44 心の中の暴れ馬
レクスさんの記憶を見ると、二人は深夜のバーにいた。
バーの片隅でレクスさんは、書類を読みつつリンダさんの話も聞き、メモをとっている。
どの記憶もそう。レクスさんは研究のためにリンダさんと会っていた。
レクスさんの心には浮ついたところがない。だけどリンダさんはとても嬉しそうで、表情が恋をしている乙女だ。
レクスさんはこの表情に気づいていないのか。
「リンダさんと、バーで研究の話をしていたんですね」
「そうだよ。遊んでいたわけじゃない。バーを選んだのは、夜遅くまで空いている店がそこしかなかったからだ」
「勘違いして申し訳ありませんでした。でもリンダさんはそう思っていませんよ? その気がないなら期待させたら気の毒です」
「今は君のことを話しているんだよ。リンダさんに何か誤解させたなら、明日僕が本人に直接謝る。本人がいないところでこの手の話をしたくない」
うん、それはそうね。
「話を戻すけど、ニナは壁を作って人を寄せ付けないところがあるよね」
「そんなことは……」
「そんなこと、あるよ。ここを出て行こうと決める前になぜ、僕に相談してくれなかったの? 僕に何かしらの気を遣ったんだろうけど、そんな気遣いは逆に悲しいよ。僕に伝える努力もしないで、さっさと出て行くのがニナの正解なの?」
「正解」という言葉を聞いた瞬間、カッとなった。私の『心の中の馬』が『冷静さ』を振り落とした。
「じゃあ、言います。私には後がないんです。モーダル村を出た日から、私は何が何でも自分の力で生きていかなきゃならないんです。親はいないし師匠の家にはもう戻れない。今はレクスさんの優しさに甘えてこの城に住んでいる。毎日深夜までレクスさんがリンダさんと一緒だと知っているのに、平然とここに居座れるほど私は図太くありません」
落ち着け。興奮してはだめだ。でも暴れ馬を止められない。声が大きくなってしまう。
「レクスさんに『悪いけど出て行ってくれないか』って、言わせたくなかったし言われたくなかったんです。私にだってプライドはあります。出て行くときは笑って出て行きたいの!」
「出て行けなんて言わないよ。リンダさんとはなんでもないんだし」
「リンダさんはそう思っていませんよ。でもそれはレクスさんとリンダさんの問題だから、私は口を出しません。それより……」
深呼吸をした。
「最初にレクスさんと会った日、私は野宿を覚悟しました。今夜は野宿かなと怯えた経験なんて、レクスさんにはないでしょう? レクスさんと出会ってから、私は住む場所の心配が消えたことはありません。私の不安をわかってくれなくてもいいですけど、私の不安をレクスさんの物差しで測らないでほしい。私の正解は私が決めます!」
レクスさんに感謝して暮らしてきたことを今、自分で台無しにした。
台無しにしてもまだ、私の心の中の馬は暴れている。
「出て行こうとしたのは自分を守るためです。それに、私が出て行けばみんなが平和で幸せだと思ったんです」
「全然平和でも幸せでもないよ。ニナが出て行ったら、僕は悲しいし寂しい」
心の中で暴れている馬が、後ろ足で立ち上がったまま「ん?」と戸惑う。
「ニナの事情を考えずに腹を立てた僕が悪かった。毎日遅くなる理由も、もっと詳しく説明すればよかった。本当にごめん。何度でも謝るから、出て行かないでほしい」
「なぜレクスさんが謝るんですか。勘違いしたのは私なのに」
「ニナに出て行かないでほしいからだよ。ニナが好きなんだ」
暴れ馬が、「はい?」と驚く。
「ニナが僕を大家としか見ていないのはわかってる。大家にそんなことを言われたら困るだろうと思って、言い出せなかった。だけど出て行くって言うなら言うよ。僕はニナが好きだ。どうしたらニナに好きになってもらえるのか、ずっと必死だったよ」
好きになってもらおうと必死? 気づかなかったんですけど?
「リンダさんに誤解させたのなら、明日必ず謝る。そんなつもりはないと伝えるよ。どんな非難も受け止める」
突然の告白で、どう返事したらいいのかわからない。
私が突然、リンダさんの恋を踏み潰す人になった。
うわあ、どうしよう! これ、どうしたらいいんだ!
リンダさんに合わせる顔がない。レクスさんにも、なんて返事をすればいいんだ!
「ええと……落ち着きたいのでコーヒーを一杯淹れていただけますか?」
「コーヒーを淹れたら出て行かないと約束してくれる?」
「コーヒーの引換券が大きすぎませんか……」
一拍置いてからレクスさんが「フッ」と笑った。
「たしかに大きすぎた。ごめん」
「暴れ馬はもう落ち着きましたから、安心してください」
「暴れ馬?」
「いえ、なんでもないです。私、レクスさんをそういう目で見たことがなくて……」
「知ってる。だから何も言えなかった。でも、これからは僕を恋愛対象として見てほしい。どうしても男として見られないなら、諦めて大家に徹する」
それはお互いに気まずくて無理なのでは。
「こんなことを言われた後で、と思うのもわかってる。だけど今言わないと一生後悔するから」
「一生? ちょっと待ってください。私、混乱して……」
「今、柄にもなく粘っている自覚はあるよ。正直、ニナのこととなるとどうしたらいいのか、どうしたらダメなのか、わからないんだ」
そう言ってレクスさんが私から視線を外した。
いつもはクールなレクスさんが、今は気弱で恥ずかしがり屋で不器用に見える。
フレッド君は『レクスはぶきようなおとこだぞ』と言っていたっけ。
レクスさんが瓶からコーヒー豆をスプーンですくってミルに入れた。豆を挽くゴリゴリという音を聞いて(お湯を沸かさなきゃ)と立ち上がった。石炭に火をつけようとして、自分の手が震えているのに気がついた。私、物心がついてから、人に対してこんなに大きな声を出したことがなかったものね。
「今の今までレクスさんは別の世界の人だと思っていたんです」
「そうだろうね。そんな気はしていた」
カップ二杯分の水はすぐにシュンシュンと沸いた。
「大学時代にね、女性と仲良くなろうとして必死な友人たちを心の底で呆れて見ていたんだ。なんであんなに女性に夢中なんだろうって思ってた。だけど彼らは正しく階段を上っていたんだ」
「階段?」
「大切な人を手に入れる階段だよ。僕の友人たちは何度も失敗して痛い思いをしながら学んでいたんだなって気づいた。友人たちを呆れて見ていた僕は今、階段の一番下だ」
レクスさんがしおしおとうなだれている。
「リンダさんが僕をどう思っているのか気づかなかったよ。彼女がニコニコしていたのは、僕と同じで研究の話が楽しいのだとばかり……。ウィルが僕を冷酷鈍感人間と言ったのは、こういうところだね」
冷酷ではないと思うけど、鈍感ではあると思う。
でも、しょぼくれているレクスさんを見ているとなぜか、(おお、よしよし。元気出して)という気持ちが強烈に湧いてくる。
なにこれ。
「レクスさんのことを男性として好きになれるのかどうか、今はお返事できません。少し時間を貰えますか?」
「うん。今はピシャリと断られないだけで十分嬉しいよ。ありがとう」
羽のことを言うべきだろうけど、それはまだ勇気が出ない。言えば見せてくれと言うだろう。
あの羽を師匠以外の人に見せる勇気が……ない。
ところが後日、そんなことを言っている場合じゃなくなることが起きた。