23 二人でなら育てられる
私が泣きながら振り返ったものだから、レクスさんが驚いた。
「どうしたの!」
「これを読んだら、泣けて泣けて」
レクスさんは私の手元を見て困ったような顔になった。
「ああ、その作品か。そこまで泣ける?」
「泣けます。都会に出てきた主人公の心細さとか、相手を思う苦しさとか、未来が見えない不安とか。精神的につらいだろうなって同情しているときに、主人公が健気に笑うじゃないですか。そこでもう……」
ぐすぐすと泣いている私を優しい目で見ながら、レクスさんがコーヒーを淹れた。
台所にいい香りが漂って、『野の百合と金のゴブレット』の世界にのめり込んでいた私は少し冷静になった。
「コーヒーをどうぞ。ニナがそこまで共感してくれて嬉しいよ。それは僕が初めて書いた小説なんだ。書いている時は夢中だったけれど、本になってからは不安だった。僕に女性の感情を間違えずに書けているかどうかが、特にね」
「書けていますって! 何も知らなかったら女性が書いたとしか思えません。モーダル村のマールさんは読書家で辛口の評論をする人ですけど、この作品を絶賛していました。私にも読むように何度も言っていたんです。もっと早く読めばよかった」
一気にそこまで言って、コーヒーに口をつけた。
何も入れずに飲むコーヒーは、苦しい恋みたいだ。うっとりする香りがするのに、口にすれば苦い。
「新作を書いていらっしゃるんですよね? 私も買って読みます」
「買わなくていい。僕の原稿を読めばいいよ。そして感想を聞かせてくれたら嬉しい」
「本になる前に? そんなことができるんですか!」
「うん。ぜひ読んでよ」
レクスさんが笑っている。レクスさんは笑うとメガネの奥の目が細くなって、一気に優しそうな顔になる。
四角いメガネと普段の表情が硬いせいでとっつきにくく見えるけれど、笑うと内面の優しさが滲み出てくる。
主人公が恋する貴族の男性は、こんな人かも。
小説の男性は家と恋の板挟みになって、一度は主人公を諦めようとする。その先がどうなるのかはこれから読むところだ。
「この煮込みを食べてもいい? ぐっすり眠ったら空腹で目が覚めた。こんなこと何年振りかなあ」
「食べましょう。ちょうどフレッド君も起きてきました」
台所の入り口にフレッド君が目をこすりながら立っている。着ているパジャマは私が選んだ。
衣類一式、子供向けの絵本、筆記用具などもレクスさんがお金を出してくれて私が選んで買った。
最初に連れてこられたときは着古した庶民の服だったが、今は富裕層の子みたいに見える。
「おはよう、ニナ、レクス」
「おはよう、フレッド」
「おはようございます、フレッド君。ごはんができていますよ」
「すげえ! あさからごちそうだな」
「その代わり、お昼も煮込みですよ」
「いいぜ。オレはもんくをいわないおとこだ」
フレッド君は「にくがやわらかい」と言い、レクスさんは「美味しいよ」と喜んでくれた。
朝食の最中にフレッド君が心配そうな顔で私に聞いてきた。
「ニナ、ないたのか? レクスとけんかしたのか?」
「違う違う。レクスさんと喧嘩したことは一度もないわ。目が赤いのは本を読んで感動して泣いたの」
「いちどもけんかしてないのか?」
「ええ、一度も喧嘩してないわ」
「ふうん。なかよしだな」
なんでフレッド君は「なかよしだな」と言いながら悲しい顔をするんだろう。
母親が誰かと喧嘩をしていた思い出でもあるのだろうか。この子の口調は男性の真似だ。男性が近くにいる環境で育ったってことよね?
「ねえ、フレッド君、あなたはお母さんと二人暮らしじゃなくて、おうちに男の人もいたんじゃない?」
「だめだ。それはいえない」
「なぜ?」
「かあちゃんがいうなっていってた」
レクスさんがチラリとフレッド君を見て、私を見た。それからフレッド君に質問した。
「しゃべっても誰も怒らないよ。教えてくれないかな。君はお母さんと男の人と三人で暮らしていたのかな?」
「ほんとうにおこらないか?」
「怒らない。だってフレッドは何も悪いことをしていないんだから」
「かあちゃんのことも?」
「うん。フレッドのお母さんのことも怒らない」
そこからフレッド君がたどたどしく話をしてくれた。
フレッド君の父親は亡くなっていて顔も知らないこと。
母親が働いてフレッド君を養い、その間は近所の人たちの世話になっていたこと。
だけど母親に恋人ができて一緒に暮らすようになってから、「俺と結婚したいなら子供を施設に預けろ」と男がフレッド君の前で言ったこと。それから母親と恋人が激しい喧嘩になったこと。
母親が悩んでいたから、フレッド君は自ら施設に入ると言ったこと。
「かあちゃんが、だったらいいひとがいるっていった。きっとたすけてくれるって」
「それが僕の兄上か」
「うん」
そういうことか。酔ってフレッド君の家で眠ったマクシミリアン様は、フレッド君の母親に身元を知られていたわけだ。
私とレクスさんが黙り込んでいると、フレッド君が申し訳なさそうに謝った。
「うそついてわるかった。おれ、しせつにはいってもいい」
五歳の子供にこんなことを言わせちゃだめだ。私が保護されたときよりも事情が分かる年齢だけに、せつない。
「施設に行かなくていいの。私があなたを育てる。どこか部屋を借りて二人で暮らしてもいいと思ってる」
「いいのか?」
そこでレクスさんが私たちの会話を止めた。
「ちょっと待って。なんで二人がここを出るの。僕が冷酷な人みたいじゃないか。三人で暮らそう。この城は僕の物だから、安心して住めばいい」
「でも、ジェシカさんにこのままずっと通ってもらうわけには……」
「ジェシカにはもうしばらく通ってもらってからウィリアムに返そう。そのうちフレッドも一人でも遊べるようになるさ」
そうだけど、いつかははっきりさせなきゃいけないことがたくさんあると思う。いつかあなたの人生の重荷になるよ。私も、フレッド君も。
食事を終えてフレッド君が居間でお絵かきをしているから、それは言わない。あの子を無駄に傷つけたくない。そんな私の態度に、レクスさんは気づいていたようだ。
台所で食器を洗っているときに、小声で質問された。
「ニナはなにか悩んでる? 自分一人であの子を育てたい理由でもあるの? 君が怪我や病気をする可能性も考えてよ」
「レクスさんこそなぜ? お兄様の子じゃない可能性もあるのに」
「本当に兄の子じゃないって言えるかな。父親がいつ亡くなったのか、本当に病気で亡くなったのか、そもそも結婚していたのか。フレッドは何も知らないんだ。そこは兄が今調べてる。万が一兄の子なら、僕の甥だ。そうじゃなかったとしても、僕はフレッドを気に入っている」
だけど人一人を育てるのは、並大抵じゃない。手間もお金も。
そこまで考えて師匠を思い出した。師匠は私を引き取るとき、不安はなかったのかな。
「貴族は昔から、慈善行為として親のいない子を引き取って育てる人が多くいる。外の人間に対する説明はそれでいいじゃない。二人でなら育てられると思うんだけど」
「私も今の経済力だとこのお城に住めるのはありがたいですけど……」
「じゃあ、ここで育てるって結論でいいね? 僕はそのほうが助かる」
「そう……ですね。二人で育てましょう」
問題を先送りしているのはわかっている。でも今はここに住めるのはありがたい。
部屋に戻って天井を見上げた。天使が「今はそれでいいよ」とラッパを吹いてくれた気がした。