35 もうひとつの能力
レクスさんは熟睡していて、ウィリアムさんはバスで帰った。
私とフレッド君は夕食を食べてシャワーも浴びたけれど、それでもレクスさんはまだ眠っている。声をかけても頬をペチペチ叩いてもダメ。
「どうしようかしら」
「ここにねかせればいい」
「それしかないわね。レクスさんを運べそうにないし」
毛布はかけた。もう五月の末だから毛布だけでも寒くないだろう。
私はフレッド君と一緒に自分の部屋に引き揚げたが、ベッドに入っても落ち着かない。
目の前で師匠以外の魔法を見たのは初めてだった。
フレッド君の植物成長魔法を思い出すと、胸の奥から静かな興奮が湧き続けて全然眠くならない。
私のもうひとつの能力を解放したら、心も落ち着いてすっきり眠れるんじゃないかな。
一度そう思ったらそれしかない気がしてきた。
フレッド君はスヤスヤと寝ている。レクスさんは居間で酔って寝ている。少しだけなら大丈夫よね。
足音を立てないように裸足になって三階へ上がり、最後は梯子のような階段も上がって屋根裏の使用人部屋へ入った。
南側の窓を使うのはやめておこう。レクスさんが起きていたら見られるかもしれない。
北側の窓は小さいけれど、私の体ならギリギリすり抜けられる。
窓を上に押し上げて身を乗り出し、頭から外へと飛び出した。
飛び出すと同時に背中の羽を伸ばすと、体がふわっと浮いた。
一瞬で広がった羽が力強く空気を押して私を持ち上げてくれる。
すりガラスのような半透明の羽はわずかに青みを帯びていて、形はモンシロチョウの羽にそっくりだ。
そこからは羽を動かしながら、夜空を飛んだ。
糸杉の森の上を飛びながら、初めて羽が生えた日のことを思い出した。
◇
十三歳の夏、私の背中に突然羽が生えた。
背中に違和感があって、何か大きなものが生えていると気づいた時の恐怖は忘れられない。
窓ガラスに映る自分を見て、私は失神しそうになった。白いブラウスの背中から半透明の巨大な蝶の羽が生えている様子は、悪夢としか思えなかった。
私は死ぬほど怯え、救いを求めて師匠の部屋をノックした。
こんなに大きな羽が生えて、自分はこのまま蝶になってしまうのかと思った。
ドアを開けた師匠は私を見て、「おやまあ」としか言わず、私の羽をじっくりと観察した。
私が怯えてガタガタ震えているのに、師匠は冷静な顔で羽に顔を近づけたり指で触ったりしていた。
「ニナの能力の影響だろうね。これで飛べそうかい?」
「わかりません」
「今夜は新月だ。暗いから誰にも見られないよ。庭に出て羽を動かしてごらん」
「私、蝶になるのでしょうか」
「ならないと思うよ」
師匠はどこまでも冷静だった。
自分が育てている弟子に羽が生えたと言うのに「飛べそうかい?」だ。
(こんな異常事態なのにこの人はなぜ驚かないのだろう)と、少女の私は理解できなかった。
だが、それが魔女ラングリナ・エンドなのだと、今は思っている。
羽はとても大きくて、私が両手を広げた指先のずっと先に羽の端があった。幸いなことに頭に触角は生えなかった。生えていたら……ヒステリーを起こした気がする。
羽ばたきたいと思うだけで羽は動いた。羽を手足のように思う通りに動かせて、私はすぐにふわりと空中に浮いた。
筋肉の力で飛んでいるわけじゃないのはすぐにわかった。どこにも力を入れていないのに、羽ばたきたいと思うと羽が動いて飛べる。
家の周囲をぐるりと飛んでから地面に降りると、師匠が「消えろ、と羽に命じてごらん」と言う。
その通り命じたら、羽はスッと消えた。
「おめでとう。ニナの記憶を見る能力が、もうひとつの能力を連れてきたようだね。稀にあることだよ」
(これはおめでとうと言われることなの?)とは思ったけど、十三歳の私は「ありがとうございます」と答えたっけ。ブラウスを脱いで鏡でじっくり確認したけれど、背中に羽が生えた跡はなかった。
これをきっかけに魔法も使えるようになるかもと期待したが、それはなかった。
私の能力は他人の記憶を見ることと、羽をイメージすると巨大な蝶の羽が生えて飛べることの二つになった。
だが羽が生えて空を飛べても、人の目を避けている限り誰かの役に立つことはない。
肝が据わっている師匠でさえ「その姿を人に見せるのはやめておいたほうがいいだろうね。いい結果を思いつかない」と言った。
私もそう思った。羽が生えている時の私は、誰が見ても人外の生き物だったから。
◇
ミルク店のロルフさんは片目の色が変わったが、私は背中に羽が生えた。師匠によると羽も例外中の例外らしい。
ロルフさんは魔力があって目の色が変わったわけだが、私は魔力がないのに巨大な羽。
神様は不公平をするのが好きな方なのだ。恨んでも無駄だと悟っている。
気が済むまで夜空を飛んで、静かにお城の北側に着地した。
裸足の足の裏には、しっとり湿った土の感触。羽を消して玄関に回り、ドアに手をかけようとして気がついた。私、鍵を持ってこなかったわ。
前回の新月の夜はレクスさんが起きていたから飛ばず、その前の新月はまだレクスさんがいなかったから、玄関から出て玄関から入った。
今は夕方になるとレクスさんが一階のドアと窓の全部に鍵をかける。几帳面なレクスさんは鍵をかけ忘れることはない。
しまったなぁ。
もう一度羽を出して屋根裏の窓にしがみつくべきか? でもあの窓にしがみついて羽を消しながら中に入ろうとして落ちたら、よくて大怪我、打ち所が悪ければ死ぬ。
一番避けたいのは羽が生えている状態で窓にしがみついてるときにレクスさんと鉢合わせすることだ。
うん、最悪だね。
「仕方ない。玄関から入るか」
裸足でとぼとぼと歩いて、玄関ドアをノックした。すぐに玄関の明かりがついて、ドアが開けられた。
「なんで外にいるの? あれ? このドア、鍵がかかってたけど?」
「夜遅くにすみません」
「裸足? ニナはどこから出たの?」
私よりも頭一つ背が高いレクスさんを見上げると、レクスさんが本気で驚いている。
髪が乱れていて、無防備な感じ。いい気持ちで寝ていたでしょうに、ごめんね。
「ええと、いろいろ疑問でしょうけど、今は何も聞かないでくれると助かります」
「ああ……うん。わかった」
「足はちゃんと洗いますので」
「ねえ、やっぱり気になる。どこから出たの? それともこの城には秘密の隠し扉でもあるの?」
「いろいろあってですね、その話はまた今度でお願いします」
噛み合わない会話をしながら浴室へと走り、足を洗った。浴室から出て二階へ上がる間、レクスさんが怪訝そうな顔でずっと私を見ていた。
翌朝、卵を焼いていたらレクスさんが台所に入ってきた。
「おはようございます。昨夜は起こしちゃってごめんなさい」
「それはいいんだ。それより、どうやって外に出たの? 僕が知らない出口があるなら教えてほしい。フレッドもいるし、建物が大きいだけに不用心でしょ?」
「んー、隠し扉とかではないんですけど、今はまだ言いたくないんです」
「いつか話してくれるの?」
「そうですね、いつかは。たぶん」
約束はできない。羽のことを打ち明ける勇気が出ないままかもしれないし。
フレッド君も起きてきて、そのまま朝食になった。食後はいつもなら食器を洗いながらおしゃべりするレクスさんが無言だ。
心苦しい。レクスさんは私の生活を支えてくれる心優しい人なのに。
でも蝶の羽はさすがに……言いにくい。