17 己の道を作るレクスさん
ウィリアムさんは「うちに書いてくれるんだな? さっそく上に話を通すぞ。絶対に書いてくれよ⁉ 約束だぞ? できれば甘い話を頼む」と嬉しそうだ。そして私を見て「今度は観劇に行かない?」とついでに誘ってきた。
「劇場に着ていく服がないので、残念ですが遠慮します」
「服も買ってあげるよ」
「いえ、さすがにそれは……」
レクスさんがゆらりと立ち上がった。
「おい、ウィル。ニナが迷惑がってるだろう。しつこくするな」
「わかった、わかったって。なんでそんなに怒るんだよ。ごめんねニナ。レクスのせいで君を劇場に誘えないや」
洋服を買うところからってのが面倒くさいんで劇場はいいんです。
それにたまにおしゃべりするコリンヌさん情報だと、服に合わせて靴とバッグも買わなきゃならないらしいから行かなくて済むのは助かります……とは言えないので「ご心配なく」とだけ答えた。
私は今、魔女になれないなら別の何かとして成長したい局面なんです。
遊んでいる余裕がありません。
「かあちゃん」
フレッド君が寝言を言った。お母さんの夢を見ているんだね。
「ウィリアム、この子の世話係を明日派遣してくれるか?」
「任せてくれ。始発のバスで来るように言っておく」
「八時に来てくれたら十分だ。それでいいかな、ニナ」
「私がお城を出る九時半で十分です。私が帰ったらメイドさんはお返ししますので」
「助かるよ、ウィル」
「お安いご用だ。俺たちの仲じゃないか」
ウィリアムさんは「レクスの気が変わらないうちに帰る」と言って急いでお城を去った。
静かになった居間で、私とレクスさんはフレッド君の寝顔を眺めた。
「ニナ、教えてほしい。この子は五歳だそうだけど、うちに預けられた記憶は残るだろうか」
「母親に恋人ができたことと、そのせいで見知らぬ家に預けられたことは記憶に残るでしょう。だったらそれを思い出すたびに楽しい思い出も一緒に思い出せるよう、いい思い出をたくさん作ってあげればいいと思います」
「それがいい。それで……この子を今夜どこに寝かそうか」
「数日は私が一緒に寝ます。見知らぬ場所で心細い思いをさせたくないので」
レクスさんが「そうだよね。さぞかし心細いだろうなあ」とつぶやいてしんみりしている。
「僕が一緒にいてやるべきなんだろうけど、その……僕は子供の相手をしたことがなくて。この子は君の方が気楽だと思うんだ」
「ええ。お母さんを恋しがっているから、私の方がいいと思います」
レクスさんは「確かに」と言ってフレッド君を抱えて階段を上がっていく。レクスさんが私の部屋に入るのは、顔合わせをした日以来だ。私の部屋を見て驚いている。壁から壁へと渡した洗濯紐に、様々なものがぶら下げられているからだ。
レクスさんはフレッド君をベッドに寝かせ、紐からぶら下がっている小瓶を指さした。
「このガラスの小瓶に入っているのは……何かな」
「満月の夜に集めた夜露です。使い道は色々ですが、魔法薬を好みの濃度に薄めるときなどに使います」
「藁で編んだ小さなカゴに入っているのは?」
「新月の夜に新鮮な井戸水で洗った水晶です。願い事を叶える魔法を使うときに使います」
「吊るしてある青いレモンは?」
「皮を料理に使います」
「ふふっ。レモンは魔法に関係ないんだね」
笑われたのが微妙に恥ずかしい。確かにごちゃまぜだ。
「台所は温かくて湿気があるから、レモンがカビやすくて。そ、それに、いい匂いですし。レモン以外はどれも魔女の嗜みとして備えておくものです。私にはもう関係ないと言えば関係ないんですが、長年の習慣なのでぶら下げておくと落ち着くんです」
この部屋には丸テーブルと椅子とベッドと飾り棚しか家具がない。
飾り棚は小さくて、野菜や香草の花を飾ってある。
読み書きする時に使うテーブルには物を置きたくない。
結果、物をぶら下げるという保管方法を取っている。これは師匠の家にいる時からやっていた。
見た目は……よくないけど。
「今度夜露を集めるのと水晶を洗うのを見学したい。ダメかな?」
「誰が見ていても関係ないので、大丈夫です。小説の参考にするんですか?」
「うん、そんなところ。儀式をする時は、ぜひ声をかけてほしい。じゃ、おやすみ」
「おやすみなさい、レクスさん」
フレッド君の隣に潜り込んでから(シャワー浴びてない)と気がついた。
顔を洗って歯磨きだけでもしなくてはと、仕方なくもう一度起き上がった。
部屋を出て右手の行き止まりがレクスさんの部屋。少しだけドアが空いている。レクスさんは几帳面なようでいてドアをきっちり閉めないことが結構ある。
今、その隙間からタイプライターを叩く猛烈に速い音が聞こえてくる。
レクスさんが投資家として優秀なのは生活に追われていないことでわかる。
小説家としても売れっ子だ。モーダル村にも熱心なファンがいたくらいだし、ウィリアムさんと鉄道会社がレクスさんの作品を欲しがっている。
レクスさんの部屋の手前、左手に階段がある。階段を下りながら(レクスさんはいろんな才能に恵まれているな)と思う気持ちを、心の箱に入れて蓋をした。レクスさんはレクスさん。私は私だ。
このジメジメした気分を変えたい。贅沢にシャワーを浴びよう。
熱いシャワーを浴び、シダー・ウッドの香りの泡で体を洗いながら、ボイラーのことを思い出した。
私、ボイラーに一度も石炭を補充していない。レクスさんがこまめに補充してくれているんだ。
昨日気づいたけど、使わない部屋のラジエーターはバルブが閉まっていた。もちろん閉めたのはレクスさん。使用人に囲まれて育っただろうに、よく気がつく。
もっと思い出した。
初対面の日、レクスさんはお城を出て行こうとした私に、知り合いがいるのかと心配してくれた。
私がお城の中を掃除していたことに気づいてくれた。
ここに住むことを許してくれた。
私が師匠に申し訳ないと苦しんでいたら、「ありがとうございました、でいい」と言ってくれた。
お兄さんが困るから、フレッド君にもめごとを聞かせたくないからと、フレッド君を預かった。
レクスさんは生まれ持った才能だけでスイスイ生きているわけじゃない。
レクスさんは努力家で、周囲にいつも目を配っていて、困っている人に手を差し伸べている。
普段の配慮や優しさや努力があって、今の順調な日々があるのかもしれない。
私も自分が進む道を自分で作っていこう。
どれだけ努力しても魔法は使えなかったけど、魔女以外の何かになれる可能性は、まだある。
今持っている力を伸ばして何かになろう。何かになりたい。
師匠、そういうことですよね? 私、物語を読み進めますから。
まずは、もっと腕を磨く。そして自分の道を作って歩くのだ。
部屋に戻ったらフレッド君がぐっすり眠っていた。
フレッド君の柔らかな髪にそっと触れた。
大丈夫。私の人生も、君の人生も、なんとかなるよ。
フレッド君の隣に滑り込むと、フレッド君がむにゃむにゃ言いながら私にピタリと寄り添ってきた。
この子だって、親に見捨てられても古城での暮らしに馴染もうとしている。
妙にやる気が湧いて、前向きな気分で眠りに就いた。今日も自分で自分の機嫌をとれた。