26 今の自分が一番好き
アシャール城には水道が引かれているが、料理をするときは台所の井戸水を使っている。井戸水のほうが美味しい。
村にいる頃、読書家のマールさんが「水道水は一度沸かしてから飲みなさい」と何度も言っていた。その言葉は記憶にしっかり刻み込まれていて、水道水を使うたびにマールさんを思い出す。
その話を聞いた当時は(水道は都会にしか引かれていない。私が水道水を飲むことなんてあるのかな)と思っていた。次の魔女候補者がいつまでも現れないから、自分は師匠を看取るまでモーダル村のあの小さな家にいるのだろうと思い込んでいた。
けれど人生はある日突然変わる。
パロマシティの繁華街をふらついていた三歳の私は、モーダル村で魔女に育てられた。二十三歳の今はパロマシティの古城で学者で小説家のレクスさんと同居し、フレッド君とも暮らしている。
「ニナ、もうねたのか?」
「起きてます。どうしました?」
「かあちゃん、げんきかな」
「きっと元気ですよ。いつか会えるといいですね」
「あえなくても、おれはさみしくない」
「そう……。フレッド君、一緒に寝てもいいですか?」
「ニナがさみしいならいいぞ」
「では」
フレッド君の隣に潜り込んで、昔私が師匠にしてもらったように小さな頭を撫でてから手をつないだ。
「私は三歳で保護されたんです。今のフレッド君よりずっと小さかったの」
「ほごってなんだ?」
「パロムシティで迷子になっていた私を、師匠が見つけてくれたんです。私が眠れないでいると、師匠はこうして頭を撫でて手をつないでくれました」
「ニナはまいごだったのか」
「ええ。いったん施設に入ったのですが、師匠が引き取ってくれました。フレッド君が眠れなかったら、私がこうして手をつないであげます。手をつなぐと、すぐに眠れますよ」
「うん」
それからすぐにフレッド君は眠ったけど、私は眠れなくて起き上がった。
窓辺に並べた植物がとてもよく成長していて、こんな時はひときわ癒やされる。鉢植えはどれも、今まで育てた中で一番の成長っぷりだ。ローズマリーにそっと触れると清々しい香りが漂った。
部屋を出て台所に向かった。眠れない夜は温かいミルクを飲むに限る。
ミルクを小鍋に移して石炭が燃え上がるのを待っていたら、レクスさんが台所に入ってきた。
「やあ」
「あら。レクスさんも眠れないんですか? 温かいミルクを飲みますか?」
「飲みたい。お願いします。夕食のときに子供時代のことを話したからかな、あれから不愉快な記憶を続々と思い出してしまってね」
「つらい記憶、消えればいいと思いますか?」
ミルクがほどよく温まったところで二つのカップに注いで互いの前に置いた。
「前はそう思ってた。不愉快な記憶を頭から消したいと思っていたけど、ニナの話を聞いてからは思わなくなった。人格が変わるんでしょう?」
「私が知っているのは、あの女性の例だけですけど」
「あの話だけで充分だよ。僕は小説が書きたい。もし……過去のつらい記憶を消し去って小説を書く意欲が消えるなら、苦しい記憶を抱えたまま生きるよ」
「私でもそうします。過去よりも、今の自分のほうが大切ですから」
「そうだね」
今夜の月も大きくて、窓の外が明るい。
「私にも消えればいいのにと思う、最近の記憶があります」
「最近? どんな記憶か聞かせてくれる?」
「村を出る時、馬車とすれ違ったんです。馬車には十代の黒髪の女の子が乗っていました。あの少女はきっと魔女候補者です。あの子と師匠が上手くいっているといいなと思う一方で、師匠があの子と仲良く暮らしているのを想像すると、『師匠を取られた』って気持ちになるんですよ。私の中にこんな嫌な感情があるのを知って、うんざりしています」
「それは自然な感情だよ。それだけ師匠との暮らしが幸せだったってことだね」
なるほど。そう考えればいいのか。
「さっき、フレッド君が『母ちゃんは元気かな』って言ったんです。眠れなかったみたいだから、師匠が私にしてくれたように手をつないだら、眠ってくれました。信頼している人と手をつなぐと安心するんですよね」
「手」
「ん?」
「手を出して」
テーブルの上に右手を置いた。するとレクスさんが私の手のひらを上に向け直し、手を重ねた。
「安心する?」
「どうでしょう」
「僕は安心する」
正直言うとちょっと緊張したけど、私は手を引っ込めなかった。
私たちは互いの手を重ねたままミルクを飲んだ。
「フレッドがニナと手をつないで寝かしつけてもらったこと、覚えているといいね。そういう優しい記憶だけが残ればいいけど、そうはいかないんだろうね」
「いかないですね」
「そして苦痛な記憶も、必要なんだろうね」
「今の自分でいたいなら必要ですね」
「僕は今の自分でいたい。今、とても小説を書きたいんだ。過去の苦しみがなかったら、僕は今ほど書きたいと思わない気がするよ」
レクスさんがミルクを飲み干して立ち上がり、窓から月明かりの庭を見ている。
私の手のひらから、レクスさんの体温が消えていく。
「師匠以外の魔法使いに会ったことある?」
「ありません。なにしろ絶滅寸前ですから。私は魔女として登録されているのかどうか。師匠は私を魔女扱いしてくれましたが、証明書みたいなものも貰っていないからはっきりしなくて」
温かいミルクのおかげか静かな会話のおかげか、眠くなってきた。
「部屋に戻りますね」
「あっ、待って。今度ニナの師匠のことや魔法のことを聞かせてほしいんだ」
「いくらでも。でも、なぜですか?」
「ウィリアムに頼まれていた恋愛小説で、魔女のことを書こうと思って」
「それは楽しみ。いつでも声をかけてください」
「それと、この城で占いをするわけにはいかないかな。公園で一人で仕事をしているのは危険な気がする」
「それは当分無理です。今はまだ、占いのためにここまで来る人はいないと思いますよ」
「そうか……」
買い物や用事のついでに占ってもらえるから、お客さんが来てくれている。繁華街からここまでバスに乗って来る人なんて、いるかどうか。
「心配してくれてありがとうございます。おやすみなさい」
あの公園で、経験を積む。今ある力で、私は私が生まれてきたことの意味をこの手でつかみたい。
後日、公園に立ち寄ってくれたコリンヌさんに、手を重ね合わせながらミルクを飲むという不思議な経験をしたと話した。するとコリンヌさんは両手を組んでうっとりした顔になった。
「手を重ね合わせながらミルクを飲む二人。ロマンチック!」
「ロマンチックかな?」
「ロマンチックよ! 指を絡めたりしなかったの?」
「してない」
コリンヌさんが半目になって託宣を告げるような口調になった。
「その人、絶対にニナのことが好きよ」
「どうかな」
「ニナは嫌いな人の手に触りたい? 手を重ねたままミルクを飲みたい? それは嫌でしょう? その人はニナを好きだから手に触れたかったのよ。絶対そう! それにしてもその人、気弱ねえ。重ねるだけじゃなくて手を握ればいいのに」
「二人きりの時にそんなことされたら怖いよ」
コリンヌさんは「怖いの? なんだ。ニナにはその気がないのか。でも不快じゃなかったのなら、可能性はある! あるわよ」と言って帰った。