱きしめた。
「なんだよぉ。どうしたんだよぉ」
「急に抱きしめたくなったんです。もう少しだけこのままでいさせてください」
「すきなだけギューしていいぜ」
人の数だけ、世の中には苦しみがある。
それでも私たちは生きていく。苦しくても、悲しくても。
レディ・バサーストとその息子さんに、笑顔の日々が戻りますように。