46 「たくさんの人と触れ合いなさい」
レクスさんとフレッド君はだいぶ遅い時間に帰ってきた。
「なんだよぉ、ニナァ。いっしょにかえるってやくそくしたのにぃ」
「いいんだ、フレッド。ニナを待たせてしまったよね。僕たち、火事に巻き込まれてしまってね。警察にいろいろ話を聞かれて遅くなったんだ。たぶんニナは帰っていると思っていたさ」
「こうえんまで、みにいったんだぞ」
「ごめんなさい。すっかり約束を忘れて帰ってきてしまいました。畑の野菜でクリームシチューを作ったから、今夜はそれを食べてください。本当にごめんね」
レクスさんとフレッド君は羽の話を持ち出さない。
なぜなら火事の現場での私に関する記憶を取り出したから。他の人たちの記憶も、ドアのところで見送る前に取り出しておいた。
道路に集まっていた群衆には見られたけれど、あの距離じゃ私の顔はわからないはず。
とはいえ、空を飛んで人を運んだのだ。騒ぎになるのは覚悟している。
三人で夕食を食べて、フレッド君は早々と寝た。
今、私とレクスさんは食器や鍋を洗っているのだが、レクスさんが静かに話しかけてきた。
「ニナ、僕の記憶を消した?」
うっ?
洗っていたコップをあやうく落とすところだった。ゆっくりレクスさんに視線を向けると、眼鏡の奥の目が真剣だ。
「どうしてそう思うんです?」
「僕の記憶が部分的に欠けているんだ。アーネストビルディングで火事が起きて、僕とフレッドは他の人と一緒に屋上に逃げた。その次の記憶は、隣のビルにいるところからだ。おかしいでしょ?」
「おかしいですね」
「どうやって隣のビルの屋上に移ったのか、何も覚えていないんだよ。でも通りから目撃した人は多数いた。火事場見物の人たちは、蝶の羽が生えている女性を見たらしいよ」
「へえ……」
「警察で待たされている間、救助された人たちに聞いて回ったんだ。みんな僕と同じだった。気がついたら隣のビルの屋上にいたと言っていた。そんな記憶の操作ができる人って、ニナしかいないと思ってる」
私は(どうしたものかしら)と思いながら、無言でゴシゴシとコップを洗い続けた。
するとレクスさんが「それ、もう十分きれいだよ」と言って泡だらけのコップを私の手から取り上げてすすいでいる。
「実は僕、階段を下りかけたんだけど、『なんでここにいるんだ?』と思って屋上に戻ったんだ。そうしたら羽を生やした君が、屋上から飛び降りるところだった。驚いて屋上の縁まで行って下を覗いたよ。君は羽を消して悠々と立ち去った」
うわぁ、見てたの!? どうしよう。なんて言う? なんでレクスさんは羽を見たのに落ち着いているの?
「見て……どう思いましたか?」
「美しいと思った。青みがかった蝶の羽も、ニナの行動も。僕に羽のことを教えてくれなかったのは、どう思われるかわからなくて不安だったから?」
「ええ……そうですね。白状しますけど、運んだ全員から私に関する記憶を消しました。後のことが怖かったんです」
「そうか。蝶の羽が生えているニナは、とても美しかったよ。天使よりも美しかった。明日の新聞には、君の姿が大きく載るかもしれないね。あれだけたくさん見物人がいたんだ。一人くらいカメラを持っていてもおかしくない。でも、顔は写らないと思うよ。通りからでは距離がありすぎた」
あっ、そうか。レクスさんの記憶から、カメラマンが私を撮影していた記憶も消えているか。
「もし私だと特定されたら面倒なことになるでしょうね。レクスさんにご迷惑をおかけしないで済むよう、なんとかします」
レクスさんがそっと私の手首を握った。見上げると、レクスさんの瞳が不安そうに揺れている。
「ここを出て行かないって約束して」
「ここに新聞記者が来るかも」
「その時はここを売って、三人でどこか外国に行ってもいい」
「そこまで?」
「明日の新聞を見てから考えようか」
「そうですね。明日の新聞次第で」
翌朝、日の出とともに起きて、ポストまで出向いた。すぐにレクスさんも来て、二人で新聞を待った。
やがて配達用の小さい荷馬車が来て、配達の青年が「おはようございます」と言って新聞を渡してくれた。
レクスさんがバッと新聞を広げた。
一面には大手製紙会社の株価が大幅に上がったことが書いてあり、あの火事の記事もあった。煙が出ているアーネストビルディングの写真もあった。だけど私の写真はない。
二面、三面とレクスさんが新聞をめくるけれど、結局全てのページに私の写真はなかった。
ただ、「有害な煙で幻覚か。蝶人間を見たと主張する人が多数」という小さなコラムがあった。
「はああああ。よかったあ。君の羽は本気にされていない」
そう言ってレクスさんが息を吐いた。私も気が抜けた。
あのカメラマンは、全部の写真を失敗したのだろうか。私の力では記憶は消せても写真は消せない。あの男性は何枚も写真を撮っていた。一枚くらい成功していそうなものなのに。
もしかして……師匠が『祝福』を封じ込めたあの葉っぱが、私を守ってくれたのだろうか。
だからナスタチュームの葉っぱは、真っ黒のボロボロになったのかもしれない。
「さ、朝食にしよう」
「はい。卵とベーコン、畑の野菜のサラダ、あとは夕べのシチューとバターつきパンで」
「いいね。安心したとたんに急におなかが空いた」
そうだ、レクスさんは私の告白も覚えていない。だったら今、伝えなきゃ。
レクスさんが勇気を出して告白してくれたように、私も気持ちを伝えなきゃ。
「レクスさん、私、燃えているアーネストビルディングに向かって走っているときに……」
「うん」
「何度も繰り返して、『お願い神様、あの二人を私から奪わないで』と祈りました」
レクスさんが足を止めた。ほんのわずか口を開けて「え?」と言っているような顔で私を見ている。
「私、レクスさんたちに何かあったらと考えただけで泣きそうでした。羽を見られてもいいから、レクスさんとフレッド君を助けようと思ったんです」
「うん……それで?」
「それで気づきました。私もレクスさんが好きです」
しばらく無言だったあとでレクスさんが、「僕はニナにもリンダさんにも鈍感で無神経だったのに、そう言ってくれてありがとう」と静かな声で言った。
「元気を出してください。リンダさんのことはレクスさんに悪意はありませんでした。リンダさんを傷つけたことでレクスさんも苦しんでいるじゃないですか。そんなレクスさんを批判できるのは、人生で一度も人を傷つけたことがない人だけです。そんな人、いますかね」
動かないレクスさんと手をつないで引っ張ったら、レクスさんが大人しく歩きだした。
「いろんなことを許してくれて、ありがとう。同じ間違いはもうしないよ。リンダさんには謝った。自分の愚かさを心から謝罪したよ」
私はリンダさんに対して後ろめたくて申し訳ないけれど、つないでいるこの手は放したくない。
誰かの悲しみと背中合わせに自分の喜びが成立しているとき、人はどうやって気持ちの折り合いをつけているんだろう。
師匠が「できるだけたくさんの人と触れ合いなさい」と言ったのは、「こういう経験を積め」ということだったのだろうか。
私とレクスさんは手をつないだまま、糸杉の小道をアシャール城へと戻った。
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仕事でバタバタしているので、少しお休みします。
すみません。
この先はニナたちのさらなる活躍が待っています。お楽しみに。