37 金庫
私が「抱き人形の中」と言ったら、伯爵家のみなさんが同時に壁の飾り棚を振り返った。
金髪巻き毛の青い目の抱き人形が、絵皿や飾り箱などと一緒に棚で足を投げ出して座っている。
ルパートさんが走り寄って、グニグニと人形を揉んだ。
「ある! なにか細長くて硬いものがありますよ父上」
ルパートさんが人形の背中から手を入れて鍵を取り出すと、夫人がルパートさんから鍵を受け取って老婦人の手にその鍵を握らせ、伯爵が口を老婦人の耳に近づけて話しかけた。
「母上、鍵がありましたよ。鍵が欲しかったんでしょう?」
老婦人がわずかに顔をゆがめた。違う。欲しいのは鍵じゃない。
私は我慢できずに伯爵に声をかけた。
「鍵が欲しいんじゃなくて、そのカギで金庫を開けて、中に入っているものが欲しいんだと思います」
「金庫なんて母上は持っていたか?」
「いいえ。お義母さまの部屋に金庫なんてありませんわ」
「このくらいの大きさで鉛色の金庫です」
伯爵夫妻が私を怪訝そうに見た。ええい、もう怪しまれてもいいわ。早くしないと間に合わない。
金庫の場所がわかるような何かが私には見えたはず。自分が見た大量の記憶を必死に思い出した。
金庫は布が被せられていた。老婦人は屈んで布をめくって金庫を開け、紐で縛った手紙の束を金庫に入れていた。
「金庫は低い位置にあって、レースの縁飾りがしてある布が掛けられています。その中に手紙の束が入っています。大奥様は、それが欲しいのです」
「それならわかります」
小さな声を出したのは、壁際に控えていた若いメイドさんだ。
「どこだ?」
「大奥様の衣裳部屋の、帽子の箱を積んである一番下にございます」
「僕が取ってきます、君も来て」
ルパートさんが鍵を受け取って、メイドさんと一緒に部屋を走り出た。
二人を見送って、伯爵夫人が私に話しかけてきた。
「ニナさん、あなたは本当にすごいわね。キッドマン子爵夫人から『怖いほど当たる占い師がいる』と教わった時は、話半分くらいに聞いていたの。でも夫のこともそうだったけれど、今回も本当にすごいわ」
「ありがとうございます」
夫人は涙ぐんで大奥様の手を握り、顔を見つめた。ルパートさんのご兄弟らしい男性二人も泣いている。
「お義母さまはとても穏やかで優しい人なの。私のことも子供たちも可愛がってくれたわ。『鍵、鍵』って繰り返しているのに何のことかわからなくて。あなたが来てくれて本当によかった。お義母さま、しっかりしてください。もうすぐ手紙がきますよ」
そこへルパートさんが戻ってきた。
「持って来ました!」
ルパートさんが持ってきた手紙の束を、伯爵様が大奥様の胸の上で手に握らせた。老婦人の表情が穏やかになって、皆がホッとしている。少ししてパタリと胸の上から落ちた。
「母上!? 母上っ!」
さっきまで上下していた老婦人の胸が動いていない。
伯爵夫人が静かに泣き出した。伯爵も、伯爵の息子たちも。
メイドさんも執事さんも、みんな泣いている。お別れの場に部外者は不要だ。
私はそっと立ち上がって部屋を出た。
部屋の隅で涙を押さえていた執事さんがついてきて「ありがとうございました。これを」と硬貨が入っている袋を渡してくれた。その執事さんにまた別のメイドさんが近寄って何かをささやき、それを聞いた執事さんが私に「ローゼンタール様がお待ちです」と告げた。
レクスさんが迎えに来てくれたのか。フレッド君も一緒かな。
役に立ててよかったという気持ちと、臨終に立ち会った悲しみ、穏やかな最期だったなという気持ちが混ざり合って、私はなんだかとても疲れていた。
案内された部屋に、レクスさんとフレッド君がいた。
「仕事は終わったの? 疲れているみたいだけど、大丈夫?」
「ニナ、ないたのか?」
「大丈夫です。少し疲れました」
「さあ、一緒に帰ろう。甘いものを買って帰ろうか」
「そうですね」
「オレもあまいもの、たべたい」
「よし、ケーキを買って帰ろう」
後部座席でフレッド君の手を握った。小さな手が温かくて癒やされる。
着いたのは高級菓子店だ。
「ニナが食べたいケーキを選んで」
「はい」
三人で店に入ると、ガラスのショーケースにホールケーキが何種類も並んでいる。
ケーキの上にはいろいろな果物が豪華に飾られていて、果物がキラキラ光っているのは何か塗ってあるらしい。
庶民が行く店ではなかなか見られない華やかなケーキばかりで圧倒される。
「ニナ、どれがいい?」
「上に果物がたくさん載っているのがいいです」
ケーキを買ったあとはパン屋さんでサンドイッチも買って、お城に帰った。
私がぼんやりしていたら、レクスさんが大皿にケーキを載せてテーブルに出してくれた。
紅茶も淹れてくれて、フレッド君にはミルクを出してくれた。レクスさんはケーキを丁寧にカットして、配ってくれた。今日はいつもより働いている。私に気を遣ってくれているんだと思う。
ローストポークのサンドイッチを食べてからケーキを食べた。
果物がたっぷり載っているケーキは底がタルトになっていた。タルトのザクザクした食感。その上にスポンジとカスタードクリーム。
ホイップクリームで包まれた上には桃のシロップ煮、生のイチゴ、イチジクのシロップ煮やミントの葉がきれいに飾られている。
カスタードクリームは卵のいい香りがする。濃厚なケーキは疲れた心に染みわたる美味しさだ。
「オレ、こんなうまいケーキ、はじめてたべたぜ」
「私も。美味しい。ありがとうございます、レクスさん」
「なんで泣いていたのか、教えてくれるかい? 仕事のことは言えないのかな」
「いえ。グランデル伯爵のお母様の御臨終に立ち会ったんです」
「伯爵の……。そうだったのか」
「大奥様はいい思い出に包まれて旅立たれましたよ」
最期に手にしていたのはおそらく、亡き夫からの恋文の束。
そこからは意識して関係ない話をした。
バスの車掌さんが毎朝声をかけてくれること、公園に行くとほぼ毎日お客さんが待ってくれていること。
甘いお菓子は確かに疲れた心をなだめてくれた。
食べた後は早々と部屋に引き上げて、フレッド君と手をつないで横になった。でも全然眠れそうにない。
私は誰かを好きになったことがない。
村には若い男性が少なかったし、私は魔女になれるかどうかに必死だったから、男性と親しくなることもないまま二十三歳になった。
それでも別にいいと思っていたけれど、あんなふうに家族に囲まれる最期を見てしまうと心が動く。
家族っていいなと一瞬思った。でも。
相手の記憶を見えてしまう私が、普通の恋愛をできるわけがない。
私だったら、心の奥を見える人とお付き合いするのも結婚するのも躊躇する。
勝手に人の記憶を読まないようにしているけれど、レクスさんの心の傷みたいに見えてしまう場合もある。無理だ、恋愛も結婚も。
ドアがノックされた。もう寝間着に着替えちゃったけど、いいか。
ドアを開けると、レクスさんが私の様子を窺うような表情だ。
「眠れないんじゃないかと思って。よかったらワインを飲まない?」
「いただきます」
パジャマの上からカーディガンを羽織って二人で階段を下りた。居間にはもうワインとグラスが用意されていた。
「つらい思いをした日は、甘いものとワインだよ」
「本当に……ありがとうございます」
「伯爵家の大奥様の冥福を願って」
そこからは二人でワインを飲んだ。
私もレクスさんも無言だったけれど、レクスさんの優しさに慰められた。ワインを三杯飲んで、酔いすぎる前に終わりにした。
「ごちそうさまでした。もう酔ったので寝ますね」
「西の雲が厚い。明日は雨だろうから、ゆっくり朝寝坊するといいよ」
「そうします。レクスさん、いつもありがとうございます。おやすみなさい」
「よく眠れるといいね」
微笑むだけにして、私は部屋へ戻った。





