22 満月の夜の儀式
五月の二週目。今夜は満月。前回の満月の日に集めた夜露を捨てて、新しい夜露を集める日だ。
夜露を集めるのは、師匠に魔法を習い始めた六歳から続けてきた儀式だ。
部屋に渡してある洗濯ロープにはガラスの小瓶がぶら下がっていて、中には満月の夜の夜露が入っている。
私はついに惚れ薬も美肌薬も作れなかった。
それでもいつかはと満月の夜露を集め続けてきた。無意味とわかった今も儀式を繰り返す自分が、未練たらしく思える。
でも、今すぐ儀式をやめるほど諦めがついているわけではない。未練がましいのも私だ。
まあいい、夜露を集めても別に困ることはない、と自分に折り合いをつけた。
最近は朝食を食べ終えて食器を洗う時、レクスさんが毎回手伝ってくれる。食器を洗いながら話しかけた。
「今夜は満月なので、夜露を集めます」
「おっ。見学させてもらえるの?」
「ただ夜露を集めるだけですよ?」
「それでもいい。ぜひ見たい」
「では深夜三時に玄関へ集合で」
「了解」
そのまま私はバスに乗って仕事に出た。
今日の最初のお客さんは、近くのパン店の奥さん。
「私が貯めていたへそくりがないの。家族は誰も知らないって言うんだけど、誰が使ったかわかる? 黒い陶器の蓋つきの壺で、蓋を開けたら飴が入っていて、その飴の下に入れておいたんだけど」
「占いますね」
奥さんの手からザーッと流れ込んでくる大量の記憶から、黒い壺の記憶を探していると、あっさり見つかった。
奥さん自身が壺を手に取り、中からお金を取り出して帽子をかぶった男性にお金を渡している。
男性は笑っているし、奥さんもご機嫌だ。なにこれ。
奥さんの手を挟んでいた手を放して説明しようとしたら、怒涛の勢いで奥さんが私に問いかけてきた。
「ねえ、うちの旦那? 旦那じゃなかったら息子? 私のへそくりを取ったの、どっち? ぜったいどっちかよ」
「奥さんご自身ですね。帽子を被ったご老人に壺からお金を取り出して渡しています」
奥さんはキョトンとして私を見つめてから「ああっ! そうだった!」と叫んだ。
「私、お家賃を払うのに二階までお金を取りに行くのが面倒で、へそくりから払ったんだったわ。あははは。やあねえ。ありがとう! おかげですっきりしたわ。はい、これ占いの料金。あなた噂通りすごいわねえ。あちこちで評判になってるわよ。あっそうだ。昨日の残りのパンでよかったらたくさんあげるけど、いる?」
「ほしいです!」
「じゃあ取りにおいでよ。すぐそこだから」
こうして私は三人で三日分くらいのパンを手に入れた。
夕方家に帰り、パンを軽く温めて、肉と野菜をじっくりオーブンで焼いただけの『だけ料理』にした。
レクスさんもフレッド君も美味しいと言って食べてくれたから、師匠のレシピもまんざら捨てたものでもない。
空には満月が浮かんでいる。明るい庭を眺めてから、フレッド君と一緒に早く寝た。
そして深夜三時の少し前に目が覚めた。普段は熟睡している時間だけど、不思議と満月の夜は寝過ごしたことがない。
ベッドを抜け出し、テーブルに置いておいたガラスの小瓶を手に階段を下りた。
居間はシャンデリアの明かりがついていて、レクスさんは本を読んでいた。
「もしかして、寝ていないんですか?」
「うん。満月の夜に夜露を集めるのかと思ったら、もうワクワクして眠くならなかった」
「そうでしたか。では行きますか」
私とレクスさんはフレッド君を起こさないよう、静かに外に出た。
レクスさんは私の少し後ろを歩いている。
小さな畑の前で月と精霊に断りを入れた。精霊がいるかどうかはわからない。私は見たことがない。
それでも畑の前で目を閉じて心の中で月に語りかけた。
(今宵はレクスさんが参加します。いい人ですので参加をお許しください)
まず小瓶に入っている古い夜露を野菜の根元に撒いてから、「月の光よ、汝の力を我に与えよ」と唱えた。
それからそっと右手をニンジンの葉っぱに滑らせると、葉っぱに下りていた夜露は私の指先を伝わって滴り落ちる。それをガラス瓶で受けた。
レクスさんは食い入るように私の様子を見ている。
「こんな感じです」
「でもこれじゃ足りないんじゃないの?」
そうね。まだ十数滴。瓶の底を覆う程度。満月の光を浴びている場所の草なら何でもいい。
芝生の端に生えているライグラス、アカツメクサ、タンポポの葉っぱからも集めよう。
芝生の端に向かうと、レクスさんは黙ってついてくる。
葉の上で銀色に光る夜露を次々と集め、糸杉の葉からも夜露を集めた。
夜露を集め続け、やがて小瓶の口まで夜露が溜まった。
「これで終わり?」
「終わりです」
「次は新月の晩に水晶を洗うんだっけ? それも参加したい」
「いいですよ」
二人でお城に戻りながら不思議に思った。レクスさんはなぜこんなことに興味を持つのだろう。比較文学の研究のため? それとも恋愛小説のためかな。
「東の空が明るくなってきたね」
「レクスさんはこれから眠るんですか?」
「今は全然眠くないから、昼寝することになりそうだ」
「深い眠りを誘うことなら私でもできますが」
レクスさんの足が止まった。すごく驚いた顔をしている。
「魔法は使えませんけど、それならできるんです。私、人の脳に働きかけることが得意だから」
「ぜひ頼みたい。朝食はいらないから、ぐっすり眠りたい。誰かに眠らせてもらうなんて滅多に経験できないから頼むよ」
「お任せください」
小瓶を持ったままレクスさんの部屋に入り、レクスさんはパジャマに着替えることなくベッドへ横になった。レクスさんはメガネを外してサイドテーブルに置くと私を見た。
「よし、いつでもいいよ。お願いします」
「わかりました。では目を閉じてください」
レクスさんが目を閉じると、長いまつげが目立つ。前にも思ったけど、王子様みたいな品のある整ったお顔だ。
私はそっとレクスさんの額に手を置いて、心を集中した。
(深く眠れますように。もし夢を見るなら、楽しい夢を見ますように。疲れが取れたら気持ちよく目覚めますように)
レクスさんは目を閉じたまま口を開けて何か言おうとしたが、言葉を出す前に眠りに落ちた。
クゥクゥと寝息を立て始めたレクスさんの肩まで毛布を掛け、電気を消してから部屋を出た。
私はもう眠れないから、フレッド君が布団を蹴り飛ばしていないことを確認してから台所へ。
時間がかかる煮込みを作ろう。そのつもりで牛のすね肉を赤ワインに漬け込んである。
台所のかまどに石炭を入れて火をつけた。
ジャガイモとニンジンの皮を剥き、玉ねぎも切った。すね肉を大きめに切ってこんがりと焼き色をつけてから作り置きの鶏のスープに入れた。すね肉を炒めたフライパンに残っている脂はスープで洗うようにして鍋に入れた。
これから野菜が煮溶ける寸前になってすね肉がホロホロになるまで煮込む間、読書をしよう。
納戸からレクスさんの小説を持ってきて、ときどきアクを取りながら台所で読んだ。タイトルは『野の百合と金のゴブレット』
主人公は田舎から出てきた女性で、金のゴブレットが貴族社会に例えられていた。
数ページ読んだだけで、(これをレクスさんが?)と驚いた。
品のいい文章。情景が目に浮かぶような緻密な描写。
主人公の女性が故郷を捨てて都会へと機関車に乗る場面は、自分に重ねて読んだ。
美しい容貌の貴族男性と酒場で出会い、「また会えるといいね」と言われて別れるところまで読んだ。
「いい……すごくいい」
主人公の女性がまたあの人に会いたいと思うけれど、会って親しくなったところで身分が違いすぎて未来に展望がない。
絶望しながらも会いたい気持ちは抑えられない。揺れ動く気持ちの描写が繊細だ。
ローズ・モンゴメリーがレクスさんだと知らなかったら、作者は女性だと思い込んだだろう。
ときどき鍋の中の肉を確認しながら小説を読み続けた。
やがて肉が柔らかくなったのを確認して、火を止めた。
小麦粉をバターで炒めて塩を加えてから鍋に入れて煮込んだら、牛すね肉の煮込みが出来上がりだ。
レクスさんが「おはよう。おかげでぐっすり眠れたよ」と台所に入ってきた。
号泣しながら小説の山場を読んでいた私は、「おはようございます。もう目が覚めたんですね」と言って振り返った。