45 美術展
突然の告白から数日後、リンダさんが再び公園に来てくれた。
「レクセンティウス様に、『僕は研究のことしか頭になかった。もし君に誤解させたのなら、僕が愚かで鈍感だったせいだ』と頭を下げられちゃった。レクセンティウス様は気の毒なぐらい平謝りしていたわ」
「そうですか……」
「研究熱心なのを私に熱心なんだと勘違いした私も悪かったのよ。あの見た目で伯爵家の令息で、あれほどの熱意で女性に迫る人なら、独り身なわけがないのよ。そこに気づくべきだった」
「あー……」
「レクセンティウス様に注意してくれたのはニナでしょう? ありがとう。盛大に勘違いしたままあの方を母国に連れて行ったら、大恥をかくところだったわ。親の反対を押し切って留学したのによそ見をしたから、罰が当たったのかもね」
リンダさんはそう言って笑って去った。かっこいい人だと思った。
私は複雑な気持ちで彼女の背中を見送った。
翌日、朝ごはんを食べているときに、レクスさんが今日の予定を話してくれた。
「今日はジェシカが風邪で休みだそうだから、フレッドと美術展に行ってくる」
「どこまで行くんですか?」
「駅の近くのアーネストビルディング。十二階の展望室が会場なんだ」
「確か、展望室の下には展望レストランがあるビルですよね?」
「うん。帰りに迎えに行くから、公園で待っていてくれる? 一緒にそこで食事しよう」
「はい」
あれからレクスさんの態度は変わらない。私はいつものように仕事に出て、いつものように働いた。
公園の時計が五時半になり、(レクスさんたち、遅いなあ)と思っていたら、遠くからたくさんのサイレンが聞こえてきた。どこかが火事らしい。
嫌な予感がして、バッグだけをつかんで見通しがいい大通りまで走った。
「うそ……」
レクスさんとフレッド君が行っているはずのアーネストビルディングから、真っ黒な煙が出ている。それも、最上階のひとつ下の階、展望レストランからだ。私は全力で燃えているビルを目指して走った。
(お願い神様、あの二人を私から奪わないで。お願い、お願い、お願い!)
かなりの距離を走った。アーネストビルディングの周囲は見物人で大変な混雑だ。
消防車は何台も来ているけど、火事の場所が高すぎる。レストランは十一階だ。はしご車だって、あんな場所には届かない。
「屋上に人がいるぞ!」
その声で上を見た。屋上で何人もの人が手を振っている。
(レクスさんとフレッド君が、あそこにいるかもしれない)
人混みを離れ、人目につかない場所を探した。どこだ。どこがいい? 早く助けに行かなきゃ。
火事見物の人の流れに逆らって路地へと走り、人がいない建物の間に入った。周囲を確かめ、バッグを置き、羽を生やして高く高く上昇した。
「見て! なにあれ!」
「人が飛んでいるぞ!」
下から驚きの声が聞こえてくる。気づかれたか。もうこの街にはいられなくなるかも。
燃えているビルに近づいたら、風で煙が吹き寄せてきた。胸の悪くなるような悪臭だ。息を止めてさらに強く羽ばたき、煙の層を突き抜けた。もう少しで屋上だ。
私が屋上に降り立つと、屋上にいた十人ほどの人々が悲鳴をあげて私から逃げた。
わかってる。羽が生えた人間なんて怖いし気持ち悪いよね。
その中にレクスさんとフレッド君がいた! 二人は手をつないで私を見ている。
「私が皆さんを隣のビルまで運びます!」
そう言っても全員が動かない。だめか、と思ったところでフレッド君が走ってきた。私にギュッと抱きついて、「ニナ?」とささやいた。続いてレクスさんも来た。
「ニナにはねがはえてる」
「説明はあとよ。フレッド君を運ぶから、私の首に手を回して」
「わかった」
私はフレッド君を抱きかかえた。
「フレッド君、いくよ。しっかり首につかまって。絶対に離さないで」
「はなさない!」
しがみつくフレッド君を抱きかかえてコンクリートの床を蹴った。背後でバシャッと音がして、何かが光った。
何だ? いや、今は気を散らしちゃだめだ。
全く問題なく隣のビルの屋上に降り立った。これなら大人でも余裕で運べる。
屋上出入口のドアノブに手をかけると鍵はかかっていない。
「レクスさんを運ぶまで、動かないでここにいて」
「わかった!」
そのまま再びアーネストビルディングへ。今度はわらわらと私に人が集まってきた。
若いお母さんが「この子を運んでください! お願いします!」と言って二歳くらいの女の子を差し出した。
「わかりました。でも、あなたも一緒に。私の首につかまって」
他の人たちが「私も!」「僕も!」と叫んだけど、子連れの人が優先だ。左腕に女の子、右腕に母親を抱えて飛び立った。
またバシャッと音がして、近くで何かが光った。
振り返ると、私の写真を撮っている人がいた。
「写真を撮らないで!」
そう叫んだけれど、男性は忙しくカメラを操作しながら、また撮影した。
レクスさんがその男性に詰め寄っている。私は女の子と母親を抱えて飛び立った。
親子を隣のビルの出入り口の前に下ろし、「階段を下りて外に出て」と声をかけた。
再びアーネストビルディングに飛び降りた。子供の次は年配の人。
何度もアーネストビルディングと隣のビルを往復し、撮影を続けているカメラマンも運んだ。「私の写真をばら撒かないで」と言ったけど、カメラマンは返事をしない。
最後はレクスさんだ。アーネストビルディングの屋上出入り口から、もうもうと煙が漏れ出てきている。
「お待たせしました。さあ、飛びますよ!」
屋上の床を蹴った。空を飛びながら空中でレクスさんに話しかけた。
「ここに来る途中、レクスさんを奪わないでって、本気で神様に頼みました。私、レクスさんを好きだったみたい」
「……今?」
「あはは。ですよね」
隣のビルに下りると、フレッド君が「レクスー!」と言いながら駆け寄ってきた。先に運んだ人たちはもういない。
「ニナはどうするの?」
「私のことはご心配なく。早く階段を下りて外に出てください」
そう言ってレクスさんとフレッド君の手をギュッと握った。二人が階段を下りるのを見送ってから私は屋上の縁に立ち、人がいなさそうな路地を目がけて飛び降りた。羽のおかげでふんわりと着地して、手に持っていた記憶の欠片は素早く捨てた。
全員の記憶から、今の私の記憶だけを抜き取っておいた。
そのあとは公園に戻って看板を回収して、バスに乗った。もう今日は働けない。さすがに疲れた。
「あれ?」
ペンダントにしていた銀メッキのナスタチュームの葉が、真っ黒に変色してボロボロになっている。
一緒に帰る約束をしていたことは、家に帰るまですっかり忘れていた。
◇
展覧会を取材に来た新聞社のカメラマンのビリーは、暗室で首を傾げている。
「あれ? こんな写真、いつ撮ったんだっけ?」
現像した写真はどれも、ビルの屋上から空中を撮っている。そんな写真を撮った覚えがない。しかも写真の中央に、真っ白な光だけが映っている。全ての写真がそうだ。
「この光、なんだ?」
一緒に現像していた他のカメラマンが覗いて笑った。
「火事に遭遇して火事の写真を撮らないのも問題ですけど、なんですかその失敗写真は」
「こんな写真を撮った覚えがないんだよ」
「隣のビルの屋上にいた理由もわからないんですか?」
「思い出せないんだ」
「噂ですけど、蝶の羽を生やした女性がビリーさんたちを運んだそうですよ。集団ヒステリーですかね?」
「蝶の羽って。まさか」
ビリーはもう一度真っ白い光の球が映っている写真を見た。
自分が何を撮ろうとしたのか、どうしても思い出せなかった。