21 ローゼンタール伯爵家の食事会 ✤
レクスの実家であるローゼンタール伯爵家は、月に一度家族で食事をする。
レクスが家を出てから作られた習慣で、よほどのことがない限りレクスは都合をつけて夕食を共にする。
ローゼンタール伯爵家の屋敷は首都の端にある。
かつては小高い丘の上から広大な小麦畑と果樹園を見おろす屋敷だったが、今は違う。
屋敷の周辺を囲むそこそこの小麦畑とわずかな果樹園が残っているのみで、そのすぐ外側にはニューマネーと呼ばれる裕福な平民が流行りのデザインの家を建てて住んでいる。
彼らは売り出された土地を買って豪勢な家を建てて住んでいるにすぎないのだが、レクスの父レオポルド・ローゼンタール伯爵には「身分の低い連中に土地を奪われた」という思いがある。
もちろん人前でそんなことは言わないし、農地を切り売りしたのは自分だという自覚もある。
それでも、数百年間ローゼンタール家が守ってきた土地に、ニューマネーたちが我が物顔で住んでいるのは面白くない。
貴族が時代の波に乗り遅れた過去の主役であることを、頭ではわかっているが心が受け入れられないのだ。
レオポルドの手にはもう、「伯爵家の歴史」と「高い誇り」しか残っていない。
長い食卓テーブルに伯爵レオポルド、その妻フローレンス、長男マクシミリアン、その妻リリー、マクシミリアンの長男、長女、そしてレクセンティウスが着席して食事をしている。
「マクシミリアン」
「はい、父上」
「来月の食事会に参加できないと聞いたが、理由は何だ?」
マクシミリアンとリリーがわずかに緊張した。夫婦はその話題が食事会で出た場合を想定して、父親を怒らせない言葉を考えていた。
「リリーの父親がラグダールに行くので、同行します」
「ラグダール? 何が目的であんな羊しかいない田舎へ行くんだ?」
「ラグダールは今、人気の観光地になりつつあるのです。ストラドフォード商会がそこで観光ビジネスを展開するので、下見です」
ストラドフォード商会は大きな会社で、リリーの父親が代表である。
リリーの父はやり手のビジネスマンで、大富豪だ。ローゼンタール伯爵家が今も貴族の体面を保っていられるのは、リリーの実家からの援助があるおかげだ。それは家族のみならず世間が皆、知っている。
「そうか。熱心なことだ」
「ラグダールで事業を展開する際、私を責任者にしてくれるそうです」
「お前を? まさかお前に接客をさせようというのではあるまいな?」
「そういうこともあるかもしれません。高給を受け取る以上、望まれれば客の相手もします」
部屋が静まり返った。子供たちを含めた全員が「だめだ。そんなことをするな、みっともない」と反対されるのだと思った。
だがレオポルドは「そうか」と言うだけだった。
リリーが静かに息を吐いた。マクシミリアンがリリーに申し訳なさと労わりのこもった視線を向け、リリーが(大丈夫よ)という意味で小さくうなずいた。
食事は重い雰囲気のまま終わり、解散となった。レオポルドは自室に入り、残りの家族はティールームでお茶とお菓子を楽しんでいる。
伯爵夫人のフローレンスが安堵の表情でレクスに話しかけた。
「レクス、来てくれてありがとう。あなたがいてくれて心強かったわ」
「母上の頼みは断りませんよ。無事に終わってよかったですね」
「ええ。マクシミリアンからラグダールの話を聞いて以来、ずっと心配していたの。でも、レオポルドは案外簡単に受け入れたわね」
「父上は、反対すればどんな言葉で説得されるかわかっているんですよ」
リリーが、食事のときとは打って変わって明るい顔で会話に参加した。
「レクスさんがいてくれて、私も心強かったわ」
するとマクシミリアンがわざと目を丸くして驚いたふりをした。
「おや、リリー。頼りない夫ですまなかったね」
「あなたったら。そんなこと言っていないわよ」
兄夫婦は仲睦まじく、子供たちも両親に素直に甘えている。それはレクスが経験したことがない種類の雰囲気だ。昔の父は当主として家族に君臨していた。
リリーの両親も仲が良く、初顔合わせの席でレクスは(世の中にはこんな仲睦まじい夫婦、威張らない夫がいるのか)と驚いたものだ。
「レクスさんのアシャール城に、一度お邪魔したいわ」
「いつでも見に来てくださいと言いたいのですが、今、滞在客がいるので、少しお待ちください」
「いつでもいいの。楽しみにしています。子供たちも行きたい行きたいって、ずっと言っているの」
それまで大人しくしていたマクシミリアンの娘が待ってましたとばかりに口を開いた。
「レクス叔父様、必ず招待してくださいね? 私、お友達に自慢してしまったわ」
「とても小さなお城だよ。この屋敷のほうが立派だけど?」
「小さくてもお城なんでしょう? この陰気な屋敷よりいいわ」
「エミリア! そんなこと言うものじゃないわよ」
「ごめんなさいお母様」
にこにこと会話を聞いていたレクスの母も、「私のことも招待してね?」と可愛らしく頼んだ。
「わかったわかった。いずれみんなを招待するよ。そうだ、兄さん、ちょっと投資のことで相談したいことがあるんだ。いい?」
「いいよ。私の部屋に行こうか。母さん、リリー、失礼するよ」
兄弟は書斎に入り、二人同時にため息をついた。
「レクス、本当にすまないと思っている。フレッドは元気にしているかい?」
「元気そうには見えますが、あの子なりに気を使っているようです。あの子の母親は見つかりそうですか?」
「人を使って捜しているが、部屋を引き払っていて行方がつかめない。もうしばらく預かってもらえるだろうか」
「フレッドはニナによく懐いていますし、大丈夫ですよ。僕は彼女の善意に甘えています。それと、ウィリアムがフレッドのためにメイドを貸してくれています」
マクシミリアンがすまなそうな顔になった。
「そうか。メイドの費用は必ず負担するから請求してくれ。ウィリアムとニナには礼をしよう。ウィリアムは事情を知っているのか?」
「ええ。ウィリアムにフレッドを見られたので説明しました。あいつは口が堅いから心配は無用です」
「そうか……。ありがとう、レクス。二人には感謝していると伝えてほしい」
「それより兄さん、母上を頼みますね」
「ああ、それは心配するな。父上も最近はだいぶ丸くなったんだよ」
「そうみたいですね」
(ニナは『心の傷もレクスさんの一部です』と言っていた。だが僕はいい年になっても、いまだに横暴だった父を許せない)
その頃、フローレンスは夫の書斎を訪れていた。
「あなた、ワインを運ばせましょうか?」
「いや、いい。マクシミリアンは商人まがいのことをするのだな」
「最近はどこの貴族も働いていますわ。ハルフォード侯爵家だって観覧料を取って別荘を一般公開している時代ですもの」
「はぁ……。伯爵家の長男が平民に頭を下げるなど、父が生きていたら卒倒するな。父はこんな時代を知らずにあの世に行けて、幸せなことだ」
「あなたったら」
フローレンスがレオポルドに近寄り、夫の手に自分の手を重ねた。
「求婚してくれた時、『君を一生幸せにする』と約束してくれたではありませんか。私より先に旅立つのは約束を破ることだわ」
「君を裕福な貴族の妻でいさせてやれなかった」
「大邸宅に住んで、負債もない。可愛い子や孫。愛する夫。私は十分恵まれています」
レオポルドが妻の手を握った。
領地を切り売りしなければならなかった頃、レオポルドは毎日のように妻に八つ当たりして怒鳴り散らした。息子たちにも、今思えば酷い八つ当たりをした。
ある日、フローレンスと目が合った瞬間、彼女が反射的に怯えた。レオポルドは(このままではフローレンスまで失う)と悟り、目が覚めた。レクスはもう、レオポルドに嫌悪の目しか向けなくなっていた。
自分に心から寄り添ってくれるのは、もうフローレンスしかいない。
二人の息子はもう、流れが変わった川の向こう岸にいる。自分が立っているのは、干上がった古い川床だ。
「私に残された最後の財産は、君だけだな」
そう言ってレオポルドはニューマネーたちの家並みに目を向けた。