29 小さいお化けの声
私が読んだレクスさんの小説は『野の百合と金のゴブレット』だけ。
あれは悲しい別れで終わっていた。それが胸を締め付けたし、長く続く余韻が残った。
「結ばれないほうが私の好みです。『野の百合と金のゴブレット』は、別れてもなお相手を思う。そこが美しいと思いました」
「……そう。わかったよ。ありがとう」
レクスさんは考え込んでいた。
翌朝、ジェシカさんが少し遅れてお城に来た。私たちは食事を終えて食器も片付けた後だった。
大通りで事故があったそうで、渋滞していたらしい。
「馬車と荷車がぶつかって、馬車が横倒しになっていたわ。乗っていた人が無事だといいけれど。私が最近親しくしている人が御者だから、他人事じゃなかった」
親しくしている人が御者?
「もしかして新しい恋が始まっているの?」
「ううん。誠実そうでいい人だなあって勝手に思っているだけ。私がしょんぼりしていたら、その人が心配してくれたのよ」
「その人と仲良くなれるといいですね」
「そうね。でも今回は焦らないわ。ニナさんは好きな人いないの? ニナさんてモテそうよね」
「モテたことがありません。村にいた頃は、子牛と羊にはすごく好かれていましたけどね」
「あははは。牛と羊は除いてよ。人間の男はどうだったのよ?」
「んー、そう言えば一度……」
話の途中で、階段の上からレクスさんが声をかけてきた。
「ニナ、ちょっといい?」
「はあい」
階段を上がってレクスさんの部屋に入ると、レクスさんが気まずそうだ。
「最近気づいたことがあって、ニナに言わないのはフェアじゃないと思うから教えるね。ここを見て」
作り付けの書棚を指差している。一か所だけ本が抜き取られ、本は床に置かれていた。
本棚には背板がなくて壁が見えているのだが、そこに金属の筒が口を開けている。
「その管みたいの、なんですかね? 屋根裏部屋にもありました」
「伝声管だった。ときどき書棚からなにか聞こえるなと思っていたんだけど、今わかった。玄関ホールで会話していると、全部聞こえてしまうんだ。おそらく、来客と使用人のやり取りを城主が聞くためだと思う」
「じゃあ、さっき私たちがしゃべっていたのも聞こえていたんですね」
「うん。本を入れていたんだけど、おおよそ聞こえてしまった。ごめんね」
謝るのは私のほう。大きな声でワハハと笑いながらしゃべっていたんだもの。
「いえいえ、聞かれて困る話はしていませんでしたから。今後、玄関では大きな声でしゃべらないように気をつけます。お仕事中なのにうるさくしてごめんなさい」
「いや、いいんだ。ねえニナ、君は……いや、やっぱりいいや」
歯切れの悪いこと。なんだろう。
レクスさんに「もうそろそろ出かけますね」と声をかけて、フレッド君の様子を見に居間へ下りた。
「フレッド君、私はもう出かけるね。いい子にしていてね」
「オレがニナについていったらダメか?」
「それはジェシカさんが困るでしょう。ジェシカさんはフレッド君のためにここまで来てくれているんだもの」
「そうだな。わかったよ」
バスの時間が迫っていたから、なぜ私についてきたがるのか理由を聞かないままお城を出た。
フレッド君がしょんぼりしていたから、仕事をしていても気になった。
だからいつもより早い時間にバスに乗ってお城へ帰った。ジェシカさんが外で箒で掃き掃除をしていて、笑顔で迎えてくれた。
「おかえりなさい。フレッド君は二階で眠っていますよ」
そう言われてティールームの窓を見上げたら、フレッド君の頭がサッと引っ込んだ。なんだろう?
ティールームに入ると、フレッド君は布団の中に頭まで潜り込んでいる。
「フレッド君、ただいま。どうかしたの? 今朝、どうして私と一緒に行きたいって思ったの?」
「わらわないか?」
「笑いません」
フレッド君がむくりと起き上がった。
「おっかないこえがするんだ。ジェシカはきこえないって。きのせいだってわらう」
「どこで聞こえるんですか? どんな音?」
フレッド君がベッドから下りて、私の手を取って引っ張る。大人しく引っ張られるままついて歩いた。連れていかれたのは、居間だ。居間のドアを入って左手の部屋の角へ。
「ここにいるとこえがきこえるんだ」
「どんな声?」
「きいい、とか、カリカリカリとか。ちいさいおばけのこえかも」
目を閉じて耳に意識を集中させていると、微かに何か聞こえる! カリカリ、コソコソ、そして「キィーキィー」という声。
私、この音の主を知っているわ。
「フレッド君、おいで」
そう言って居間を出て、階段を上がった。東の棟の三階はレクスさんの部屋の上で、そこには入らずに手前の梯子階段の前に立った。
「落ちたら危ないからフレッド君が先に上って」
「ちいさいお化けはいないか?」
「いません」
このアシャール城に住み始めたばかりの頃、屋根裏も掃除した。
そのときに蓋がついている金属の丸い穴に気がついた。屋根裏部屋にはいくつもあって、蓋付きの通気口かなと思っていた。それ以降は思い出しもしなかったけれど、レクスさんの部屋と玄関ホールが伝声管で通じていたのを知って、すぐに穴の存在を思い出した。
伝声管の穴の近くの壁に耳をくっつけた。フレッド君も真似をして壁に耳をくっつけている。
しばらくジッと聞いていると、やがて穴の中から「コソコソ カサカサ キィィ キッ」という音が聞こえた。
「ネズミがいるようです。この金属の管が音を伝えている気がしますね」
「なんだネズミか」
「普通は毒の餌を撒くんですけど、壁の中で死なれたらいやですよねえ」
「ころすのはかわいそうだな」
だがネズミはノミやダニを落とすから、このままにはできない。どうしたものかとレクスさんに相談したら、「あっ」と言う。
「台所にお菓子やパンを置いていたんだけど、ときどきなくなっていたんだよ。僕はずっとニナが食べているのかと思ってた」
「えええ……。私、お菓子泥棒と思われていたんですか? ショックです」
「ごめん。僕、ニナはよほどおなかを空かせているんだなと思って、どんどん買って戸棚にしまい込んでいたんだ。どんどん減っていたのはネズミだったんだね」
「どんどん? なんてこと!」
庶民なら最初にネズミを疑うのに。こういうところで育ちの違いが出るわ。
中をよく見たら、戸棚の背板の上の方に、結構大きな穴が開いていた。
レクスさんが悲しそうな顔で「君が食べていると思ったこと、謝るよ」と頭を下げた。
「別に怒ってはいません。でも今後食べ物をしまうときは、必ずブリキの箱に入れて蓋を閉めてください。餌さえなければネズミはいずれいなくなります。毒を撒くのは気が進まないので」
「わかった。そうする。本当に悪かった」
私はそれで終わったと思って居間に移動したのだが、居間でフレッド君が私の袖を引っ張った。
「なんですか?」
「レクスはニナがすきだな」
「なんでそうなるんですか。私のこと、お菓子泥棒と思ってたんですよ?」
「すきだからおかしとパンをたべさせたかったんだろ?」
「レクスさんですよ? そんな餌付けみたいなことするかしら」
するとフレッド君が残念な子供を見るような目で私を見た。
この前のコリンヌさんと似た表情だ。
「なんですか、そのお顔」
「レクスはぶきようなおとこだぞ?」
君、何歳かね。