28 グランデル伯爵家の感謝
翌朝、ジェシカさんが出勤して、いつもの生活が始まった。
ジェシカさんは二股だか三股だかの男性と顔を合わせないで済むこの仕事がありがたいらしい。
「彼は何もなかったような態度だけど、私が彼の顔を見たくないの。驚かないで聞いてほしいんだけど、あの二股男のことをまだ少し好きなのよね。自分でも呆れちゃうわ」
「好きだった気持ちをハサミで切り離すようにスッパリ切り取れなくても、不思議じゃないと思う」
「でも、女の人はたいてい気持ちの切り替えが早いじゃない?」
「なんにでも例外はありますって」
「そう……。じゃ、私は例外のほうだわ」
そんな会話をしながら窓ガラスを磨いた。
最近はジェシカさんと友達みたいな感じ。今日は「これあげる」とビスケットを貰った。少し齧ると素朴な小麦粉と砂糖の味。これを私に渡そうと思ってくれたことが嬉しい。
窓拭きを終えて、私は明るい気持ちでお城を出た。
何げなく振り返ると、二階の窓からレクスさんが窓の外を見ていた。私と目が合うと小さく手を振ってくれた。
もしかしてレクスさんは、以前から見送ってくれていたのだろうか。今まで気づかずに申し訳ないことをした。
今日も夕方まで忙しく働いて、帰ろうとしたら立派な馬車が近くで停まった。
ドアが開き、美しい貴族の女性が声をかけてきた。
「あなたがニナさんかしら」
「はい。そうです」
「少しの時間、馬車に乗っていただける? 外では話しにくいことなの」
私はスカートを叩いて埃をはらい、馬車に乗った。
「先日、あなたが夫に病院へ行くよう勧めてくれたから、そのお礼を言いたくて」
「グランデル伯爵夫人でいらっしゃいますか?」
「ええ、そうよ。夫が手術したわ。無事に腫瘍を取り除けました。この先は夫の体力次第運次第だけど、ひと安心だそうよ」
「それはよかったです」
「あなたが夫の病気を見抜いて病院に行くよう勧めてくれなかったら、夫は今でもまだ病気のことを隠していたでしょう。彼はとても臆病な人なの。それと、残される私たちを守らなければという気持ちが強すぎて、冷静な判断ができなかったみたい。夫も私も、あなたにはとても感謝しています」
私は黙って微笑むだけにした。すると夫人は小さなバッグから白い小袋を取り出して私に握らせた。袋は絹製だ。
「これは私からのお礼よ」
「もう過分なほどのお礼をいただいております」
「あれは夫から。これは私からよ。手術をしても油断はできないけれど、やるだけのことはやったという安堵を得られたわ。それはあなたのおかげです。ありがとう。これはぜひ受け取ってほしいの」
「……わかりました。いただきます。ありがとうございます」
馬車を降りて、去っていく豪華な馬車を見送った。
ベンチに戻って小袋の中を覗いたら、金の台座に小さなルビーがついているピアスと便箋が入っていた。便箋には美しい筆跡の短い文章が書かれている。
『グランデル伯爵家は、ニナが困難に直面した際に援助を惜しまないことを約束する。
グランデル伯爵家当主 チャールズ・グランデル 』
サインの他に、家紋の印鑑も押されている。
ちょっと呆然としていたら、遠くから「ニーナーァ」という声。フレッド君だ。公園を横切って一直線に私に駆け寄ってくる。なんて可愛い顔で走ってくるんだろう。
私にぶつかるように飛びついてきたフレッド君を抱き上げると、その後ろからレクスさんがゆったり歩いてくる。
「どうしたんですか? フレッド君がぐずったの?」
「オレはぐずってない」
「僕がちょっとぐずってるかも」
「あら」
「なんだか急にニナに会いたくなってね。フレッドを連れて出てきた。今日は夕食を外で食べよう。フレッドが魚の揚げ物を食べたいそうだ」
「オレはいいっていったんだけどな」
「子供は遠慮するな」
「そうよ。子供は遠慮しちゃだめよ。じゃあ、仕事は終わりにします。三人で食べに行きましょう」
魚とお芋の揚げ物の専門店は人気の店らしくて混雑していた。
揚げたてのサクサクふわふわな白身魚とカリッと揚がったお芋を堪能して、全員でオレンジジュースを飲んだ。フレッド君がずっと「うまいな。すごくうまいな」と繰り返していて、レクスさんが笑顔だ。
食べ終えてレクスさんの車に乗り、フレッド君と私は後部座席でくっついて座った。
しばらく静かだったフレッド君が「ねえ、ニナ」と話しかけてきた。
「なんでしょう」
「オレ、はやくおとなになりたい。いっぱいかせぎたい」
「稼いで何を買いたいんですか?」
「かあちゃんに、はらいっぱい、うまいものをたべさせたいんだ」
「それは大切な事ですね」
「うん。だいじだぜ」
満腹のフレッド君はすぐに眠ってしまった。フレッド君はいつか母親に会えるのだろうか。
(もしお母さんに会えなくても、私がいるよ)と心で語りかけ、柔らかなほっぺを撫でた。
屋根のない自動車は風が当たる。私が上着を脱いでかけようとしたら、レクスさんが膝かけを渡してくれた。
「フレッドの言葉を聞いていると、僕はいつも優しい気持ちになれる」
「私もです。どんな状況でもお母さんを大好きなのが、いじらしくて可愛くて」
「フレッドは優しい子だよね。そうだ、小説が三分の一ほど書けたんだ。読んでくれる?」
「もちろん。とっても読みたいです!」
「じゃあ、帰ったらね」
「はいっ!」
アシャール城に着き、レクスさんがフレッド君を抱き上げて二階へと運んでくれた。フレッド君をパジャマに着替えさせて、二人で居間に下りた。
「はい、どうぞ」とレクスさんが紙の束を手渡してくれた。私はその場ですぐに小説を読み始めた。
読み進めていくうちに、(あれ? これって登場人物が私たちに似てない?)と思った。
魔女が主人公なのは知っていた。だけど彼女と同居している男性が学者で、メガネをかけていて、二人は小さなお城に住んでいる。
これ……。もしかしてこの小説は私とレクスさんの実話なの? と動揺しながら読み進めたら全然違っていた。
一番違うのは、魔女が本物の魔女なところ。
その魔女が練習で放った魅了魔法が、鏡に反射して離れた場所にいた学者に当たってしまう。
本当の魔法が鏡で反射するかどうかは知らないけれど、面白い発想だと思った。
魅了された学者が魔女に好意を示し続けるものの、魔女は魅了魔法のせいだから相手にしない。魔法が解けるのを冷静に待っている。
学者は学者で自分の恋は本物だと思い込んでいる。
魔女がどんなに「その状態は魅了魔法のせいだ」と伝えても、学者は魅了魔法は関係ないと思っている。そして毎日必死に魔女に好意を伝え続けるが相手にされない。
(学者さんが不憫だわねえ)と思いながら読んだ。
「これ、学者さんが気の毒なところで終わってますけど、この先、この恋は実るんですか?」
「それでウィルともめているんだ。ニナはどう思うか、意見を聞かせて?」