27 新月の夜の紫水晶
今日は新月。真夜中に水晶を井戸水か川の水で洗う日だ。
水晶の汚れや穢れを洗い落として、魔法薬を作るときに自分の力を増幅してもらうための儀式。
「今夜は寝ずに夜更かしにしようかな」
「よふかしするのか?」
「ええ。ちょっと用事があるの」
台所で朝食のベーコンを焼きながらフレッド君と会話していたら、レクスさんが入ってきた。
「おはよう。今夜は新月だね。ずっと楽しみにしていたんだ」
「覚えていたんですね。深夜零時に実行です」
「わかった」
「オレもなかまにいれてくれ」
五歳児を深夜に起こすのはよくない。どう断ろうかとレクスさんを見たら真顔のレクスさんがフレッド君に話しかけた。
「一緒に夜更かしができるのは十五歳からなんだ。その日を楽しみにしているよ」
「えええ。じゅうご? オレごさいなのに」
「すぐ十五歳になるよ」
「オレはいつじゅうごさいになるんだ?」
笑いたいのを我慢しつつ食事を終えた。
バスに乗る前に自分の部屋にぶら下げてある紫水晶を手に載せて眺めた。六角柱の形をした紫水晶。
水晶が蓄えた月の光は、魔力を増幅して魔法を確実なものにするらしい。
師匠からこれを貰ったのは、私が魔法使いの修行を始めた六歳の満月の日だ。
普段は大雑把な師匠が真面目な顔で、儀式の言葉を唱えながら私の手に握らせてくれた。
『水晶に蓄えられた月の光が、この幼き魔女に力を貸してくれますように』
そう言って渡された紫水晶。
師匠は「ニナもいつか若い魔女を育てる日が来るだろう。そのときは今の言葉を唱えてあげるんだよ」と言った。
「新月の夜にきれいな水でこの水晶を洗いなさい、そしてときどき月の光を浴びさせるように」とも教わった。魔女じゃないとわかった今も、ずっとその教えを守り続けてきた。
昼間は公園で働き、帰宅して夕食を食べた後は本を読んで過ごした。
フレッド君は天使のような顔で寝入っている。私は電気スタンドの明かりで本を読んでいたが、時間が来たから部屋を出た。
レクスさんは居間にいて、やはり本を読んでいた。私を見ると本を閉じて、「いよいよだね」と言って微笑んだ。
「水晶を洗い清めるだけなので、華々しいことは何もないんですよ?」
「それでもいい。とても楽しみだ」
「もしかして、これも魔女の小説で使うのでしょうか」
「うん」
「どんなお話ですか?」
「それはまだ内緒」
「楽しみにしています。さて、時間です」
壁の振り子時計が十二時五分前だ。
ポケットから水晶を取り出した。台所の井戸に桶を落とし、水を汲み上げた。水をかける前に、教わった願いを唱えた。
「清らかな水よ。水晶の汚れと穢れを洗い流したまえ」
流しに置いた水晶に水を少しかけてこすり洗いをして、また水をかけては水晶をこする。
「僕が桶で水をかけて、ニナがこすって洗うのでもいいの?」
「それでも大丈夫です。お願いします」
静かな台所で聞こえるのは水音だけ。桶に三杯の水で水晶をきれいに洗った。
丁寧に水けを拭き取り、ハンカチに包んでポケットに入れた。
「はい、おしまいです。ひと月の間に溜まった汚れや穢れが、これできれいに洗い流されました」
「実に興味深かった。ありがとう。おやすみ」
「おやすみなさい」
そっと部屋に戻って、フレッド君に顔を近づけた。しっかり寝ていることを確認してから迷う。
どうしようか。
今まで、新月の夜は私のもうひとつの能力を解放していた。パロムシティとはいえ、この地区は街灯も少なくて新月の夜は暗い。
だけどレクスさんがまだ起きている。
どうしよう。でも、少しだけなら。
迷いながら、そっと部屋を出た。レクスさんの部屋のドアを見た。ドアの枠から細く光が漏れている。
レクスさんは起きてる。やっぱりやめておこう。
今夜はあの力はやめて、植物魔法を試して終わりにしよう。
窓辺の鉢植えを眺めた。今でも毎月、新月の夜に試してきた。
小瓶の夜露を一滴、紫水晶に垂らして左手で握り締める。深呼吸を一回。
ローズマリーに手をかざして、心の底から願いながら「伸びろ」と声をかけた。
鉢植えのローズマリーはピクリとも動かない。枝は伸びず、新芽も出てこない。春が来てから急にワサワサと茂ったけれど、私は関係ない。
「やっぱりダメか」
ローズマリーはピクリとも反応しなかったが、ここに置いてある鉢植えはどれもとてもよく育っているから、よしとしよう。
ここまで順調に育つのは、よほどこの部屋の環境と土が気に入っているのだろう。
水晶に麻紐を括り付け、その紐を洗濯ロープに縛り付けた。
「私にはどうしようもないことだから、仕方ない」
「しかたないってなんだ?」
「わっ、びっくりした。フレッド君、起きてたの?」
「いまおきた」
「まだ夜だから。もう一回寝ましょうね」
「うん」
師匠がこの魔法を使うと、植物は踊るように身をくねらせながら枝を伸ばす。新しく伸びた枝には新芽が顔を出して葉を広げる。
初めてその魔法を見た時の私は、「うわあ! 師匠、すごい!」と歓声をあげたものだ。
師匠は楽しそうに笑って「ニナもいつかこの魔法を使えるようになるよ」と言ってくれた。
六歳の満月の日から二十三歳で家を出るまで、私は何万回も魔法を試した。
この魔法はどうかな? これがダメでもあの魔法は? と最初は諦めずに挑戦し、少しずつ悲しい気持ちで試すようになり、最後のほうは(やっぱりね)と諦めた。
八歳のときに、人の記憶を読み取れることに気づいた。師匠はそれも魔法だと言った。ただ、それができる魔法使いを見たことがないと。
十三歳の夏に奇妙な能力がもうひとつ開花した。
あまりに奇妙な能力だったので、私はますます(私は魔女じゃないのでは?)と思った。
記憶を読むのは占いに利用できたが、もうひとつの能力は人の役に立てられる気がしない。
人に見せられるものではなかったのだ。
奇妙な能力のほうは、今夜は発散しないでおこう。慌てる必要はない。
魔法が使えないことを嘆いて人生を無駄に過ごすのは、もうやめる。
今ある力を伸ばして、前を向いて、自分の足で立って生きていくんだ。