30 子供の記憶は見ない
フレッド君の言葉に「まさか」と笑った。
「レクスさんは伯爵家のご令息ですよ? 私を好きになることなんてありえないです」
「レクスはニナがすきだよ」
「私のためにお菓子を買い込んでいたからですか?」
「ちがう。レクスはいつもニナをみてる」
見てる? いや、そんなことはない、と思う……。
レクスさんは知的で冷静で、同居している者同士でそんなややこしいことはしない人よ。
恋愛をこのお城に持ち込んで、私がいづらくなるような行動はしない人だ……と思ってたけど?
「フレッド君の勘違いよ」
「そうかなあ」
「私は恋占いでも稼いでいるの。言わば恋愛の専門家です。だから間違いない」
「せんもんかぁ? ほんとにぃ?」
「何百という人から恋愛の相談を受けているんだから」
「ニナはれんあいしたことあるのか?」
「……ないけど」
そう答えるとフレッド君が無言で鼻の穴を膨らませた。「そうだろう?」と言っているみたいに。
フレッド君は言葉や表情が大人みたいなときがある。
いったいどんな環境で育ったのかとは思うが、フレッド君の記憶を見ようとは思わない。
『仕事以外で勝手に他人の記憶を見ない』という自分ルールもあるが、それだけじゃない。
子供の記憶は現実と空想や妄想が入り混じっていて、私が『記憶酔い』を起こしてしまうからだ。
以前、四歳の子供が親の都合でモーダル村の祖母のところへしばらく預けられた。
その男の子は祖母が大切にしていた旦那さんの形見の懐中時計を持ち出して失くし、私が失せ物探しを頼まれた。
子供の記憶を読むのは初めてだったが、私はその子の記憶を見て驚いた。
巨人の国に迷い込んだような低い視点の記憶だった。不慣れな視点の記憶にクラクラしたが、それだけじゃない。
都会で育ったその少年は紙芝居が大好きだったようで、紙芝居の冒険物語と現実の記憶がぐちゃぐちゃに混じっていた。
懐中時計の記憶を探したところ、タコの形の海の魔物や大ワニ、巨大なイカ、眼帯をした海賊たちが奪い合いをする金の懐中時計の記憶があちこちにあった。記憶の混乱だ。
少年の中で、金ぴかの懐中時計は宝物の象徴として認識されていた。
極彩色の紙芝居の記憶と現実がごちゃまぜの記憶を見ているうちに、私はだんだん気分が悪くなった。それでも必死に懐中時計にまつわる記憶を探っていたら、探していた記憶があった。
少年は牛小屋に積んである新しい藁の中に懐中時計を隠していた。(宝物はここにしまおう!)と張り切っていた。
それを心配顔のおばあさんにどうにか告げたあと、私は二日酔いのような状態になった。当日と翌日を頭痛と吐き気に耐えながらベッドで過ごしたものだ。
それ以来、子供の記憶は見ないようにしている。
その時のことを思い出しながら出かける準備をしていたら、雨が降ってきた。
しとしとと降る雨は五月の終わりから六月にかけて頻繁に降る。これからしばらくは仕事に出られない日が増えるけど、仕方ない。
最近は食料をレクスさんが買いに行ってくれる。私は家賃の代わりに掃除をして、食費を負担してもらう代わりに調理をしている。
好条件の住まいだけど、レクスさんに恋人ができたら私はさっさとここを出て行こうと決めている。
「だから貯金しないと」
後ろめたい思いをしたくないから、私は負担してもらった金額分以上の働きを心掛けている。
出勤してきたジェシカさんに「私は雨で仕事を休むから、のんびりしていいですよ」と声をかけた。するとジェシカさんが腰に手を当てて胸を張った。
「私はね、お給金が欲しくて働いているけど、ずるして稼ごうとは思ってないの。メイドの仕事に誇りを持ってるのよ。だからちゃんと働くわ」
「そっか。失礼なことを言ってごめんなさい。では、一緒に掃除をしましょう」
フレッド君も雑巾を持ってきて、私たちは三人で床や壁、窓を磨き続けた。
レクスさんの部屋からはタイプライターのカシャカシャカシャ、チン! という音がずっと続いている。小説を書くのはああやって言葉をコツコツ積み重ねる作業だってこと、一緒に暮らして知った。
本を一冊書くのに、いったいどのくらいの言葉と労力が積み重ねられることか。
レクスさんには小説家として大成功してほしい。
掃除をしているうちにお昼になった。今日は私とジェシカさんの二人で作る予定だ。
今日はモーダル村でよく作っていた、チキンのクリーム煮。畑から収穫した青菜、ニンジン、ジャガイモもたっぷり加えた。
「ずいぶんたっぷりミルクを入れるのね」
「なにしろ人より牛の方が多い村のレシピですからね。新鮮なミルクを使うレシピが多かったの」
「畑の野菜も立派よね。素人が育てたとは思えないわ」
「村ではみんな、自分で食べる野菜は自分で育てていたの。私も教わりながら五歳とか六歳から畑仕事をしていたわ。でも、肥料を控えているのに、あんなに立派に成長したのは初めて。ここの土がよほどいいんじゃないかな」
レクスさんにも声をかけてみんなで昼食を食べているところに、電報が届いた。
電報を読んでいるレクスさんの顔が険しい。食べ終わったところで「ニナ、ちょっといい?」とレクスさんの部屋に呼ばれた。
「兄からの電報だった。フレッドの母親は、もう出国していた。行き先はリンド国。男性がフレッドの母親と二人分、船を予約したらしい」
「リンド国……。遠いですね。もう戻ってくる気はないってことかしら」
「少なくともフレッドを育てる気はないだろうなあ。リンド国は半年前に大きな金鉱が見つかったから、一攫千金を狙う人間がたくさん集まっている。その手の男について行ったんじゃないかな」
「そうですか……。それなら私が師匠に育ててもらったように、私がフレッド君を育てます」
レクスさんが首を振った。
「元はと言えば兄が持ち込んだ話だ。ニナの協力はありがたいけど、責任は僕が持つ」
「マクシミリアン様はどうお考えなんですか?」
「兄は今夜ここに来るそうだ。もし兄がフレッドを引き取ると言っても断るよ。前にも言ったけど、父は古い価値観に囚われている。僕が書いた小説を僕の目の前で燃やした人だ。あんな父の下で育てられたら、平民のフレッドはつらい思いをするし、性格をゆがめられてしまう。絶対に父のいる家には預けたくない」
そうだった……。
「僕は兄に助けられていたんだ。兄は僕が書いた原稿を自分の部屋に隠してくれてね。家を出るまで、僕の部屋はたびたび抜き打ちで調べられていた。小説を隠していないかと、使用人や父が調べるんだ。僕にとって実家は監獄だった。兄がいなかったら心が潰れていたと思う。今度は僕が兄を守る番だと思っている」
「わかりました。あの子は二人で育てましょう。レクスさんが結婚する時は、私がここを出てフレッド君を育てますから。ご安心ください」
「はっ?」
拳をグッと握って見せる私に、レクスさんが変な声を出した。